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高木貞治とその時代”その2”〜ガウスの代数的整数論と、その歴史

2024年08月01日 06時09分45秒 | 数学のお話

 前回「その1」では、高木貞治氏の研究の中核をなす”類体論”と、その基本定理である「高木の存在定理」について述べました。
 自分では、結構掘り下げて書いたつもりですが、見れば見る程に穴がある。寄せられたコメントにも、それらを補足するものが目立つ。
 そこで、前回のおさらいを兼ねて、「数の概念」と「近世数学史談」(共に高木貞治著)の解説を参考にし、類体論とその「存在定理」を振り返ってみます。


前回の補足〜高木類体論とその「存在定理」

 高木氏が「存在定理」を発見・証明したのは第2次世界大戦中の1915年の事で、国際数学会議で発表したのは1920年の事でした。
 一方で、「アルティンの相互法則」が確立されたのが1924〜30年の事だから、「高木の存在定理」を補間し、結果的には2つの定理が類体論の完成に導いた事になる。
 因みに類体論とは、”一般化されたイデアル類群とアーベル拡大は1対1に対応する”と要約できるが、一方で、「高木の存在定理」とは、アーベル拡大と合同イデアル群の1対1対応を主張し、”代数体K=Q(α)の任意の合同イデアル群Hに対し、H=Hₘ(L/K)なる様なアーベル拡大Lが存在する”との定理でした。

 この「存在定理」を含む、高木類体論の論文の正式名は「相対アーベル数体に対する一般論」である。故に、厳密には(一般ではない)特殊なケースが存在する。
 つまり、類体論の存在定理の特殊な場合では、一般化されたイデアル類群はKのイデアル類群であり、"Kの拡大体L/KがKの全ての素因子で不分岐である様なKのイデアル類群に同型なガロア群G(L/K)を持つアーベル拡大Lが一意に存在"する。こうした拡大を”ヒルベルト類体”(=絶対類体)と呼ぶが、フルトヴェングラーが1907年に証明していた。
 この特別な性質は”元々の代数体Kのイデアルはヒルベルト類体へ引き戻すと主イデアル(単項イデアル)となる”というもので、これもフルトヴェングラーとアルティンにより証明されていた。

 因みに、ヒルベルトは”類体は不分岐だ”と予想したが、高木氏はもし”類体が分岐であったら”との類体の一般論に置き換えた。
 つまり、ヒルベルトの類体論から”不分岐”を捨て去った結果、”任意のアーベル体は類体なり”という「存在定理」の発見に繋がったのだ。
 確かに、不分岐の場合はフルトベンクラーが証明してたから、その影響もあったのだろう。だが、一般の代数体に対し特別な性質を持つアーベル拡大体で、類体と呼ばれるものを定義したH・ヴェーバーの影響も大きかった。
 その直後、ヒルベルトはヴェーバーの類体の中で特別なものを取り上げ、”ヒルベルト類体”と呼ぶ主要な性質を予想した。その1つが”絶対類体は代数体K上不分岐”である。

 一方で高木氏は、”アーベル拡大=類体”という類体論の基本定理、つまり(特殊ではない)一般的な「存在定理」に到達したが、この存在定理にアルティンの「一般相互法則」を使えば、”一般化されたイデアル類群(Iₘ/H)とガロア群G(L/K)がアルティン写像により同型となる様な代数体Kのアーベル拡大が存在する”と精密化出来る。
 今では、「高木の存在定理」は類体論の中の1つの定理とみなされてるが、「ヒルベルト類体」という特殊なケースを一般化したら、類体論の基本定理に帰着したという皮肉である。
 因みに、高木氏の類体は(一部の精密化を除き)、ウェーバーと基本的には同じである。が、技法的には、一意性定理→存在定理(同型定理を含む)→分解法則を順に証明し、最後に自身が”基本定理”と名付けた「存在定理」へと辿り着く。
 まず、一意性定理とは”Kの合同イデアル群H=Hₘ(L/K)を1つ与えた時、Hに対するK上の類体は唯一に限る”との事だ。次に、(同型定理を含む)存在定理とは”代数体Kの任意の合同イデアル群Hに対し、K上の類体Lが存在する”事で、その中の同型定理とは”Kの法mの合同イデアル群Hに対するK上の類体Lに対し、ガロア群G(L/K)は合同イデアル類群Aₘ/Hと同型になる”との事です。
 更に分解法則ですが、”Kの素イデアルがHに対する類体L上では、どの様な形に素イデアル分解されるのか”を示す定理で、その分解のタイプは合同イデアル類群(剰余群)Aₘ/Hの各剰余類に含まれる全ての素イデアルに対し、同じ形になる。この事から”類体”という名が生じたとされる。
 但し、以下でも触れるが、整数環Oのイデアルmの素因子を含まない”分数イデアル”(≠0)全体が作るAの部分群をAₘ(⊃H)とする。故に、Aₘ/Hは剰余群になる。
 最後に、「高木の存在定理」である”代数体Kの任意のアーベル拡大体Lは、Kのある合同イデアル群H=Hₘ(L/K)に対する類体である”との結論に達します。


