~淀川長治の巻~
第一夜:淀川長治のキャリアを我流紹介
第二夜:淀川長治への手紙
きょうは、その第一夜。
もんのすごい生涯を送ったひとであり、そのキャリアをそのまま記していけば50000字でも足りなくなるので、乱暴なほどに大雑把にまとめたい。
89歳没。
映画の福音を伝えつづけた、真の意味での映画の使徒。
ポイントは、みっつ。
(1)驚異的というより、もはや異常といっていい記憶力
(2)自らの性的嗜好を明かし、(それだけが理由ではなかったが)生涯独身を貫く
(3)好きになった監督に対しては、どんなキャリアを築こうとも支持をしつづける
基本、ヘンクツなひとだった。
映画の完成度が高かったとしても、オリバー・ストーンの「商才」を毛嫌いし、「政治家になったほうがいい」と斬り捨てていた。
(初めて褒めたストーンの映画は、最も地味な『ニクソン』(95)だったはず)
その逆に、ピーター・グリーナウェイや北野武に関しては、興行・批評面で惨敗しようとも創り手の肩を持ってくれた。
アイドル俳優をフィーチャーする雑誌『ロードショー』(集英社)で、「君たちは、グリーナウェイの映画をリアルタイムで拝むことの出来る幸福を自覚したほうがいい」と記し、
武の『みんな~やってるか!』(95)の「おおきなウンコ」を「あのおおきさがいい」と激賞し、さすがの武も頭をかいていた。
味方につければ、これほど心強い援軍もなかったろう。
なかなかに「こみいった」出生秘話は敢えて割愛、ウィキペディアを参照しましょう。
一般の子どもたちよりも映画を身近に感じられたのは、親が映画館の株主だったから。
ということはおそらく入場料が要らなかったはずで、ゆえに浴びるように映画を観ることが出来た。
このひとがすごいのは、そうやって浴びたものを少しも弾くことがなく、養分として取り入れていること。
数十年前に「たったいちどだけ」観た無声映画を、きのう観てきたかのように語り倒す。
文献要らずの映画批評を展開したのは、世界でもこのひとくらいなのではないか。
33年、ユナイテッド・アーティスツの大阪支社に入社。
38年には東京支社に異動、ここで『モダン・タイムス』(36)や『駅馬車』(39)の宣伝を担当する。
47年―世界映画社に入社、雑誌『映画の友』の編集者として活躍。
このころの部下に、小森和子「おばちゃま」が居た。
「テレビを通する」映画批評・解説で注目されたのは、60年代から。
海外ドラマ『ララミー牧場』(59~63)の解説を経て、32年もつづくことになる『日曜洋画劇場』(テレビ朝日:スタート時は『土曜洋画劇場』)で、お茶の間にも知られる存在に。
自分が淀川さんの存在を知ったのもこの番組であり、というか、映画評論家という職業を知ったのは、このひとからだったんじゃないか。
(ほぼ同時期に、水野晴郎・木村奈保子・おすぎを知った可能性もあるけれど)
極端な話をすれば、淀川さんの「サヨナラサヨナラ、サヨナラ」を聞きたいがために、たいして面白くもない映画を「我慢して」観ることもあった。
98年11月11日、心不全により永眠する。
大親友だった黒澤の死の、2ヶ月後のことだった。
最後の仕事(解説)は、死の前日に収録された『日曜洋画劇場』。
解説した映画が、黒澤の『用心棒』(61)をリメイクした『ラストマン・スタンディング』(96)だった、、、というのが、ちょいと出来過ぎている。
87年より東京全日空ホテル(現・ANAインターコンチネンタルホテル東京)のスイートに暮らし始めたのは、独身主義ゆえ「早めの終活」だった―といわれている。
「子どもの頃から男が好きだった」と告白しており、結婚をする努力もしてみたが、うまくはいかなかった。
だから。
テレビでシュワ氏の肉体を褒めることばはジョークのように聞こえるが、じつはほんとうに興奮していたのかもしれない。
ピーター・ユスティノフやチャールズ・ダーニングへの言及が多かったことから、「太っちょ」系の俳優が好みだったのはたしかだろう。
映画の知識と、そうした嗜好を持っているからこそ、名作『太陽がいっぱい』(60)の主人公は同性愛者だと見抜けたのではないか。
当時は賛同者を得られなかったそうだが、原作者パトリシア・ハイスミスの『キャロル』が映画化(2015)されたいま、淀川説を支持する評論家は増えたよね。
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明日のコラムは・・・
『『拝啓、〇〇様』(8)』
