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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(225回目)ローマ人への手紙(10章5節~13節)その2

2017-01-03 14:32:54 | 日記
ローマ人への手紙を読んでいます。パウロさんが書いた前回の一節をもう一度書きます。
◇(10:8)では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、私たちが宣(の)べ伝えている信仰の言葉である。
◇「 」この言葉は既に旧約聖書申命記のモーセが神のことばを取り次いだ中に書かれています(30:14)。以前、ユダヤ人は結婚式の時にグラスを割ると書きました。その行為は、神の語られたことは、割れたガラスがもとにもどらないのと同じように必ず成就することを忘れぬため、再確認のためです。それは喜びとして確認するのです。そしてそのモーセが語った第30章を思い出しているのだと思います。歴史は戻りません。どうぞ、この際、旧約聖書申命記第30章をお読み下さい。大切な箇所だと思いますのでその1節~5節を書いてみます。(いのちのことば社:新改訳で 申命記)
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◆(30:1)私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、
(30:2)あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたのこどもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
(30:3)あなたの神、主は、あなたを捕らわれの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の中から、あなたを再び、集める。
(30:4)たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。
(30:5)あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。
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◆旧約ですからイエスの誕生の以前の紀元前13世紀初期頃の話です。このことばをイスラエル人は信じ続け、世界に散らされてもそこで言い伝えを守ろうとしました。さて、どうでしょう、第二世界大戦後1948年5月にイスラエル国家が樹立しました。彼らは、いろいろ問題はありますが、約束の地に戻っていったのです。事実、そこに今、その国はあります。この事実をどう思われますか。
◆神のご計画は現在も進みます。神のひとり子といわれるイエスが誕生し、不完全な欠陥がある我々でも彼を信ずれば、彼の来た国パラダイスにいける。われわれの欠陥を天に帰還する為にイエスが十字架に架かられたことにより帳消しとされ、彼を信じることがパスポートとなった訳です。第30章の語られたことはエジプトからの奴隷の身からの解放という過去の歴史というだけでなく、イエスを信ずる全世界の人が自分にまとわりつくすべてのしがらみから解放されて、天のエルサレムへの帰還、パラダイスへ天の父なる神が連れて行くとの約束に解釈され、その言葉はまさに新しい契約となったことが示されたのです。そのイエスのことが書かれているのが新約聖書です。
◆(10:12)ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼(イエス)を呼び求めるすべての人を豊かに恵んでくださるからである。(10:13)なぜなら、「主の御名(みな)を呼び求める者はすべて救われる」とあるからである。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(224回目)ローマ人への手紙(10章5節~13節)

2017-01-03 14:17:21 | 日記
キリスト教は言葉の宗教であると言われる所以。そして、パウロはここですっきり救われるにはどうしたらよいかを明記しています。手紙は、先理解のあるユダヤ人たちにこのように語ります。(口語訳)
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(10:5)モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。
(10:6)しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。
(10:7)また、「だれが底知れぬところに下るであろうかと言うな」。それはキリストを死人の中から引き上げることである。
(10:8)では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、私たちが宣(の)べ伝えている信仰の言葉である。
(10:9)すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。(10:10)なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
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◆(10:5)の律法については、モーセが十戒を神から授かったのだからこれは言わずもがなだろう。書いてあるのはレビ記(18:5)、それから(10:6-7)の引用の「 」内は申命記(30:12-13)であり、(10:8)のそれは申命記(30:14)である。(10:11)の「 」はイザヤ書(28:16)である。さらに(10:13)のそれは、ヨエル書(2:32)からの引用である。このように、当時の聖書(今の旧約)から引用はそれを書いて読まれても、聴いている人間は理解しているからということになります。しかし、兄弟たちよ、と語ってもその中には、先に述べたようにすでに、今の我々と同じように、少なからず聖書の学びは行われてきていたであろうから、聴いている異邦人の中には読まれた内容は何を語っているかぐらいは理解されていただろうと思います。
◆さて、ここまで、パウロさんからすっきり提示されていた10章の冒頭の、ただ熱心であること(神の義を知らない)ではなく、それには深い知識が必要だとパウロが書かれていたことに対して、それではそれは何かということになる訳でしょう。
◆ここで大切なことを書きます。パウロはその答えを箇条書きのように明確に書いていません。その手段は書いてます。熱心な深い知識が必要だと(10:2)でパウロは書いているのに・・・。パウロはこう答えるでしょう。私の手紙を読んで欲しい、読んでいるその内容が答えなのです、と。
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◇僕は、ここに神のとても深い愛を感じてしまうのです。急にエモーショナルになりましたけど。神様は答えを総括してかくかくしかじかと語れないのです。語らないのです。それは神を信ずるひとりひとりを真摯に愛してひとりでも救いたいからと思うのです。地上の人間は、あなたも、私も違う課題を与えられて人生を歩んでいるのですから。その事実に対して、これが答えですという地上的な儚い言葉や文字では答えが出てもあらわせない言(ことば)なのです。あなたに語るイエスと共に歩むことです。(10:8)がその理由の一つです。神は「あなた」と語りかけられているのです。(10:11)「すべて、彼(イエス)を信ずる者は、失望に終わることがない」・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(223回目)ローマ人への手紙(10章1節~4節)その2

2017-01-03 06:01:52 | 日記
次の節に進む前に。その2として・・・
◆第10章は、兄弟たちよ。という語りかけから始まります。パウロの手紙で、あなた、あなたがた、兄弟たち、と語りかける相手を変えていることに留意したい。それぞれ語りかける内容に、相手の知識の先理解の知識に対するパウロの配慮があるようだ。
◇ここで、兄弟たちよ、との語りかけは十分、先祖伝来の言い伝え、ラビ(教師)などから聖書やその他の多くのしきたりを学んで或程度理解されていることが前提となっている者に対する言いようであることが理解されます。当時のローマ、その他、地中海と言わずすでに多くの離散した(旧約からの歴史的な流れ、神の御計画と言えばいいか)ユダヤ人たちがあちらこちらで集まり、決まって聖書(旧約)のしきたりを守り、話し合う時を持っていたのだから。そこでは、異邦人キリスト者もいたのがわかります。その人達の中で、パウロが核心に迫ることをこれから論じても先の理解があるから、よく考えられるはずだという確信が”兄弟たち”という語りかけにはあったのですね。
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(10:2)には、「神に対しては熱心であるが、その熱心は深い理解によるものではない」とパウロは述べています。
僕などは、知識がなくとも熱心になることができるということに関して、どこぞやの国も同じかなと考えてしまいますね。
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◇”兄弟たち”は本来パウロほど熱心なパリサイ派を生むほどなのに、外側の肉による律法を重視するが故に(律法のみを重視するが故にといった方がよいか)、聖書(旧約)の深い知識を持つことが困難であった。だから、真の神の義を知らなかった(自分の義をたてるにのみに努め)ということを述べているです。ということはその深い知識によるということはどういうことなのだろうか。
◇そこで(10:4)には「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたからである」と述べています。う~む。こういう書きようが聖書のむずかしさというか、パウロの難解なところか・・・と思いますが、曰く、先に述べたように、すでにある程度(それまでのという前書きを付けた方がいいだろうけれど)”義”とか”律法”は、どういうものかということを、体にしみこませているほどに理解している人々にそう言っているのですね。
◆(10:4)のパウロの言葉は、イエスご自身が「自分は律法を完成させるために来た、とか、一点一画も神の言葉が捨てられることは無い」というような言葉を話されたことに通づる言葉かもしれません。
◆それでは、神の義を知るための、深い知識とはどうしたら得ることができるのだろうか。・・・