類体と合同イデアル群と分数イデアル

 因みに、前回「その1」で説明を飛ばした”合同イデアル群H=Hₘ(L/K)”ですが、類体との関係について少し触れる事にする。
 まず代数体Kにおける”分数イデアル”とは、Kの整数環Oの整イデアルIを、Kのある元μ≠0で割ったM=I/μの形の集合の事で、分数イデアルの全体はイデアルの積により可換群Aを作る。
 また、分数イデアルは整数環Oの整イデアルIの商(分数)として表せるから、デデキントの(素イデアル分解の一意性を満たす)基本定理より、素イデアルの(正又は負の)べきの積として一意的に表される。これは”全ての分数イデアルが単項イデアルである”事を意味する。
 但し、分数イデアルとは”分母が許されたイデアル”の様なもので、ここでは通常のイデアルを分数イデアルと区別する為に”整イデアル”とする。

 一方、単項イデアル全体の作るAの部分群Sによる剰余群A/Sは有限群である。
 これを一般化するのだが、まずKの整数環Oのイデアルmを1つ定め、mの素因子を含まない分数イデアル(≠0)全体の作るAの部分群をAₘとする。そして、α∈Kをα=β/γ、β,γ∈Oと書く時、β−γ∈mとなる様なαに対する単項イデアル(α)全体の作るAₘの部分群をSₘとする。つまり、単項イデアル(α)とは元αを含む最小のイデアルとなる。
 この時、Aₘ⊃H⊃Sₘなる任意の部分群Hをmを法とする”合同イデアル群”と呼び、剰余群Aₘ/Hを”合同イデアル類群”と呼ぶ。但し、Aₘ/Hは有限アーベル群である。
 いま、代数体Kの整イデアルmを法とする合同イデアル群を1つ与えた時、Kの有限次拡大体Lが次の条件を満たす時、ヴェーバーは”LはHに対するK上の類体である”と定義した。但し、その条件とは”Aₘに含まれる素イデアルPの絶対次数が1の時、Lの素イデアルPIₓが相異なる1次素イデアルの積となる為の必十条件はP∈Hとなる”事である。

 勿論、これだけでは何を言ってるのか?サッパリである。
 まず類体とは、あるイデアルm∈OがH=Hₘ(L/K)となる様な拡大体L/Kであり、素イデアルの分解がmで割った”余り”による類別から判る様な拡大体の事である。但し、”余りによる類別”とは(以下で述べる)平方剰余の相互法則による分類となる。
 更に、「高木の存在定理」により、類体はアーベル拡大体となる。つまり、L/Kは類体となるが、LはK上の類体とも言う。
 ここら辺は少し専門的になりますが、”合同イデアル群”という言葉は、類体論でしばし登場する。勿論、それら詳しい概念を知らずに話を進めるのも気が引けるが、イデアル論に関しては以下でも説明しますので、ここでは大まかな理解と確認をです。