第一夜:淀川長治のキャリアを我流紹介
第二夜:淀川長治への手紙
きょうは、その第一夜。
もんのすごい生涯を送ったひとであり、そのキャリアをそのまま記していけば50000字でも足りなくなるので、乱暴なほどに大雑把にまとめたい。
89歳没。
映画の福音を伝えつづけた、真の意味での映画の使徒。
ポイントは、みっつ。
(1)驚異的というより、もはや異常といっていい記憶力
(2)自らの性的嗜好を明かし、(それだけが理由ではなかったが)生涯独身を貫く
(3)好きになった監督に対しては、どんなキャリアを築こうとも支持をしつづける
基本、ヘンクツなひとだった。
映画の完成度が高かったとしても、オリバー・ストーンの「商才」を毛嫌いし、「政治家になったほうがいい」と斬り捨てていた。
(初めて褒めたストーンの映画は、最も地味な『ニクソン』(95)だったはず)
その逆に、ピーター・グリーナウェイや北野武に関しては、興行・批評面で惨敗しようとも創り手の肩を持ってくれた。
アイドル俳優をフィーチャーする雑誌『ロードショー』(集英社)で、「君たちは、グリーナウェイの映画をリアルタイムで拝むことの出来る幸福を自覚したほうがいい」と記し、
武の『みんな~やってるか!』(95)の「おおきなウンコ」を「あのおおきさがいい」と激賞し、さすがの武も頭をかいていた。
味方につければ、これほど心強い援軍もなかったろう。
なかなかに「こみいった」出生秘話は敢えて割愛、ウィキペディアを参照しましょう。
一般の子どもたちよりも映画を身近に感じられたのは、親が映画館の株主だったから。
ということはおそらく入場料が要らなかったはずで、ゆえに浴びるように映画を観ることが出来た。
このひとがすごいのは、そうやって浴びたものを少しも弾くことがなく、養分として取り入れていること。
数十年前に「たったいちどだけ」観た無声映画を、きのう観てきたかのように語り倒す。
文献要らずの映画批評を展開したのは、世界でもこのひとくらいなのではないか。
33年、ユナイテッド・アーティスツの大阪支社に入社。
38年には東京支社に異動、ここで『モダン・タイムス』(36)や『駅馬車』(39)の宣伝を担当する。
47年―世界映画社に入社、雑誌『映画の友』の編集者として活躍。
このころの部下に、小森和子「おばちゃま」が居た。
「テレビを通する」映画批評・解説で注目されたのは、60年代から。
海外ドラマ『ララミー牧場』(59~63)の解説を経て、32年もつづくことになる『日曜洋画劇場』(テレビ朝日:スタート時は『土曜洋画劇場』)で、お茶の間にも知られる存在に。
自分が淀川さんの存在を知ったのもこの番組であり、というか、映画評論家という職業を知ったのは、このひとからだったんじゃないか。
(ほぼ同時期に、水野晴郎・木村奈保子・おすぎを知った可能性もあるけれど)
極端な話をすれば、淀川さんの「サヨナラサヨナラ、サヨナラ」を聞きたいがために、たいして面白くもない映画を「我慢して」観ることもあった。
98年11月11日、心不全により永眠する。
大親友だった黒澤の死の、2ヶ月後のことだった。
最後の仕事(解説)は、死の前日に収録された『日曜洋画劇場』。
解説した映画が、黒澤の『用心棒』(61)をリメイクした『ラストマン・スタンディング』(96)だった、、、というのが、ちょいと出来過ぎている。
87年より東京全日空ホテル(現・ANAインターコンチネンタルホテル東京)のスイートに暮らし始めたのは、独身主義ゆえ「早めの終活」だった―といわれている。
「子どもの頃から男が好きだった」と告白しており、結婚をする努力もしてみたが、うまくはいかなかった。
だから。
テレビでシュワ氏の肉体を褒めることばはジョークのように聞こえるが、じつはほんとうに興奮していたのかもしれない。
ピーター・ユスティノフやチャールズ・ダーニングへの言及が多かったことから、「太っちょ」系の俳優が好みだったのはたしかだろう。
映画の知識と、そうした嗜好を持っているからこそ、名作『太陽がいっぱい』(60)の主人公は同性愛者だと見抜けたのではないか。
当時は賛同者を得られなかったそうだが、原作者パトリシア・ハイスミスの『キャロル』が映画化(2015)されたいま、淀川説を支持する評論家は増えたよね。
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明日のコラムは・・・
『『拝啓、〇〇様』(8)』