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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(235回目)ローマ人への手紙(12章3~21節)

2017-01-12 21:06:48 | 日記
イスラエルという神の選民族、彼らは万物の創造主なる神の導きにより、聖書に基づき生きてきたけれど、その神の御心は信じるすべての人が神の元へ帰還するという計画に沿ったものであったということになる。
先祖伝来の先理解のない異邦人に対し、人類の終わりの始まりとなった神のひとり子といわれたイエスがパラダイスに帰還するためのパスポートとして不完全な欠陥のあるひとりひとりの罪の葬りとしての十字架の意味を信じた同胞や異邦人に対し、パウロは世界宗教化へと向かいつつあったローマのまだ見ぬ人々に、神からの啓示を受けたこととして奥義を切々と説いてきた。そして、ここに来て具体的なあるべきキリスト者の倫理を説いていく。
◆先の回に僕は(12:1)冒頭の「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げなさい」などがピンとこないと書いた。彼らの記念すべき伝統として祭りとなった”はんさい”。この国のご先祖様が、動物を犠牲を献げてきたというのであれば、ピンと来ていたのであろうけれど。この国の神へのお供えは、少なくとも多くは動物の犠牲は殆どなかったと思う。
◆キリスト教の救い主たるそのものは、まさにこの犠牲の上に意味づけられたものである。何のための犠牲であったか。これはキリスト教の神学の頂点ともいうべきところである。我等は自由となった、しかし、この犠牲の上に、神の独り子の死の犠牲の上に於ける自由であるということを身体に刻みつけないとすぐにタガが外れてしまう事柄でもあるのである。
◆言葉は、我々にゆだねられた。
「何が神のみむねであるか、何が善であるか、何が神に喜ばれる事なのか、かつ全きことになるのかわきまえ知るべきである」とパウロは説く。手っ取り早く言えば、自分の言葉で考え、意識し、そのように務めなさいということだ。パウロは、神がそう言われるのか、イエスの掲示がそう言わせるのか。僕が前回で述べたように、ここに来て急に現実的に道徳論ごときものが出てきたのにそう思った者もいたことだろう。だから、きちんとパウロは前書きを付けているのである。(12:1)「~神のあわれみによってあなた方に勧める。」、(13:3)「自分に与えられた恵みによって、あなた方ひとりひとりに言う」と。行為においては、このような心構えで行いなさいという勧めである。
◆それから、同じような内容が書かれていることは、言葉の豊富になる過程でともすればそのようなことになりやすいとの注意を促す。それは(12:3)「思うべき限度を超えて思い上がることなく~」、(12:16)「高ぶった思いを抱かず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思い上がってはならない。」という言葉である。おそらくこのようになった者も多くいたであろうと言うことだ。そして、
◆(12:17)「誰に対しても悪を持って悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。」、(12:21)「悪に負けてはいけない。反って、善をもって悪に勝ちなさい。」と12章は結ぶ。
◇第12章に入り僕が苦しくなるのはだんだん、パウロがこのときの時代を反映してそれに対抗して持論を述べていくことと思えてしまうからなのだ。天地創造時、アダムとエバにエデンの園の中央にある2本の木の内、「善悪を知る木」からその実を食べてはいけないと言われたのではなかったか。ここでパウロが言う”善”とは何か、”悪”とは何か、それは時代により、人により、理由により異なるのではないのか。神のみぞ知ると言いつつ、彼がここで他と生きるに必要な善、悪の言葉を持ち出していることは、やはり当時の流布されていたギリシャ哲学(例えばプラトンの2元論)や、グノーシス主義、ミトラ信仰などに対抗してのわかりやすい言葉を引用して来て、それではキリスト者はと問いながら信者を激励しているのだと思わざるを得ないのである。・・・