解せねぇ。
ヒトコトでいえば、やっぱりそうなる。
今回の件で、ハリウッドへの憧憬や幻想というものが、自分のなかで「かなり」なくなったことはたしかだなぁ。
期待も信頼もしない、来年のオスカーを楽しめるかどうかも疑わしい。
発端があればこその結果なのに、結果ばかりを問題にして発端は「そっちのけ」でいいのだろうか。
日米での反応に大きな差異がある?
それは分かる。
『エディ・マーフィー/ロウ』(87)などを観て、

スタンダップコメディアンの意義というものは「それなりに」理解しているつもりだし、大変な職業だなぁと尊敬もしている。
(日本がそのあたりを真似しようと考え、ワイドショーなどのコメンテーターで芸人さんを起用していることも分かる。うまくいっているとは思えないが…)
ジム・キャリーがこの件に対し「ボクなら(スミスを)訴えるけどね」と発言したことだって、
そこまで!? と疑問は抱くものの、そういう意見が出ることがまさに、日米における認識の差ということでしょう。
でもさ、判断が間違うことだってあるわけだよね。
スミスがあそこで手を出してしまったように、あきらかにアドリブであったろう「ひとんちの妻への侮辱」を口走ってしまう間違いというものが。
映画の祭典なのだから、主役はあくまでも映画人であるべきで。
たとえばビリー・クリスタルは、『ゴッドファーザーPART III』(90)がノミネートされた年…
いざこざがあって出演出来なかったロバート・デュバルの件を皮肉り、
「続編は、デュバルも出してね」
と発言、これで大爆笑を起こした。
当たり障りは「ある」、しかし当人も苦笑はしてしまうが怒るまではいかないバランスの取れたブラックジョークってこれじゃない?
誤解を恐れずにいうが、自分は今回、引っぱたいたことも含めてスミス擁護派で。
とはいえ協会からの処分を免れないことは仕方ないのかもな、、、とも思っている。
ただし。
ただし!
繰り返しになるが、「結果」のスミスだけが罪に問われ、「発端」のロックが「現在のところ」お咎めなし、、、というのが解せない。
①どうして「痛み分け」に出来ないのか
②なんの釈明もなしに粛々とステージを進行させた協会側に責任はないのか
そもそも。の話だが、
技術賞のいくつかの発表を事前に済ませてしまったところからして、近年の進行のありかたに疑問というか不満があった。
視聴率の低下問題はあったかもしれないが、その理由を、検証することもなく「技術部門のせいにしている」感があるし、
技術部門をダイジェストにしたにも関わらず、スタンダップコメディアンのジョークに時間を割くなんて、
まるで紅白歌合戦の迷走みたいじゃないか!!
そんな協会が、スミス「だけ」を「排除」しようとしているところに強い不信感を抱く。
スミスは、ウディ・アレンやワインスタインと同種なのかい?
アレンやワインスタインは、自らが「発端」であり「結果」じゃないのかい??
人種や性的嗜好についての発言は「異常なほど」慎重になっている協会なのに、今回の発端について問題にしていない―そのことについて内部から「おかしい!」という声があがらないのであれば、「#MeToo」運動への賛同でさえ、単なるポーズだったんだろう…と失望してしまうな。。。
…………………………………………
以下、「ぬまがさワタリ@『ゆかいないきもの超図鑑』3/8発売」さんのツイートを引用。
ウィル・スミス事件に関して、ジェイダ(妻)に寄り添ったロクサーヌ・ゲイのコラム。
差別的/攻撃的な"笑い"のネタにされた時、ユーモアと余裕で応じる「厚い皮膚」が期待されがち(黒人/女性など不利な属性なら特に)だが、本来そんな必要はないと語る。「薄い皮膚」の肯定。
聴聞会で差別的な攻撃に晒されても耐えたケタンジ・ブラウン・ジャクソン裁判官や、ジェーン・カンピオンの失言を笑って許したビーナス&セリーナ・ウィリアムズの「厚い皮膚」の最近の例をあげ、やはりそれが常に求められる社会は間違っている、本当は誰しも「薄い皮膚」だし、それを認めるべきと。
こうした「厚い皮膚(差別や侮辱を受けてもユーモアと余裕をもって切り返す態度)」が社会的に求められ、そうした態度への賞賛が繰り返され、「ネタ」にする側もそういう風潮に甘えてどんどんエスカレーションしていった結果、こういう決定的な一線を踏み越えてしまう事件に繋がったのかもなと思う。
クリス・ロックの侮辱的な上に全然面白くないギャグと、ユン・ヨジョンの思いやりに溢れた上に("名前が正確に読まれなかった"という自分への差別的扱いも刺しつつ、ろう俳優の初受賞を"手話"で発表するという)強烈なユーモアと知性が込められたプレゼン、つい比べてしまう。
ぬまがさワタリさんが引用したサイト
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『「真人間」、、、になったかな(^^;)』
ヒトコトでいえば、やっぱりそうなる。
今回の件で、ハリウッドへの憧憬や幻想というものが、自分のなかで「かなり」なくなったことはたしかだなぁ。
期待も信頼もしない、来年のオスカーを楽しめるかどうかも疑わしい。
発端があればこその結果なのに、結果ばかりを問題にして発端は「そっちのけ」でいいのだろうか。
日米での反応に大きな差異がある?
