私は一度だけ、路上生活者を車に乗せた事がある。
信号待ちで止まってると、いきなりドアを開けて乗り込んできた。男の強烈な悪臭に圧倒され、断る言葉すら思いつかなかった。
決して悪い人じゃなかったが、私の身体は一瞬にして無数のシラミに覆われ、全身が痒くなりだした。野良猫も生臭いが、ここまでは酷くはなかった。
とにかく臭いが半端じゃない。悪臭という次元を遥かに超えていた。玉ねぎが腐ったとかいう、それ以上のレベルだった。
それに悪臭だけなら鼻を閉じてれば何とかなるが、男の身体中に棲み付いてるバイ菌群がいきなり襲ってくる感じだった。新型コロナだって一瞬にして死滅する(だろう)程に強烈だった。
男は、青ざめた私の顔を見て、気を利かしたのか、5分ほどで(多分)すぐに降りてくれた。
そう、彼は悪い人じゃなかった。もし悪い人であれば、刃物を突きつけて、小銭を奪って逃げ去るだろう。
それ以来、政府は路上生活者を収容する施設を作るべきだとつくづく思った。集団部屋で雑魚寝でもいいから、せめて身体を洗う施設は必要だと思った。
そういう私も契約社員で営業をやってた頃、殆ど稼ぎがなく車中泊をしていた。ネクタイとワイシャツのボタンを外し、図書館で休憩してると、ホームレスに間違えられた事もある。
だから、路上生活者の追い詰められた悲惨な状況は、少なからず解ってるつもりだ。
図書館に立てこもるホームレス
「パブリック 図書館の奇跡」(2018)を見た。
”ホームレスが図書館に立てこもったら”という設定での貧困と格差をシリアスに描いた作品だが、奇抜で滑稽でもある人間ドラマでもある。
凍死者が出るほどの大寒波が訪れた米オハイオ州シンシナティ。政府が用意した緊急シェルターが満員になり、行き場を失ってしまった約70人のホームレスたちは救いを求め、図書館に大挙し押し寄せる。
図書館職員のスチュアートは立場的にはホームレス達に占拠された“被害者”側だが、寒波で仲間を失った彼らの苦悩を知り、人道的な立場から立てこもりに加担する。
そう、彼もまた数々の前科を持つホームレス経験者であったのだ。
危険人物として警察隊に取り囲まれたスチュアートは、図書館内に立て籠もったホームレスたちの苦しくも虚しい心情を、「怒りの葡萄」の一節を使って読み上げる。
”腐敗の臭いがこの土地に満ちわたる。
飢えた人々の目には、募る怒りがある。
告発してなお足りない犯罪がここでは行われてる。
泣く事では表現できぬ悲しみが、ここにはある。
我々の全ての成功をふいにする失敗が、ここにはある。
人々の目には失望の色があり、腹を減らした人たちの目には、湧きあがる怒りがある。
人々の魂の中に<怒りの葡萄>が実りはじめ、収穫の時を待ちつつ、次第に大きくなってゆく"
映画自体は、「怒りの葡萄」ほどまでにズシンとくるのもなかったが、この一節を見て、昔書いたレビューを思い出した。
「怒りの葡萄」〜怒りこそが生きてる証だ
国道には渡り人で溢れ、彼らの目には飢えと困窮の色があった。主張も組織もなく、数と貧窮だけがあった。
”これからどうするの?”
