パウロは第10章で、僕ら、いつの時代も、そのイエスの言葉に触れるには深い知識を求めるならば、神の義を知ることができるであろうしそれは、キリストはすべて信じる者に義を得させるために律法の終わりと成られたことが分かるであろうと、煎じ詰めれば1節から4節までそう述べている訳です。そして、宣(の)べつたえているのは信仰の言葉であるという。口でイエスは主であると告白すること、心で神が死人の中からイエスをよみがえらせた信じること。この2点が救われる条件であるパウロは教えている訳です。しかし、そこまで来るには個々人に与えられた課題に対するイエスからの教えという深い知識が必要であろうということでしょうけれど、それは、イエスを受け入れて、自分の言葉で彼と語りつつ(祈りつつ)歩むということが必要であるかもしれません。
◆ここで注意が必要かと思います。心で信じるということですが、それは誰か他の時とがお膳立ての上に安住することではないと思います。イエスが、自分の足で立ちなさいと足がなえた人に語られ、その人が歩み出したように。自分の足で立たなくてはならないのです。それは、どこまで行っても最後は自分の言葉でイエスと語らなければいけません。それが「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」(10:8)と語られていることなのだと思います。杓子定規に書かれた文字、信条、教義などというものは、他の人の総括的な言葉なのであって、教派分裂のもとなのですが、それに例え属していたとしても最後は、あなたがイエスと対話するその言葉にあるのです、ということを忘れてはいけない。普段着姿のあなたに語るイエスが、あなたの側にあるのです。その言葉はあなたの口にあり、心にあるのですから、となりますね。
◆さて、14節は、先祖伝来の聖書(旧約)に、未来の預言として救い主(つまりキリストの到来)が預言されていたとしても、現に書かれてあることが、しかりその方がそうだと言い伝える人がいなければどうして聞くことができるのか、さらにつかわされなくてはどうして宣(の)べつたえることがあろうかと。16節にイザヤの言葉を引用している。これは本来、文の流れとしては17節の後に来る内容のように思われる。14節:宣(の)べ伝える。そして聞く、それは17節:信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。それから、16節:すべての人が聞き従ったのではない、とイザヤの言葉を引用し、18節:彼らには聞こえなかったのであろうか。という流れにした方が、理解しやすいと思われる。
◆いずれ、ここで、パウロが10章に入り、兄弟たちに”深い知識”を求めた後に、このようにパウロ自身、聖書の言葉の引用を、多数用いていることを考えれば、深い理解とは、聖書(旧約)の神のみ言葉を深く理解しその意味を熟慮すれば、それは当時のユダヤ人でさえ追求されない聖書の言葉を受け身での行為として守ることのみに終始して、本来の意味が文字としてのみであり、生きて働く神が、詩人を通して、預言者を通してモーセをとおして言おうとしている内容の深い意味にまで理解されていないとパウロは訴えたかったのだろうと理解されるのです。自分のように自らの言葉で理解することを求めたのであると。
◇ここで、パウロが引用している旧約聖書の言葉は、その箇所においては本来、パウロが使用したような意味とは別のものであるが、ここで大胆にパウロはそれらの言葉を自分の言葉の理解のもとに採用して語っているのである。・・・
◆ここで注意が必要かと思います。心で信じるということですが、それは誰か他の時とがお膳立ての上に安住することではないと思います。イエスが、自分の足で立ちなさいと足がなえた人に語られ、その人が歩み出したように。自分の足で立たなくてはならないのです。それは、どこまで行っても最後は自分の言葉でイエスと語らなければいけません。それが「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」(10:8)と語られていることなのだと思います。杓子定規に書かれた文字、信条、教義などというものは、他の人の総括的な言葉なのであって、教派分裂のもとなのですが、それに例え属していたとしても最後は、あなたがイエスと対話するその言葉にあるのです、ということを忘れてはいけない。普段着姿のあなたに語るイエスが、あなたの側にあるのです。その言葉はあなたの口にあり、心にあるのですから、となりますね。
◆さて、14節は、先祖伝来の聖書(旧約)に、未来の預言として救い主(つまりキリストの到来)が預言されていたとしても、現に書かれてあることが、しかりその方がそうだと言い伝える人がいなければどうして聞くことができるのか、さらにつかわされなくてはどうして宣(の)べつたえることがあろうかと。16節にイザヤの言葉を引用している。これは本来、文の流れとしては17節の後に来る内容のように思われる。14節:宣(の)べ伝える。そして聞く、それは17節:信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。それから、16節:すべての人が聞き従ったのではない、とイザヤの言葉を引用し、18節:彼らには聞こえなかったのであろうか。という流れにした方が、理解しやすいと思われる。
◆いずれ、ここで、パウロが10章に入り、兄弟たちに”深い知識”を求めた後に、このようにパウロ自身、聖書の言葉の引用を、多数用いていることを考えれば、深い理解とは、聖書(旧約)の神のみ言葉を深く理解しその意味を熟慮すれば、それは当時のユダヤ人でさえ追求されない聖書の言葉を受け身での行為として守ることのみに終始して、本来の意味が文字としてのみであり、生きて働く神が、詩人を通して、預言者を通してモーセをとおして言おうとしている内容の深い意味にまで理解されていないとパウロは訴えたかったのだろうと理解されるのです。自分のように自らの言葉で理解することを求めたのであると。
◇ここで、パウロが引用している旧約聖書の言葉は、その箇所においては本来、パウロが使用したような意味とは別のものであるが、ここで大胆にパウロはそれらの言葉を自分の言葉の理解のもとに採用して語っているのである。・・・