(12:2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。 ********************************
第12章に入って、突然に「実践倫理」のような文章に様変わりをする。僕ら異邦人は、正直いうと少なくとも僕は急に何か違和感を覚えてしまっていた。今まで、信仰第一(律法よりも)と捉えていた読みが新しい倫理道徳の拘束なのかとひねくれた僕などは思ってしまっていたのである。どうだろう。
◆僕らのこの国には、”神”という存在が言葉上でもある。その社(やしろ)も日本中に沢山ある。(日本とユダヤは同祖論があるとかは別にしても)だから、パウロのこの12章2節を淡々と読む時に、僕らは無意識的にもその、「善」や「喜ばれること」、かつ「全きこと」などを考えるに、この国の一般常識に判断基準がすり替わっていることがあることが僕が違和感を思えてしまう理由なのかもしれない。だから1節のあなたがたのからだを聖なる供え物として献げなさいなどがピンとこないのである。日本の古来の神への供物はあるが犠牲を献げるという古来からの伝統はなかったから。
◆誰に向けて話したのか。どういう状況で話したのか。何を先理解として了解していた人々に向けて話したのか。第一にどういう思いでパウロはこの手紙を書いたのだろう。いつも心にひっかかりが生じた時はいつもそれを考えながら読むことが大切だ。ここで手紙を読むのは、イエスを受け入れた人々である。第12章に入り”兄弟たちよ”とは、すでにパウロが手紙でここまで述べてきた内容を受領した、ユダヤ人、異邦人キリスト者ギリシャ人に対してであるとは先の回に述べた。だから、イエスに対する信仰があるという第一の前提での「何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」なのである。
◆しかし、考えて見るとどうだろう。2017年になった今、この時この世界で実は、これはパウロの声高に言う我々に対する挑戦なのではないだろうか。「心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」と。
◆今年は宗教改革から500年、万人祭司、すべてがイエスの直接の弟子とすれば、神は、「天になるごとく地にもなさしめたまえ」との事から、ご自分の言葉を地上において御心をなさしめるべく、我々に与えて来られたのではなかったか。我々がその手足となるべく・・・。そして御心を考え自分のものとし、その実現の為に言葉を分与されてきたのではないか。その言葉は、地上から飛びさり地に属し朽ちていく血と肉の人間のむなしい言葉ではなく、天に帰る霊的な神から言葉をいただき地上を神のもとへと宣教に励む、証(あかし)の言葉となって実現していくのである。例え、罪の改めの犠牲が、彼らの先祖伝来から行われてきて、それが我々、ひとりひとりの天に帰還するための罪を帳消しにするイエスの十字架の犠牲になったことを知らなくても、否、知っているキリスト者であるならば尚更、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
◆そこには、束縛などでは決してなく、束縛している自分の不自由な身体からも解放された「真の自由」があるのである。「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ伝 8:32)・・・Ω
第12章に入って、突然に「実践倫理」のような文章に様変わりをする。僕ら異邦人は、正直いうと少なくとも僕は急に何か違和感を覚えてしまっていた。今まで、信仰第一(律法よりも)と捉えていた読みが新しい倫理道徳の拘束なのかとひねくれた僕などは思ってしまっていたのである。どうだろう。
◆僕らのこの国には、”神”という存在が言葉上でもある。その社(やしろ)も日本中に沢山ある。(日本とユダヤは同祖論があるとかは別にしても)だから、パウロのこの12章2節を淡々と読む時に、僕らは無意識的にもその、「善」や「喜ばれること」、かつ「全きこと」などを考えるに、この国の一般常識に判断基準がすり替わっていることがあることが僕が違和感を思えてしまう理由なのかもしれない。だから1節のあなたがたのからだを聖なる供え物として献げなさいなどがピンとこないのである。日本の古来の神への供物はあるが犠牲を献げるという古来からの伝統はなかったから。
◆誰に向けて話したのか。どういう状況で話したのか。何を先理解として了解していた人々に向けて話したのか。第一にどういう思いでパウロはこの手紙を書いたのだろう。いつも心にひっかかりが生じた時はいつもそれを考えながら読むことが大切だ。ここで手紙を読むのは、イエスを受け入れた人々である。第12章に入り”兄弟たちよ”とは、すでにパウロが手紙でここまで述べてきた内容を受領した、ユダヤ人、異邦人キリスト者ギリシャ人に対してであるとは先の回に述べた。だから、イエスに対する信仰があるという第一の前提での「何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」なのである。
◆しかし、考えて見るとどうだろう。2017年になった今、この時この世界で実は、これはパウロの声高に言う我々に対する挑戦なのではないだろうか。「心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」と。
◆今年は宗教改革から500年、万人祭司、すべてがイエスの直接の弟子とすれば、神は、「天になるごとく地にもなさしめたまえ」との事から、ご自分の言葉を地上において御心をなさしめるべく、我々に与えて来られたのではなかったか。我々がその手足となるべく・・・。そして御心を考え自分のものとし、その実現の為に言葉を分与されてきたのではないか。その言葉は、地上から飛びさり地に属し朽ちていく血と肉の人間のむなしい言葉ではなく、天に帰る霊的な神から言葉をいただき地上を神のもとへと宣教に励む、証(あかし)の言葉となって実現していくのである。例え、罪の改めの犠牲が、彼らの先祖伝来から行われてきて、それが我々、ひとりひとりの天に帰還するための罪を帳消しにするイエスの十字架の犠牲になったことを知らなくても、否、知っているキリスト者であるならば尚更、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
◆そこには、束縛などでは決してなく、束縛している自分の不自由な身体からも解放された「真の自由」があるのである。「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ伝 8:32)・・・Ω