(12:1)兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
(12:2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。 **************************
◇ローマ人への手紙第12章からは、第11章のパウロの神からの啓示をまとめた論説を一通り了解したと仮定しての”兄弟たちへ”の具体的な日常における生活においての心のあり方というような事柄をパウロは述べていきます。この12章からの”兄弟たちよ”の呼びかけは、したがって今までの同胞ユダヤ人だけではなく、異邦人キリスト者も含めた、イエスの信仰を持った者立ちへの”兄弟たちよ”の呼びかけであると思われます。
◇パウロの受けた神からの掲示によれば、この世においても一ランク上の霊的次元への入り口に立った者立ちへの勧めということになるだろう。ともすれば、それはダブルスタンダードを持ってこの地上を生きることなのかと初めての方は思うかも知れないが。そこで、僕はいつもローマ人の手紙の第7章のパウロの言葉を思うのだ。彼の悩みは、先祖伝来の神からの律法というものと自分の肉の思いのズレを訴えるもであったが、異邦人の僕らは、先祖伝来のというより、世におけるしきたりなどの上に生きるキリスト者としてのズレについて該当すると考えられるかもしれない。この世におけるキリスト者・・・に対して、パウロは今も普遍的な勧めを語っていることになるのです。
◆しかし、言葉であってもそれを一つの言葉、文字などの対象として理解されている限り、そこには自分の言葉(内からその言葉を肯定すると言葉いってもいい)でないものが自分の考え、あるいは精神、あるいは肉体を拘束する者として立ち現れてくる。僕らはどうしたらいいのだろうか。
◆例えば、現代の普段の生活をしているキリスト者は、なんら日曜日に教会礼拝に拘束されているとは感じない(いるかも知れませんが)のです。無論、戦いはある。それは、人それぞれの人生の課題があると少なくともイエスご自身が思われているのであるから・・・なぜなら、彼ご自身、「あなたの十字架を背負って私について来なさい」と言われているではないか。誰でもの人生の課題をイエスは、ご存じなのだから。その不完全な肉体を持つ自分(多くの肉のしがらみを含めての)との戦いということになるのです。それはイエスの十字架の苦しみを知ることを自分の不自由な、疲れやすい、能力の劣った、肉体を通しての体験の感謝として了解するということになるのです。少なくとも僕はそうである。しかもパウロは、肉に負けるな、心を新たに前進せよと言っているように思われて仕方がないのだ。次回は、2節を少しく考えてみましょう。・・・
(12:2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。 **************************
◇ローマ人への手紙第12章からは、第11章のパウロの神からの啓示をまとめた論説を一通り了解したと仮定しての”兄弟たちへ”の具体的な日常における生活においての心のあり方というような事柄をパウロは述べていきます。この12章からの”兄弟たちよ”の呼びかけは、したがって今までの同胞ユダヤ人だけではなく、異邦人キリスト者も含めた、イエスの信仰を持った者立ちへの”兄弟たちよ”の呼びかけであると思われます。
◇パウロの受けた神からの掲示によれば、この世においても一ランク上の霊的次元への入り口に立った者立ちへの勧めということになるだろう。ともすれば、それはダブルスタンダードを持ってこの地上を生きることなのかと初めての方は思うかも知れないが。そこで、僕はいつもローマ人の手紙の第7章のパウロの言葉を思うのだ。彼の悩みは、先祖伝来の神からの律法というものと自分の肉の思いのズレを訴えるもであったが、異邦人の僕らは、先祖伝来のというより、世におけるしきたりなどの上に生きるキリスト者としてのズレについて該当すると考えられるかもしれない。この世におけるキリスト者・・・に対して、パウロは今も普遍的な勧めを語っていることになるのです。
◆しかし、言葉であってもそれを一つの言葉、文字などの対象として理解されている限り、そこには自分の言葉(内からその言葉を肯定すると言葉いってもいい)でないものが自分の考え、あるいは精神、あるいは肉体を拘束する者として立ち現れてくる。僕らはどうしたらいいのだろうか。
◆例えば、現代の普段の生活をしているキリスト者は、なんら日曜日に教会礼拝に拘束されているとは感じない(いるかも知れませんが)のです。無論、戦いはある。それは、人それぞれの人生の課題があると少なくともイエスご自身が思われているのであるから・・・なぜなら、彼ご自身、「あなたの十字架を背負って私について来なさい」と言われているではないか。誰でもの人生の課題をイエスは、ご存じなのだから。その不完全な肉体を持つ自分(多くの肉のしがらみを含めての)との戦いということになるのです。それはイエスの十字架の苦しみを知ることを自分の不自由な、疲れやすい、能力の劣った、肉体を通しての体験の感謝として了解するということになるのです。少なくとも僕はそうである。しかもパウロは、肉に負けるな、心を新たに前進せよと言っているように思われて仕方がないのだ。次回は、2節を少しく考えてみましょう。・・・