ガウスと代数的整数論の歴史

 元々高木氏の研究の中心は、代数的整数論の中の類体論、又は”相対アーベル体論”と呼ばれるものだ。学位論文の虚数乗法論は相対アーベル体を構成する問題を扱うのだが、類体論を説明する前に、まず整数論の歴史を振り返る事にする。
 まず代数的整数論とは、代数的な方法で整数論を研究するのではなく、”代数的整数”を対象とする研究である。この代数的整数というのは、通常の整数:0,±1,±2,...(区別する為に”有理整数”とも呼ぶ)を拡張したもので、この有理整数を係数とする代数方程式で最高次の項の係数が1となる方程式の解となる複素数(実数を含む)の事である。
 例えば、2つの代数的整数α,βの和,差,積は代数的整数となるが、商はそうとは限らない。これは、商α/βは整係数代数方程式の解となるが、最高次係数は1とは限らないからだ。
 1つの代数的整数αの有理係数分数式の全体Q(α)は、(0で割る以外の)四則演算で閉じている。このQ(α)の形の集合Kを代数体といい、Kに含まれる代数的整数全体の集合をOとする。つまり、代数的整数論で研究するのは、この代数体K=Q(α)と整数環Oの性質である。 
 この様な研究を最初に始めたのはガウスだが、自著「整数論研究」の主要テーマの1つは平方剰余法則であったが、ガウスは更に4次剰余相互法則を考える為に、”ガウス整数”と呼ぶm+ni(m,n:有理整数Q)の形の複素数を導入した。 この時、K=Q(i)となり”ガウス数体”と呼ぶ。だが、i(=√(−1))は1の4乗根(1=i⁴)であり、有理整数Qには属さないので、K=Q(i)では4次剰余相互法則を上手く説明できないのだ。
 因みに、以下で述べるが、ガウス整数全体の集合をガウス整数環と呼び、Z(i)={m+ni|m,n:有理整数環Z}で表す。故に、Z(i)はガウス数体Q(i)の整数環Oであり、典型的な代数体である円分体や2次体の1種なので、ガウス整数環は代数的整数論における最も基本的な対象の1つとなる。

 そこで、ガウスの記事でも書いたが、平方剰余や相互法則を簡単におさらいする。
 まず、1つの整数m≠0を決めた時、2の整数a,bの差a−bがmで割り切れる時、”aとbはmを法(mod)として合同”といい、”a≡b mod(m)”と記す。更に、整数n>0,aと素数pに対し、”xⁿ≡a mod(p)”を満たす整数xが存在する時、”aは法pのn次剰余”となる。
 例えば、n=2の時、ルジャンドル記号(a/p)=1の時、aは法pの”平方剰余”で、(a/p)=−1の時、aは法pの”非平方剰余”を用いると、平方剰余の相互法則は、p,qを互いに異なる任意の奇素数とすると、(q/p)(p/q)=(−1)^{(p-1)/2)(q-1)/2)}が成立する。
 故に、qが法pの平方剰余かどうかは、逆にpは法qの平方剰余か?否か?で直ちに判る。
 例えば、p,qも4n−1の形の時、(p-1)/2も(q-1)/2も奇数で、(q/p)(p/q)=−1となる。ここで、p,qが相異なる奇素数より、(q/p)=1又は−1となり、(q/p)²=1を(q/p)(p/q)=−1の両辺に掛けると、(p/q)=−(q/p)を得る。また、その他の時は(q/p)(p/q)=1となり、同様にして(p/q)=(q/p)を得る。従って、平方剰余の相互法則は、(p/q)=(q/p)又は−(q/p)と書き換える事が出来る。


最後に〜数学は帰納的であるべきだ

 前回のおさらいのつもりでしたが、長くなりすぎたので、ここまでにします。
 次回も整数論から類体論へと繋がる歴史の流れとして、ガウスを受け継いだクンマーとデデキント、更にクロネッカーを受け継いだ高木氏の類体論へと話を進めます。

 因みに、「近世数学史談」の解説を杉浦光男氏が担当されてるが、難しい事を非常にシンプルに纏めてあるのは嬉しい限りである。
 高木氏が語る様に、数学は難しいだけの学問であり、数学史は正確な記録ではあるが無味乾燥な読み物である。が、数学史論は各人様々で、面白い議論であるべきだ。
 つまり、数学が難しいだけではなく面白い学問である為には、それを紹介する数学者が個性溢れるユニークな人間であるべきである。
 そういう意味では、「近世数学史談」は私の数学のバイブルと言っていい。故に、読むほどに色んな味わいや情景を与えてくれる。

