UNA GIORNATA ORDINARIA

こんなわたしのありふれた一日

グッドタイミング。

2015年07月21日 | ドライブ

数日前から、テレビなどで紹介されている「君田のひまわり」。

君田は広島県北部、三次市にある町である。

20年くらい前から休耕田にひまわりを植え、今では5ヘクタール、100万本のひまわり畑になった。

(これは今朝の新聞記事から)

「海の日」の昨日。

来た人は誰でも自由に切って持ち帰られるというので、混雑しているだろうけどダメもとで行ってみることになった。

三次から向こうはあまり通過するしか車を走らせたことが無いので、地図やナビで確認しながら走っていたら山道で急に前の車が列になって動かなくなってしまった。

カーブした小高いところから下を覗くと、向こうに黄色くなっているところがある。

「あれかぁ、それでこの渋滞か・・・」

その畑へ行くには、どうもずいぶん向こうに見えている細い橋を渡らないといけないようで、離合できないのでなかなか前へ進まないようだった。

とにかく全く車は動かず、途中でしびれを切らしUターンする車もある。

少しずつ動いていくが、これでは車を停めるところもないだろうと諦めても、この道しかないので並んでいるしかない。

そのうち、するすると進み始めたわけは、警察の誘導が始まったのだった。

ちょうどお昼時でお腹も空いたので、この道の先、君田の道の駅でご飯を食べて温泉に入ろうと「ふぉれすと君田」を目指すが、ここも大渋滞。

平素、平日に利用している我々には驚きの混雑で、ここも諦めてそのまま走ること数分、「高瀬の湯 鮎の里公園」という道路標識が見えた。

どうだろうねと行ってみると、宿泊施設で日帰り温泉もあり、気軽に遊べる綺麗な川もあり、多くの大人や子供が泳いだりもぐったりして遊んでいる。

小さな施設だが食堂もあり、他に2組が食事を終えたところだった。私たちは天ざる蕎麦を食べた。

休日だというのに、さっきのあの混雑がウソのような静けさだった。

フロントで食事の会計とお風呂の料金(ひとり500円)を支払って、薄暗い廊下を奥へ進むと小さな脱衣場があり、備え付けのロッカーも一台、洗面所は3つと狭い。

肝心の浴場は、民宿程度のお風呂の大きさなのだが、誰もいない!

貸切状態、なのだ。

お湯は源泉かけ流し、つるつるとしたいいお湯で、ぬるめなのでのぼせない。

浴槽の向こうは大きな窓が開いていて、涼やかな風と山々の緑が眺められてまるで露天風呂のよう。

浴槽のどこへ動こうと、わたし一人。

いいわ~、ひとりで、の~んびり。

上がって着替えていたら、年配の女性二人がようやく入ってきて、

「どうです?ここ?」と言う。

聞けば、同じルート「ひまわり」「ふぉれすと君田」を辿って来たそうだが、どちらもすごい車と人で、

「ここでご飯を食べればよかったよね」とぽつり。聞けば大混雑の中、あの道の駅で食事をし長時間待たされたと話した。

ロビーにある冷房と扇風機で汗が引くのを待っていたら、いい時間なのかぞろぞろお客さんが入り始めた。

 

 

 

 


被爆電車に乗って。

2015年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

今年は、広島に原爆が落とされて70年となる年で、NHKなどでも特集番組を放送しているが、TBS系列の地元放送局RCCが広島電鉄とコラボして、当時広島の街で市民の足となっていた市内電車をもう一度走らせている。

今、市内を走っている電車は、スマートで車高が低く乗りやすく音も静かな車両が多い。

高校生の時には毎日通学で乗ったものだが、満員なので入口の階段の所にでも入り込んで乗ったこともあった。床も木製、椅子は別珍のような緑色の生地で、当時はエアコンはなく、暑い夏には窓全開だったような記憶がある。

さて、今回のこの企画は戦前、広島の街を走っていた電車は何色だったのか、というところから始まったようだ。

現在でも見られる古いタイプの電車は、グリーンとベージュのツートンカラーが多いように思うが、戦前は違っていたようだ。

だが戦後70年も経ち、当時の電車のことを記憶している人が僅かになっているし、残っている写真は白黒で、何色だったのかが分からない。

そして、被曝した電車をレストアしていたら下から青い色の層が出てきて問題解決、そして被爆電車は完成した。

この電車に乗るためには予約が要り、8月までの週末のみ、一日2回の運行と知って慌ててインターネットで予約したら、ご丁寧に速達で「乗車証」なるものが送付された。

広島駅前から西広島駅前、そして折り返し広島駅前まで、途中乗り降りなしで一人500円。

6月28日、日曜日、朝10時30分、広島駅を出発進行。

車内は、当時の電車を再現して木製の床や建具、真新しいのだが雰囲気はある。

電車の運転も昔のタイプ。聞けば、このタイプはまだ今でも走っているそうだ。

各所に大型テレビが配置され、この企画の説明や被曝当時の映像などが説明されていて、見入ってしまった。

車窓から見える景色は見慣れた広島の街なのだが、ここだけ異空間のような気がする。

通常のルートを通っているので、停留所や道の所々では記念に収めようとカメラを向ける人も多く、特に相生橋付近では原爆ドームと一緒に写せるであろう場所に大型のカメラを構えた大勢の人が待ち構えていた。

西広島駅に到着したのは11時ちょっと過ぎで、安いけどゆっくりで有名な電車は誰も乗せなければ30分でここまで来れるんだと実感。

ここで10分少々の休憩ですと言われ外へ出た。

夫が「写真を撮ってあげる」というので電車の前でポーズをとっていたら、若い男性に声をかけられている。

スマホである。

きっとさわったこともないであろう、「撮れるんかいな?」と思いながら近づいたら、英語で何やら会話中。

外人さんなの?

聞けば香港から広島に来ているとのことで、電車と歴史に興味があって乗ってみたんだそう。

20年前に行きました、とか憶えている香港の街の名前、昔の空港のことなど夫と一緒になって話したら「11歳でした」と言われた。

帰りも同じルートを戻り、広島駅に着いたのが12時。

昔の停留所などが記載された地図をお土産にもらって電車を降りた。

香港の「彼」にもバイバイした。

現在に戻された気分になった。