”そんなことはわからない”
しかしそれで良かった。女達は胸を撫で下ろし、男たちの顔からは途方に暮れたまごついた表情が消え、怒りの籠もった負けん気が現れた。
男たちが心身ともに健やかであれば、どんな不運にも耐えられる事を女達も子どもたちも心の底で知っていた。
つまり、貧しさは飢えを生み出し、怒りに変貌する。憤ってる間は決して挫けない。健全な怒りこそが生きてるこその証である。
人間に残された確かな機能。それは働く事を渇望する肉体と創る事を渇望する頭脳である。これこそが人間である所以なのだ。この2つがあれば決して挫ける事はない。
人は自分が成す事を超えて成長する。自らの観念の階段を登り、成し遂げた物事のずっと先に姿を表す。人がある考え方の為に、苦しんだり死んだりしなくなったら怖れるがいい。
何故ならこの資質こそが、人間の唯一の礎であるからだ。
スタインベックを初めて読んだ、噂以上の作品だった。
エミール•ゾラ風に解説すれば、”カリフォルニアの渡り労働者の惨状を精巧な鋳型にかき集め流し込んだ作品で、誰が何と言おうとこれが現実だし、神の掟なのだ”という事になろうか。
スタインベックは1940年にピューリッツァー賞を受賞するも、「怒りの葡萄」は賛否両論を引き起こす。
社会主義文学として事実を捻じ曲げてると非難され、舞台となったオクラハマやカリフォルニア州の図書館で禁書扱いされ、「図書館の権利宣言」(知的自由を守る権利)が生まれた。
因みに、「パブリック 図書館の奇跡」のタイトルもこうした歴史から来てる。
屈辱と飢えと死の連鎖
この作品に登場するジョード一家は、干ばつと激しい砂嵐と資本家の搾取で故郷を追い出された農業難民だが、決して非道徳ではない。彼らが生きた苛烈な環境と貧困と皮肉な運命とのせめぎ合いが彼らを毒するも、逆にたくましくする。
しかし、物事には限度がある。事実、アメリカ中西部の農業難民は350万人を超えたとされる。
挙句の果ての屈辱と飢えと死の連鎖。
これこそが生きる教訓である。主人公のトムが言う様に、"オレでは生き延びれない、俺たちでは生き残れる"
怒りも束になれば時代を変える。追い詰められた人間は怒りと渇望に支配され、その感情こそが人間の礎であり、支えとなりうる。
この作品の99%は、濃厚で壮絶な負の連鎖が支配する。しかし、最後の僅か1ページのエンディングでは、死産に落ち込む娘シャロンが餓死寸前の老人に母乳を与える。
これ以上のラストは、至福なエンドロールは何処にあろう。
タイトルがタイトルなだけに物議を醸しそうだが、”葡萄"とは神の怒りによって踏み潰される人間を意味する。そして、その怒りに支えられ、彼らは生き延びていく。
悪い方向に考えたらきりがない。神の怒りに触れたんだから、前へ進むしかない。そうやって今のアメリカが出来上がった。
昨今の平和ボケした日本人が、ぜひとも読むべき作品だ。
この作品の凄い所は、延々と続く濃厚な負の連鎖と素朴なエンディングという見事な対称性にある。
1930年代末に発生した干ばつと機械化を推し進める資本家により、故郷のオクラホマを追われカリフォルニアに移っていった、貧困農民層との軋轢闘争を素材とした小説だ。
彼らは、今の貧困層の黒人と同様に、どこへ行っても搾取と差別を受ける。
しかし、彼らには生きるという本能が怒りを超えてるようにも思えた。
登場人物は誰もがリアルに繊細に描かれ、皆が皆それぞれに個性的で彩りも鮮やかだ。
最後に〜過酷の果てに描いた夢
この作品は決して貧困層の、絶望の淵を迷う残酷な虚しい実像を描いただけの作品ではない。ある者は夢を追い、ある者は自らのスキルを職に活かそうとする。そして、ある者は愛に生きようとする。
一人一人に創造力が備わり、自暴自棄となる事もなく、盲目に地獄に突き進む訳でもない。
こうした一連の貧困農民のオレゴンへの移住には、1841年の土地先倍権法により、殆ど無償に近い値段でオレゴンの土地が手に入る事が起因にもなったとされる。農業に従事するという条件で、妻帯者には260ha(約東京ドーム56個分)、独身者には130haが与えられた。