 例えば、ガウスは”数学は帰納的であるべきだ”と言い、”特殊から一般ヘ”はその標語となった。更に”数学が演繹的であるというのは当り前の事だが、既成の数学のみに通用する事であり、演繹のみから新しいものは生まれてこないのも当り前の事だろう・・・我々は空虚なる一般論に囚われてないで、帰納の一途に精進すべきではないか”と語った。
 事実ガウスは、1951年にコーシーが到達した関数の基本定理「コーシーの積分定理」を40年も前に秘蔵していた。つまり、ガウスは帰納的手法で、この基本定理を発見していたのである。 
 また、レムニスケート関数s(u)をs(u)=P(u)/Q(u)とテータ関数の商(分数)に書く時、P(u)やQ(u)は無限積で表せるが、ガウスは無限積を無限級数に書き直した。
 無限積を無限級数に変形する方法は、現今の楕円方程式論で容易に導けるとされるが、ガウスは最初は”数値計算により帰納的に発見したのでは?”と高木氏は推測する。
 勿論、面倒な証明を理解するのは演繹的理解である。だが、元となる公式は最初は数値計算により得られたのではないか。
 つまり、数学の世界では、証明やその理解よりも、発見や予測の方がずっと重要なのであろうか。

 ガウスにより初めて発見された楕円関数においても、高木氏は”アーベルの方法は着想において極めて単純である。それはオイラーが三角関数にて成し得たものを、最も自然に楕円関数の上に拡張したのものであり、ガウスやヤコビの様な難渋なる帰納や模索の痕跡もなく、全てがスラスラと進行する。これはアーベルの非凡なる天才に因る”と語り、若くして夭逝したアーベルやガロアの肖像の鮮やかさは見事という他ない。
 また、ガウスとフーリエの比較論も非常にユニークで、”フーリエの計算には随分と真剣に(まるで自然界征服の為の如く)考えられた長い数字の羅列が散見するが、ガウスの場合は娯楽として羅列された数字の様にも見える”と皮肉たっぷりである。



4 コメント

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腹打てサン (象が転んだ)
2024-08-06 07:20:59
確かに
書けば書くほどに、類体論はややこしく感じてきます。
そんなややこしい類体論の存在をシンプルにまとめた高木氏の偉業は、クロネッカーの夢の実現として大きな華を咲かせます。

正直、類体論を記事にした事を後悔しつつもあります。
こうしたコメントのお陰で何とか続けそうな気持ちにもなります。
色々と気を遣ってくれて有り難うです。
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代数的整数論と類体論 (腹打て)
2024-08-06 03:26:28
類体論とは、一言で言えば代数体のアーベル拡大の理論と言えるけど
ガウスの高次剰余相互法則とクロネッカーの虚2次体の構成理論を起点に生まれたものだから、どうしてもややこしくなる。
その虚2次体とは楕円関数の虚数乗法論に基づくから、更にややこしくなる。

そのクロネッカーは<有理数体以外の代数体Kでもアーベル拡大は成り立つ>と予想したが、証明する前に亡くなったので「青春の夢」と呼ばれたが、高木はその理論をさらに推し進め、<アーベル拡大は類体である>という存在定理を発見し、証明する。
ややこしい複雑多岐な類体の構図がここまで簡略化されるのだから、これこそが高木氏の<青春の夢>だったんだろう。
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Hooさんへ (象が転んだ)
2024-08-02 21:45:42
いいとこ突いてます。
日本人は”小さな事からコツコツと”って所がありますから、遺伝的にも帰納的思考は苦手なんでしょうか。
数学においてもその癖は治らず、理解や証明ばかり労力を費やしてる様にも思えます。更に受験の数学が追い打ちを掛け、思考を混乱させてるようにも思えます。

高木氏もヒルベルトの類体論から”不分岐を外したら”との特異な発想で議論を推し進めたら、類体論の基本定理という一般論に辿り着きました。
まさに、”特殊から一般へ”となったんですが、こういう所にも高木氏の日本人離れした発想がもたらした世紀の発明と言えますね。
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特別のことを (HooRoo)
2024-08-02 09:13:04
普通のこととして受け入れることは
特殊から一般へってことになるのかな

普段の生活では
日常の積み重ねが大切で
演繹的な考え方が常識とされそうだけど
数学のような特殊な世界では
帰納的な考え方が重要視される・・ウウーン

つまり数学に順応するためには
日頃から帰納的な考え方を身につける習慣が必要なのかしら
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