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"Life is either a daring adventure or nothing at all"

3月

2007年05月02日 22時18分41秒 | Weblog
8日の金曜日に入院。
は母と、妹と病院へ。は幼稚園の園バスのバス停のママが預かってくれて、三人でタクシーで出発 手術の説明はは受けていたけれど、母と妹とともにもう一度受けて、同意書にサイン
入院したことのない妹(の出産以外)は輸血や出血や合併症の説明だけでだんだん顔色が悪くなり、ドクターに「妹が(でなく)」大丈夫か聞かれていた・・・

「おなかに残らない食事」は案外普通で(失礼・・・)宇宙食みたいなものを想像していたけれど、カリフラワーとか普通のものを前日まで食べた
泌尿器科病棟が満床で数日は別の病棟に。脳外科からも手術の説明があり、先生の若さにびっくり説明も身近なものを例にするので(時計とかお菓子のトッポとか)分かりやすかった。

12日に手術。1番で朝8時半にはオペ室へ。

前の日に2リットルの下剤を二時間かけて飲んだ。「苦しいよ~、まずいよ~」と前評判を散々聞かされていたので、コッブの容量と、時間を計算して(算数できないくせに、こういう知恵は回る・・・)あるコップ一杯を15分おきに飲めばいいことが分かり、15分ごとに一気飲み。おかげでなんなくクリア。

当日は血栓予防の弾性ストッキングをはき(海外旅行や長時間座っていたらなる、いわゆるエコノミークラス症候群予防。全身麻酔で長時間寝たきりで、術後もしばらく動けないから)輸液の点滴をしてオペ室へ。夕方四時くらいに終わり、ICCUに移され、両親はの顔を見て帰宅一泊した。

数日苦しんだのは腰から麻酔を持続して入れてもらっていたので、痛みより痰がからんでからんでしかたがなかったし、鼻のチューブが気になって、ドクターに「もう・・・一日早いけど抜くで気分悪くなったらまた入れるよ」と脅されたけど、取ってもらった(結局気持ち悪くならなかった)。

そこから一週間弱はさすがに開腹手術、声は出ないし起き上がれないし普段は痛みはなくてもCTなどで持ち上げられたら叫びまくる・・・

お見舞いに来てくださったさんが「このままの人格が変わるかと思った」くらいおとなしかったらしい。

手術次の日より、3日目と4日目に余人部屋を仕切るカーテンが、天井のほうは布ではなく四角い升目状の網目になっていて、身動きがとれずそれしか見ることの出来ないは2日連続夜八時前後に、
「このまま寝たら起きずに死ぬ」
という思い込みから来る大パニックの発作に悩まされ、強い薬を処方されて点滴を入れる羽目にでもやがて落ち着いた。その間、夜勤で看護師が少ないのにも関わらず、が眠りに付くまで看護師が交代で手を握って見守ってくれた本当に感謝。

すこしづつ点滴やチューブが抜けていき(最高6本管が出ていた)、重湯から始まり、すこしづつ食事も出来るようになって、膀胱洗浄はバルーンカテーテルが入っていたのでドクターがしてくださり、(バルーンが膨らんだままカテーテルが3回抜けて、ナースもドクターもだった)困ったことといえば身動きが取れないことからの筋肉痛

最初は管だらけのを見られるのが「みっともないなあ」とか思っていたけれど、お見舞いに来てくださった方から病院の場所を聞かれたときに
「管だらけですので、お見苦しく、お話も出来ないかもしれません」と最初の頃は言っていたのにもかかわらず、
病棟の人やナースに「は毎日毎日お見舞いがあっていいね」といわれるくらい、関係やレッスン関係、教会関係や母校関係と次から次へときてくださり、私も治療中の体を見せることに抵抗がなくなった
逆に、電車乗り継いで、またでも30分以上かかるのに来てくださって、「なんて、は幸せなんだろう」と感激の日々だった
家族が病院に来れたのもをあずかってくれた同じ幼稚園のバス停のママたちの協力
神父さまなんて80歳を超えた方なのに3回くらいも来てくださったし、レッスンの子供たちも可愛い絵や手紙をくれたり、苦しくても痛くても乗り越えられた原動力だったのだと思う。

54日の入院生活のなかで、50日以上も誰かがのお見舞いに来てくださったあんなに苦しんできめた手術だったけど、導尿が一時間毎でノイローゼになり、一度は「生を取るのか死を取るのか」ということまでは考えざるを得なくなったけれど、今健康に生きていて、たくさんの人々に生かされていて、手術をして良かったと思う。