オレゴンへの移住は、まず女を変えた。ビクトリア調式の家庭的な女性が男性の様に逞しくなった。女性が男性の仕事を覚え、家庭内の仕事以外に喜びややりがいを覚えた事は大きな収穫だった。そして、弱り果てた夫や男たちを支える様になったのだ。
「怒りの葡萄」のジョード一家の10人の大所帯を仕切る母親も、同じ様な形で描写されている。
こうした苦難と絶望の逃避行の中で、彼らや彼女らが生きがいや夢を追いかける様は、スタインベックの独特の絶妙な描写も手伝ってか、偉大な作品を支える大きなバックボーンとなっている。
日本人だったら、自暴自棄になり盲目的に自分を見失う所だが、彼らや彼女らは追い詰められる程に創造力を発揮する。
「怒りの葡萄」も「パブリック 図書館の奇跡」もある意味、追い詰められた人間たちの逞しい創造力を描いた作品なのかもしれない。
これなんですよね、日本人が最も欠けてるのは。というより全く欠けてる。
逆に、引継ぎと暗記なんですよ日本は。
だからちっとも変わらない。同じこと延々とやってる。
特に政治家なんかそうですね。
コメント有り難うです。
想像力と思考力の欠如
これに尽きる
”右へ倣え”は単なる従属契約(奴隷)で
”自分ファースト”は単なるエゴ(強欲)。
どちらも創造力とは別モンです。
もし最悪どちらかを選べとしたら、今の時代の無能な指導者なら後者ですか。でもプラトンの言う超優秀な指導者なら前者になります。
小説「怒りの葡萄」では様々な人物が登場し、皆が皆個性的です。苦難苦行の物語に見えますが、その中にユニークでカラフルな色彩を織りなすスタインベックの感性と創造力には頭が下がります。
映画「パブリック」の中では、若い女性職員が「怒りの葡萄」の一説を知らない無知なTVレポーターに、”10代の必読書よ”って囁きます。
そういう私も子供の頃は本を殆ど読みませんでした。故に、疑う事を知らないままお人好な日本人になった。
今の日本人に”創造”という言葉の真意を理解する人がどれ程いるのだろうか?
確かに日本人の「右へ倣え」は政治家の言いなりになってしまう欠点がありますが、アメリカ人の自分ファーストには別の大きな欠点があります。それは際限のない私利私欲の戦いです。私はそれは創造力とは別物だと思います。
でないと、無能な政治家に我ら日本国民はナメられきってますから。
それに、「怒りの葡萄」は映画よりも小説を読むべきですね。映画で再現するのは不可能かも。
しかし、昨今のアメリカは創造力の欠如が目立ちますが、それがとても心配ですね。
前者は差別や格差という現実で、後者は過酷な状況を生き抜く勇気と創造力。
”格差社会・・・”というタイトルは、”逞しい創造力・・・”とした方がいいですかね。
でも映画の幕切れはあんまりでした・・・
しかし、映画パブリックではホームレスが皆素っ裸になるという意味不明?の幕切れで、最後の最後で裏切られた感がしました。
これじゃ何のための人権(パブリック)なのかな?って・・・
映画のピークを怒りの葡萄の一節に持ってきた時点で重い荷物を背負いすぎた気もします。
転んだサンが言う<追い詰められた人間の逞しい創造力>を描きたかったんでしょうが、時代が違いすぎたんでしょうかね。
スタインベックが言いたかったのは、アメリカという国が差別や迫害を恐れずに、怒りを原動力とし、その中から湧き出る創造力を如何なく発揮し、今の世界一の超大国を作り上げたかという事です。
ここら辺がアメリカと日本との決定的な相違で、彼らは差別が神の掟ならと、自分たちで全知全能の神を創り、それを乗り越えたんです。
”俺では何も出来ないが、俺たちでは成し遂げられる”と言ったのもそれですね。
これが日本だと”差別はいけません”と、それだけで終わる。それでも日本は単一民族だから平和ボンボンで生きれるんですが。