それは分かる。
『エディ・マーフィー/ロウ』(87)などを観て、

スタンダップコメディアンの意義というものは「それなりに」理解しているつもりだし、大変な職業だなぁと尊敬もしている。
(日本がそのあたりを真似しようと考え、ワイドショーなどのコメンテーターで芸人さんを起用していることも分かる。うまくいっているとは思えないが…)
ジム・キャリーがこの件に対し「ボクなら(スミスを)訴えるけどね」と発言したことだって、
そこまで!? と疑問は抱くものの、そういう意見が出ることがまさに、日米における認識の差ということでしょう。
でもさ、判断が間違うことだってあるわけだよね。
スミスがあそこで手を出してしまったように、あきらかにアドリブであったろう「ひとんちの妻への侮辱」を口走ってしまう間違いというものが。
映画の祭典なのだから、主役はあくまでも映画人であるべきで。
たとえばビリー・クリスタルは、『ゴッドファーザーPART III』(90)がノミネートされた年…
いざこざがあって出演出来なかったロバート・デュバルの件を皮肉り、
「続編は、デュバルも出してね」
と発言、これで大爆笑を起こした。
当たり障りは「ある」、しかし当人も苦笑はしてしまうが怒るまではいかないバランスの取れたブラックジョークってこれじゃない?
誤解を恐れずにいうが、自分は今回、引っぱたいたことも含めてスミス擁護派で。
とはいえ協会からの処分を免れないことは仕方ないのかもな、、、とも思っている。
ただし。
ただし!
繰り返しになるが、「結果」のスミスだけが罪に問われ、「発端」のロックが「現在のところ」お咎めなし、、、というのが解せない。
①どうして「痛み分け」に出来ないのか
②なんの釈明もなしに粛々とステージを進行させた協会側に責任はないのか
そもそも。の話だが、
技術賞のいくつかの発表を事前に済ませてしまったところからして、近年の進行のありかたに疑問というか不満があった。
視聴率の低下問題はあったかもしれないが、その理由を、検証することもなく「技術部門のせいにしている」感があるし、
技術部門をダイジェストにしたにも関わらず、スタンダップコメディアンのジョークに時間を割くなんて、
まるで紅白歌合戦の迷走みたいじゃないか!!
そんな協会が、スミス「だけ」を「排除」しようとしているところに強い不信感を抱く。
スミスは、ウディ・アレンやワインスタインと同種なのかい?
アレンやワインスタインは、自らが「発端」であり「結果」じゃないのかい??
人種や性的嗜好についての発言は「異常なほど」慎重になっている協会なのに、今回の発端について問題にしていない―そのことについて内部から「おかしい!」という声があがらないのであれば、「#MeToo」運動への賛同でさえ、単なるポーズだったんだろう…と失望してしまうな。。。
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以下、「ぬまがさワタリ@『ゆかいないきもの超図鑑』3/8発売」さんのツイートを引用。
ウィル・スミス事件に関して、ジェイダ(妻)に寄り添ったロクサーヌ・ゲイのコラム。
差別的/攻撃的な"笑い"のネタにされた時、ユーモアと余裕で応じる「厚い皮膚」が期待されがち(黒人/女性など不利な属性なら特に)だが、本来そんな必要はないと語る。「薄い皮膚」の肯定。
聴聞会で差別的な攻撃に晒されても耐えたケタンジ・ブラウン・ジャクソン裁判官や、ジェーン・カンピオンの失言を笑って許したビーナス&セリーナ・ウィリアムズの「厚い皮膚」の最近の例をあげ、やはりそれが常に求められる社会は間違っている、本当は誰しも「薄い皮膚」だし、それを認めるべきと。
こうした「厚い皮膚(差別や侮辱を受けてもユーモアと余裕をもって切り返す態度)」が社会的に求められ、そうした態度への賞賛が繰り返され、「ネタ」にする側もそういう風潮に甘えてどんどんエスカレーションしていった結果、こういう決定的な一線を踏み越えてしまう事件に繋がったのかもなと思う。
クリス・ロックの侮辱的な上に全然面白くないギャグと、ユン・ヨジョンの思いやりに溢れた上に("名前が正確に読まれなかった"という自分への差別的扱いも刺しつつ、ろう俳優の初受賞を"手話"で発表するという)強烈なユーモアと知性が込められたプレゼン、つい比べてしまう。
ぬまがさワタリさんが引用したサイト
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明日のコラムは・・・
『「真人間」、、、になったかな(^^;)』