2017年元旦 すっかり雪も溶けたが少し雨模様。元旦礼拝。それから会食、僕は高齢者でお一人で暮らして礼拝にでられない方に小さなおせち料理を持って訪問。静かな正月があけた。さて、・・・
◇冒頭少し脱線。先の回にバビロン捕囚以前のエルサレムでは神の神殿がありつつも、民衆は生き物としては当たり前の(といったらいいか)、今の日本もあまり変わらない御利益宗教としての神のイメージをもって(あたりまえのように)生活していたということが言えると書いた。それは、やはり生き物の心情としてのパウロさんに言わせれば、肉的なことだと言われるだろうが、肉の維持が最優先されるのであって、それであがめて、産めよ増えよであれば神は繁栄とされてそれを喜ばれるであろうとの考えとの入れ替わりが、起こっていても分からなくなってしまっているということだ。(突然脱線したことを書くが、日本もいくら稲田防衛大臣が靖国神社を参拝しアイデンテティーを保とうとしても既に勝負ありということになりますね。)
◆イスラエルもそうだった。もっとも歴史の中で辛酸をなめつつも神のいいつけから外れ、(旧約)聖書がまともに編纂されたのもバビロン捕囚の痛手を被って以降のことだ。(人は困難を経験しなければ自分のこととして真摯に考えない)。国が無くなるまで民族末端までの浸透は図られなかったということだ。だから、日本も表層の心情での一皮むけばご都合主義の統一心情的国家宗教は、この国の心情的な民族の統一には或一面でしか効力を発揮しないでしょうと推し量れます。いざとなったとききわめて危ないということになります。すでに見えない部分では危なくなっているといった方がいいだろうけど。
◆さて、前回のようなご都合主義にも聞こえる神をやはり、最後はただ、”信ずるか否か”にかかってくるのではないかと思われる。これを聴いたユダヤ人達は、同じように思ったのだろう。パウロはそれを見込んでこう述べる。(9:19)「そこで、あなたはこう言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。誰が、神の意図に逆らい得ようか」。さらに(9:20)「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい何者か。造られたものが造った者に向かって「なぜ、わたしをこのように造ったのか」ということがあろうか」、と。
◆陶器を作る者が神とすれば、我々は造られた陶器であって、一つが尊く造られた者もあれば(これはユダヤ人のことを暗示しているのであろう)、他を卑しい器(異邦人のことを暗示)に作り上げる権能もあるのであると述べる。神は、ご自身の力を知らせようと思われつつ滅びの器をも大いなる寛容をもって忍ばれ、かつ栄光に預からせるために、用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたのだ。(9:24)「神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からをも召されたのである」。
◆異邦人伝道に向かう使命を受けたパウロは、先の回に述べたパラダイスからの視線、天地創造者なる父なる神がおられ、その子イエスもおられるパラダイスへの帰還という目標がみじんもゆらいではいないのである。
◇だから・・・とパウロはユダヤ人に続けるのである。(9:25-26)、(あなたたちも何のことを述べているのかとあるいは考えておられたであろう)ホセア書第2章23節、そして(9:27-29)イザヤ書第20章22、23節、イザヤ書第1章9節、イザヤ書28章16節の言葉はまさにそのことを指しているのだ。(つまり、自分<パウロ>が語っているいることを述べているのであると)・・・
◇冒頭少し脱線。先の回にバビロン捕囚以前のエルサレムでは神の神殿がありつつも、民衆は生き物としては当たり前の(といったらいいか)、今の日本もあまり変わらない御利益宗教としての神のイメージをもって(あたりまえのように)生活していたということが言えると書いた。それは、やはり生き物の心情としてのパウロさんに言わせれば、肉的なことだと言われるだろうが、肉の維持が最優先されるのであって、それであがめて、産めよ増えよであれば神は繁栄とされてそれを喜ばれるであろうとの考えとの入れ替わりが、起こっていても分からなくなってしまっているということだ。(突然脱線したことを書くが、日本もいくら稲田防衛大臣が靖国神社を参拝しアイデンテティーを保とうとしても既に勝負ありということになりますね。)
◆イスラエルもそうだった。もっとも歴史の中で辛酸をなめつつも神のいいつけから外れ、(旧約)聖書がまともに編纂されたのもバビロン捕囚の痛手を被って以降のことだ。(人は困難を経験しなければ自分のこととして真摯に考えない)。国が無くなるまで民族末端までの浸透は図られなかったということだ。だから、日本も表層の心情での一皮むけばご都合主義の統一心情的国家宗教は、この国の心情的な民族の統一には或一面でしか効力を発揮しないでしょうと推し量れます。いざとなったとききわめて危ないということになります。すでに見えない部分では危なくなっているといった方がいいだろうけど。
◆さて、前回のようなご都合主義にも聞こえる神をやはり、最後はただ、”信ずるか否か”にかかってくるのではないかと思われる。これを聴いたユダヤ人達は、同じように思ったのだろう。パウロはそれを見込んでこう述べる。(9:19)「そこで、あなたはこう言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。誰が、神の意図に逆らい得ようか」。さらに(9:20)「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい何者か。造られたものが造った者に向かって「なぜ、わたしをこのように造ったのか」ということがあろうか」、と。
◆陶器を作る者が神とすれば、我々は造られた陶器であって、一つが尊く造られた者もあれば(これはユダヤ人のことを暗示しているのであろう)、他を卑しい器(異邦人のことを暗示)に作り上げる権能もあるのであると述べる。神は、ご自身の力を知らせようと思われつつ滅びの器をも大いなる寛容をもって忍ばれ、かつ栄光に預からせるために、用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたのだ。(9:24)「神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からをも召されたのである」。
◆異邦人伝道に向かう使命を受けたパウロは、先の回に述べたパラダイスからの視線、天地創造者なる父なる神がおられ、その子イエスもおられるパラダイスへの帰還という目標がみじんもゆらいではいないのである。
◇だから・・・とパウロはユダヤ人に続けるのである。(9:25-26)、(あなたたちも何のことを述べているのかとあるいは考えておられたであろう)ホセア書第2章23節、そして(9:27-29)イザヤ書第20章22、23節、イザヤ書第1章9節、イザヤ書28章16節の言葉はまさにそのことを指しているのだ。(つまり、自分<パウロ>が語っているいることを述べているのであると)・・・