らん「ぼー」→「ぼー」んとぅびーわいるど(ボーン・トゥ・ビー・ワイルド)
歌い手は喜ぶだろうが、映画作家としては複雑な感情を抱く現象が「ときどき」起こる。
それは、映画の主題を際立たせた主題歌・・・ではなく、主題歌あってこその映画―と捉えられる作品の誕生。
まずは、そうなっちゃった、いや、それを狙ったのかもしれない代表的な映画を10本挙げてみよう。
最初に結論をいってしまうと・・・
ミュージカルは当然として、ニューシネマが強いことが分かる。
『オズの魔法使』(39)
歌『虹の彼方に』
『雨に唄えば』(52)
歌『雨に唄えば』
『喜びも悲しみも幾歳月』(57)
歌『喜びも悲しみも幾歳月』
『卒業』(67)
歌『サウンド・オブ・サイレンス』
『真夜中のカーボーイ』(69)
歌『うわさの男』
『明日に向って撃て!』(69)
歌『雨にぬれても』
『フラッシュダンス』(83)
歌『ホワット・ア・フィーリング』
『フットルース』(84)
歌『フットルース』
『トップガン』(86)
歌『デンジャーゾーン』
そして『イージー・ライダー』(69)の、『ボーン・トゥ・ビー・ワイルド』。
本題に入る前に、どうでもいいことをひとつ。
『イージー・ライダー』より『イージーライダー』のほうがよかったと思うんだよね。
「・」があるかないかだけの話だけれど、これは『ダイ・ハード』(88)にもいえることで、「・」の表記だけで疾走感みたいなものが半減されているような気がする。
ん?
どっちでもいい?
どう表記されようが、中身は変わらないから?
まぁ実際そうなのだが、イメージは若干変わるのではないかと思ってね。
さて。
この映画が好きだといったうえで記すが・・・
映像のインパクトと音楽の格好よさを引いてしまうと、物語そのものはたいしたことがない―それが、『イージー・ライダー』だったりする。
クスリをやりながら演出したと思われるデニス・ホッパーも、この映画で物語を物語ろうとはしていない。
チョッパーバイクと幻覚描写、そこにサイケあるいはクールなロックを流して映像散文詩を創る、、、そんな感じだったのではないか。
電池切れか、腕時計の針が進まない。
主人公のピーター・フォンダは「時間なんか、知るか!」とでもいうように腕時計を捨ててバイクを走らせる。
エンジン音が遠ざかったあたりで、ステッペンウルフによる『ボーン・トゥ・ビー・ワイルド』が流れる。
完璧である。
たぶんこれは、ホッパーが映画を撮ろうと思ったときから決まっていたオープニングだったにちがいない。
あと決まっていたことといえば、ふたりが殺されるラストシーン。
ちがうかな?
当たっていると確信しているのだけれども。。。
『ワイルドでいこう』と訳される『ボーン・トゥ・ビー・ワイルド』は、『イージー・ライダー』が存在しなかったとしても名曲として評価されただろうが、その逆、「この曲なし」だったとすれば、映画はどうであったろう。
そんなタラレバは必要ないかもしれないけれど、ただインパクトという点で弱くなったであろうことは想像出来る。
「あれ、歌なんか流れていたっけ?」なんて思う映画の主題歌だって多い、
そのなかで上記の作品と主題歌はワンセットのように捉えられており、総合芸術としての映画の理想図を見たような気がして、とりあえず作詞家・作曲家に一礼したくなるのだった。
次回のしりとりは・・・
ぼーんとぅびーわいる「ど」→「ど」ーなつ
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『動画観ながらチャリに乗る高校生に恫喝してやったい』
歌い手は喜ぶだろうが、映画作家としては複雑な感情を抱く現象が「ときどき」起こる。
それは、映画の主題を際立たせた主題歌・・・ではなく、主題歌あってこその映画―と捉えられる作品の誕生。
まずは、そうなっちゃった、いや、それを狙ったのかもしれない代表的な映画を10本挙げてみよう。
最初に結論をいってしまうと・・・
ミュージカルは当然として、ニューシネマが強いことが分かる。
『オズの魔法使』(39)
歌『虹の彼方に』
『雨に唄えば』(52)
歌『雨に唄えば』
『喜びも悲しみも幾歳月』(57)
歌『喜びも悲しみも幾歳月』
『卒業』(67)
歌『サウンド・オブ・サイレンス』
『真夜中のカーボーイ』(69)
歌『うわさの男』
『明日に向って撃て!』(69)
歌『雨にぬれても』
『フラッシュダンス』(83)
歌『ホワット・ア・フィーリング』
『フットルース』(84)
歌『フットルース』
『トップガン』(86)
歌『デンジャーゾーン』
そして『イージー・ライダー』(69)の、『ボーン・トゥ・ビー・ワイルド』。
本題に入る前に、どうでもいいことをひとつ。
『イージー・ライダー』より『イージーライダー』のほうがよかったと思うんだよね。
「・」があるかないかだけの話だけれど、これは『ダイ・ハード』(88)にもいえることで、「・」の表記だけで疾走感みたいなものが半減されているような気がする。
ん?
どっちでもいい?
どう表記されようが、中身は変わらないから?
まぁ実際そうなのだが、イメージは若干変わるのではないかと思ってね。
さて。
この映画が好きだといったうえで記すが・・・
映像のインパクトと音楽の格好よさを引いてしまうと、物語そのものはたいしたことがない―それが、『イージー・ライダー』だったりする。
クスリをやりながら演出したと思われるデニス・ホッパーも、この映画で物語を物語ろうとはしていない。
チョッパーバイクと幻覚描写、そこにサイケあるいはクールなロックを流して映像散文詩を創る、、、そんな感じだったのではないか。
電池切れか、腕時計の針が進まない。
主人公のピーター・フォンダは「時間なんか、知るか!」とでもいうように腕時計を捨ててバイクを走らせる。
エンジン音が遠ざかったあたりで、ステッペンウルフによる『ボーン・トゥ・ビー・ワイルド』が流れる。
完璧である。
たぶんこれは、ホッパーが映画を撮ろうと思ったときから決まっていたオープニングだったにちがいない。
あと決まっていたことといえば、ふたりが殺されるラストシーン。
ちがうかな?
当たっていると確信しているのだけれども。。。
『ワイルドでいこう』と訳される『ボーン・トゥ・ビー・ワイルド』は、『イージー・ライダー』が存在しなかったとしても名曲として評価されただろうが、その逆、「この曲なし」だったとすれば、映画はどうであったろう。
そんなタラレバは必要ないかもしれないけれど、ただインパクトという点で弱くなったであろうことは想像出来る。
「あれ、歌なんか流れていたっけ?」なんて思う映画の主題歌だって多い、
そのなかで上記の作品と主題歌はワンセットのように捉えられており、総合芸術としての映画の理想図を見たような気がして、とりあえず作詞家・作曲家に一礼したくなるのだった。
次回のしりとりは・・・
ぼーんとぅびーわいる「ど」→「ど」ーなつ
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
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明日のコラムは・・・
『動画観ながらチャリに乗る高校生に恫喝してやったい』