marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(233回目)ローマ人への手紙(12章1節~2節)

2017-01-10 20:02:23 | 日記
(12:1)兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
(12:2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。   **************************
◇ローマ人への手紙第12章からは、第11章のパウロの神からの啓示をまとめた論説を一通り了解したと仮定しての”兄弟たちへ”の具体的な日常における生活においての心のあり方というような事柄をパウロは述べていきます。この12章からの”兄弟たちよ”の呼びかけは、したがって今までの同胞ユダヤ人だけではなく、異邦人キリスト者も含めた、イエスの信仰を持った者立ちへの”兄弟たちよ”の呼びかけであると思われます。
◇パウロの受けた神からの掲示によれば、この世においても一ランク上の霊的次元への入り口に立った者立ちへの勧めということになるだろう。ともすれば、それはダブルスタンダードを持ってこの地上を生きることなのかと初めての方は思うかも知れないが。そこで、僕はいつもローマ人の手紙の第7章のパウロの言葉を思うのだ。彼の悩みは、先祖伝来の神からの律法というものと自分の肉の思いのズレを訴えるもであったが、異邦人の僕らは、先祖伝来のというより、世におけるしきたりなどの上に生きるキリスト者としてのズレについて該当すると考えられるかもしれない。この世におけるキリスト者・・・に対して、パウロは今も普遍的な勧めを語っていることになるのです。
◆しかし、言葉であってもそれを一つの言葉、文字などの対象として理解されている限り、そこには自分の言葉(内からその言葉を肯定すると言葉いってもいい)でないものが自分の考え、あるいは精神、あるいは肉体を拘束する者として立ち現れてくる。僕らはどうしたらいいのだろうか。
◆例えば、現代の普段の生活をしているキリスト者は、なんら日曜日に教会礼拝に拘束されているとは感じない(いるかも知れませんが)のです。無論、戦いはある。それは、人それぞれの人生の課題があると少なくともイエスご自身が思われているのであるから・・・なぜなら、彼ご自身、「あなたの十字架を背負って私について来なさい」と言われているではないか。誰でもの人生の課題をイエスは、ご存じなのだから。その不完全な肉体を持つ自分(多くの肉のしがらみを含めての)との戦いということになるのです。それはイエスの十字架の苦しみを知ることを自分の不自由な、疲れやすい、能力の劣った、肉体を通しての体験の感謝として了解するということになるのです。少なくとも僕はそうである。しかもパウロは、肉に負けるな、心を新たに前進せよと言っているように思われて仕方がないのだ。次回は、2節を少しく考えてみましょう。・・・

世界のベストセラーを読む(232回目)ローマ人への手紙(11章33節~36節)

2017-01-10 07:41:46 | 日記
 聖書を僕らが自分の言葉で読む前に、だいたいからにして具体的にこの地上に、不完全な人間の地上の生き物としてのイスラエルの歴史などが関与しているというパウロの論説は、僕ら異邦人は実のところ、初めて接する人などはピンと来ないのではないだろうか。
◆聖書はまさに聖書であるからにして、聖(神は聖なれば汝らも聖なれ、潔くあれ)なのであるし、その言わんとするところは分かるけれども、そこに、不完全な人間のしかも、僕らの前一世代、二世代が体験した世界大戦における大変な中においても彼らの悲惨な歴史は、僕らが知っているのだが、不条理極まりないところがあるように読み取れる旧約聖書の中においても、その歴史が先理解として必要だなどとは、どうしてもというか、まともに食らいつこうとすれば苦い思いばかりが読み取れてしまって、それは異邦人の僕らが慕い求めている神とは違うのではないかなと思う人がほとんどでなのではないだろうか。
◆それに、第一、ローマ人への手紙のパウロが力説する”この奥義”なるものは、どうも後出しじゃんけんで旧約聖書を引用し、後出しじゃんけんで理屈を付けただけではないのかと、おそれおおくも述べる人がいないともかぎらない。とすれば、そもそもどうなのか。特に旧約聖書の預言にしても、その書かれた時代を調べれば事後預言ではないか・・・と。つまり、だから聖書の学びの現実は学問の上では、ほどほどにした方いいですよ・・・と。しかし・・・だ。
◇だからといって、今のこのときの命とはなんだとか、人はいかに生きるべきとか、つきない生き方のノウハウ本が消えないのはなぜか、とか人のつきあい、心理学とかその他 諸々があるのはなにかということなのである。悩みなしの人間もいずれ必然的にあの世に行くし、この地上にある自分の命とはなんなのか・・・である。戦争はなぜ止まないのか。人殺しがどうしてあるのか、犯罪も止まないのか・・・。将来はどうなるのか、核廃棄物が地上にたまり、この地上以外に僕らは生命を生き延びさせていけるのだろうか・・・etc。
◆それだからこそである。神は彼らに「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによって私の力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」(9:17)と言われているのではなかろうか。この言葉は、エジプト脱出の時、それを阻止しようとしたエジプト王を立てたのは、神である自分であると述べた言葉であるが、我々にとってはユダヤ人に対してもそのように言えるのではないか。
つまり、こうだ。試練に会うにも現実のこイスラエル人(ユダヤ人)が地上で事実として起こり、体験したこと、そして今も、それは私が存在し、私の名前が世界に広められるためなのであるということになるだろう。
◆だから少なくとも、キリスト教の神は、観念的な言葉だけではなく、実際に現実を変えていく力なのであるということである。
それは、今も働いているということなのです。そして、その思いがとぎれてしまうのであればとぎれないように旧約の彼らの苦い体験を読め、戦争の悲惨な体験を思えということになるのだろう。パウロがこの奥義は神の啓示によるとした、彼自身が彼の言葉で受け取った論説は、天地創造以前のパラダイスへの帰還、回復にあるのだ。この永遠の命、パウロの基点は決して揺らいではいない。
◆(11:36)「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。・・・Ω