14章の最後までを読むと結局、食べ物のことであれやこれやの問題が、しかもかなり重大な事として問題化されていたことが理解されますね。それは、第一に”裁く”という行為によって旧来のユダヤ人達が優位性を持つという分離が起こってきた、否、起こるであろうこと。異邦人伝道の使徒としての召命を受けたパウロとしては、これは何としてもきちんと判断基準を明示しておかねばならない問題であったのですね。
◆パウロはまず自分はイエスにあってしっかり確信していると述べる。(キリスト者達が祈りの最後に「イエスキリストの名によって祈ります」の言葉を必ず言うのも同じ事となってくるのだが)イエスの名を語り述べるということは極端に言えば、それに命を掛けているということにもなる。何故といって、考えても見よ・・・先に述べたが2017年の現在も書店に行けば購入でき、読める哲学書、そのまさに知識人にはそれらが周知されていたであろうまっさかりの時代にパウロはイエスを伝えたのである。ひとりの人間が、人の理性に普段に語っても絶対に理解されず、見向きもされないであろうその内容に、その言葉に命をかけて語らなければ、誰が見向きをするものか・・・である。しかも、それに先行する先の時代にこれまたユダヤ人のデアスポラ(離散)があって、神の言葉を広めるための土台を神が作られたと考えたらどうだろう。その地域の土台には、それこそかたくなな神の民が、しかも神の言葉に生きているユダヤ人達が準備されていたというのであるとすれば・・・。その中でパウロは言う。(14:14)「わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。」(これは何でもかんでも口に入れても問題ないと言っているのでは当然ない。みんなが食べている物の中であれば良い、これは駄目というような規制すべき物は何もないということです。) ※僕なりに解釈すると、食物の事だけではなく、今も多くの不満や人への批判は自分で気づかぬ自己なりの思いこみで作ってしまっているものなのではないかということですね。
◆パウロの異邦人の為にもイエスは十字架に掛けられたのだということの軸のぶれは全くない。この軸からパウロはすべてを語る。つまるところ、これも先の回に書いた永遠の命からの視点である。十字架の神学、それを克服した復活の神学である。その目線からの常なる評価なのである。”この頂まで常に上れ、そこから見なさい”である。(14:1)「ただ、意見を批評する為であってはならない」と今の僕らのいかような事態にも考えられる言葉が冒頭に述べられている。
◆だから、後半の内容は食物の規制から、パウロは常にその高みからの視点で語りかけるのである。常に配慮を持ってすべてに分裂が起こることのないようにと奨励する。
(14:17)神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。(14:18)こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ人にも受け入れられるのである。(14:19)こういうわけで、平和に役立つことや、互いの徳を高めることを、追い求めようではないか。※(14:17)神の国は朽ちていく肉体そのものの維持に関するあれこれではなく、「喜び」(これは肉の五感に訴えるものではない)にあるということですね。(大切なものは目にみえないだ!)
◆そして、最後に食物に関しての目の前の事実に対しては信仰によりすべてを行いなさいと締めくくられます。・・・Ω
◆パウロはまず自分はイエスにあってしっかり確信していると述べる。(キリスト者達が祈りの最後に「イエスキリストの名によって祈ります」の言葉を必ず言うのも同じ事となってくるのだが)イエスの名を語り述べるということは極端に言えば、それに命を掛けているということにもなる。何故といって、考えても見よ・・・先に述べたが2017年の現在も書店に行けば購入でき、読める哲学書、そのまさに知識人にはそれらが周知されていたであろうまっさかりの時代にパウロはイエスを伝えたのである。ひとりの人間が、人の理性に普段に語っても絶対に理解されず、見向きもされないであろうその内容に、その言葉に命をかけて語らなければ、誰が見向きをするものか・・・である。しかも、それに先行する先の時代にこれまたユダヤ人のデアスポラ(離散)があって、神の言葉を広めるための土台を神が作られたと考えたらどうだろう。その地域の土台には、それこそかたくなな神の民が、しかも神の言葉に生きているユダヤ人達が準備されていたというのであるとすれば・・・。その中でパウロは言う。(14:14)「わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。」(これは何でもかんでも口に入れても問題ないと言っているのでは当然ない。みんなが食べている物の中であれば良い、これは駄目というような規制すべき物は何もないということです。) ※僕なりに解釈すると、食物の事だけではなく、今も多くの不満や人への批判は自分で気づかぬ自己なりの思いこみで作ってしまっているものなのではないかということですね。
◆パウロの異邦人の為にもイエスは十字架に掛けられたのだということの軸のぶれは全くない。この軸からパウロはすべてを語る。つまるところ、これも先の回に書いた永遠の命からの視点である。十字架の神学、それを克服した復活の神学である。その目線からの常なる評価なのである。”この頂まで常に上れ、そこから見なさい”である。(14:1)「ただ、意見を批評する為であってはならない」と今の僕らのいかような事態にも考えられる言葉が冒頭に述べられている。
◆だから、後半の内容は食物の規制から、パウロは常にその高みからの視点で語りかけるのである。常に配慮を持ってすべてに分裂が起こることのないようにと奨励する。
(14:17)神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。(14:18)こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ人にも受け入れられるのである。(14:19)こういうわけで、平和に役立つことや、互いの徳を高めることを、追い求めようではないか。※(14:17)神の国は朽ちていく肉体そのものの維持に関するあれこれではなく、「喜び」(これは肉の五感に訴えるものではない)にあるということですね。(大切なものは目にみえないだ!)
◆そして、最後に食物に関しての目の前の事実に対しては信仰によりすべてを行いなさいと締めくくられます。・・・Ω