marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(230回目)ローマ人への手紙(11章13節~24節)

2017-01-07 19:50:58 | 日記
パウロさんのローマ人の手紙の究極の論点が第11章に書かれていると僕は思うと書いた。というのは、次の第12章に入ると再び、兄弟たちよという呼びかけになり、それまでの論点からそれまで信仰を説いてきた切実な内容から、具体的に理解され満たされた、それまでの説得を受領したと理解する兄弟たちへの実生活での勧めが書かれているからである。
◆さて、その前のその11章なのであるが13節に来てその究極の論点のパウロの論点の展開のここにしか見られない神の奥義としての論理展開をしていく。「そこでわたしは、あなた方異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務めを光栄とし、どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。」(11:13-14)から始まり、ここからは、比喩として園芸でも樹木の接ぎ木の話をしていくのであるが、これはここだけ切り取ってもわかり易い。そこでパウロは(11:14)同胞ユダヤ人の幾人かでも救おうと思っているとパウロは言う。
◆天地創造の神の摂理は、次のようだ。神は自分の選民にその摂理の体現をさせる。そして、不条理にも、しかしまた、その内面を神ご自身の内なる思いを遂げさせるため、不信心というかたくなさに閉じこめられた。それは、そのことにより異邦人を救わんがためであった。
幾人かのユダ人が真に悔い改めて信じるならば、それは本望である。まさに死人からの復活であると。その本来の源に帰ってきたのだから。
◆彼らの離反(枝が切り取られてたこと)が異邦人は、それに反して神の恩恵にあずかっている恵み(信仰を持ち接ぎ木されて恩恵を受けている)を誇らず、その潔い根が支えていることを常に思いなさい。神の選民族の究極の救いの願いは変わらず普遍なのだから。その根を神は惜しまれているのであるから。惜しまれないとすれば、接ぎ木されたあなた方異邦人はなおさら惜しまれることはないだろうと。
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(11:22)神の慈愛と峻厳(しゅんげん)とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もし(異邦人である)あなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
(11:23)しかし、彼ら(不信仰となったイスラエル)も不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。
(11:24)なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。
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◆僕はここで、サマリアの女に言ったイエスの言葉を思いだす。(ヨハネによる福音書第4章21-23節)
(4:21)イエスは女に言われた。「女よ、私の言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(4:22)あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っている方を礼拝している。救いはユダヤ人から来るからである。(4:23)しかし、まことの礼拝する者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今来ている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
◇今回、ここまで読まれた方、まさに 今でしょ! あなたはパラダイスの招待に遠くありません。・・・  



世界のベストセラーを読む(229回目)ローマ人への手紙(11章1節~12節)

2017-01-07 10:17:44 | 日記
第11章に入ると異邦人である僕らはなおさら理解に困難な文章に出会う。しかし、ここには異邦人伝道を使命されたパウロの究極とも言える論理展開がなされています。実はパウロの論理展開の究極の頂点とも読めるところです。
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◆天地創造来からの先理解のある内容について、さらにはその神の言葉について言われてきて、先祖がそのことに生きも、死にもしてきた神の言葉に対してであるが、神につき熱心なのは深い知識が必要であるといい、そを求めれば、キリストの言葉に達すると結論的にはそうなるのです。時代は動き今や被造物としての全人類の救済(パラダイスへの帰還)を迎えつつある、そして、イエスが来られその人類の(万物の)救済は今や始まった。人が永遠に神と共に生きるか、または永遠の滅びかのスタートラインに立った(永遠の命を終着とすれば、終わりの始まりが起こったということになります)ということです。
◇「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉からくる」(10;17)しかし、ユダヤ人たちはそれを信ぜず、イエスを十字架に付けた。古来、ユダヤ人は大切に守り抜いてきた聖書の中にそれが書かれているにも関わらず・・・深い知識があれば・・・とパウロは嘆く。そういう途方も長く、深い、歴史の中で神の言葉は、人の手中に入ってしまうものではないこと(われわれ人間は弱い者だから神の名前で自分の殻を作り楯を作り身構えてよしとする、いつの時代も、今も)をどう考えたらいいのだろう。
◆パウロは、よみがえったイエスから声を掛けられ、異邦人伝道のため、全世界に天地を創造し、また再び、あの神のもとのパラダイスに帰還するためにいかばかり苦しまねばならないかを示そうと言い渡された。パウロは何も怖いものはなかった、自分の死までも。ただ、自分の異邦人への伝道が、本来の神の選民たるユダヤ人すべてに理解されない苦しみを訴える。そして、更に深い知識をもてば理解できるのだと聖書を用いて、神の摂理(計画)を切々と訴えるのである。
◆(11:1)(11:11)「断じてそうではない」。兄弟たちよ、分かって欲しい。理解して欲しいと。あの天地創造以前のパラダイスへの帰還、そのために地上で、イスラエル人、その神に愛されしその根っこにあたる選民族よ、理解して欲しいと。
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(11:11)そこで、わたしは問う、彼らがつまづいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪科によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
(11:12)しかしもし、彼らの罪科が世の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにか素晴らしいことであろう。・・・