marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(245回目)ローマ人への手紙(14章1~12節)

2017-01-23 22:28:20 | 日記
第14章に入りました。ローマ人への手紙は第16章までですからここでは実践倫理のような物言いでの佳境です。といっても実は何度も書くけど第12章あたりからはとても難しい内容ではなかろうか。それはパウロの勧めの言葉の中に、実践倫理ともなれば判断基準となるような言葉が多く出てくるからです。善と悪や例えばここに出てくる信仰の弱い人、強い人。その判断基準は何なのだろうかということ。今の僕らも読んでいて何とはなく分かる。けれども、当時のパウロの判断基準はそれはそれで、今も僕らの判断基準とは異なっていたのではないだろうか。第一にここにおいても「信仰から信仰に至らせる」(1:17)のローマ人への手紙の主題ともなる「信仰による義人は生きる」の言葉の深化が示されているのではなかろうか。
◆それは、イエスを知ること。復活されているイエスと共に今も生きることの理解といってもいいものだと思うがその理解は信仰の群れの維持においても個人の信仰の確立、成長の土台ともなるべきものであると言っていい。それがしっかりある者を信仰の強い人と言っているのであろうか。しかし、まずパウロが一つの勧めを強調する時は、その内容の背景があるということを理解することなのです。ここにおいては、他を裁く人々がいたということなのである。(14:4)「他人の僕(しもべ)をさばくあなたは一体何者であるか。」(14:10)「それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。」また例えば、その言葉から普遍性を引き出すのは困難ではないかと書いた第13章1節から7節などは、実際にそのローマでの実際の自体に対する対処、考えを述べたものなのである。
◆先の回に戻ってしまうが第13章は、パウロの第一の目的を達成し前進していくのは当時の権威に逆らうのは、無駄な浪費を裂けるためであるから「この世と妥協してはならない」(12:1)としつつ、世の中の仕組みに適応して義務をなせ、そうでなければよけいな労力に第一の目的を果たすエネルギーをスポイルされるぞということが述べられているのである。
◆そしてまた、第14章のここに見られるパウロの論理の混乱とも思われ、ここの文章からだけでは前後のつじつまが合わず、よじれた書き方がされているのは具体的な実際にあった事件や困難に対しての具体的な勧めなのである。だから、おそらく当時の人々は、この日は何の日であるなどの旧約時代の食物規制が顔を出してきて、第一の目的の障害が生じて来ていたということなのである。
◆ここで僕らは、パウロの一つの大きく脱皮するような考えが示されていることが分かるのではなかろうか。そして、それは、イエスが来るまで読み継がれるであろうこのローマ人への手紙を、将来の人々がいついかなる国、いかなる時(時代)に読んでも、否定されず普遍性をもってくみ取れる考えであるといえるものである。それは、つまり、煎じ詰めて言えば、朽ちていく肉体を規制するようなことがらに束縛されてはならないし、束縛してもいけないということであるのだ。必要だと思う人はなせばいいし、そうでない人には強要してはいけない。人それぞれであるということ、こう書いたからといってむげにしている訳ではなくおのおのが大切に思うならばそれを大事にせよということなのである。
◆つまり、ここでパウロの一段上のイエスが来られるまでのと先に述べた総括が7節から12節まで書かれているのである。ここはそれまでの書いた内容から急にという感じでよじれた内容のように読み取れるが、そうではなく、結局、地上で生命ある僕らは生きているというこの肉体があって、それに付随するあれやこれやにも拘束されているのであるから、第一に思うべきは我々の命は必然的に地上においては死を迎えるのだということ、そして、我等のイエスへのかかわり、関わって頂いているその意味をよくよく覚えよということなのである。(14:9)読まれたし。
◆「だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」(14:12)ここにaccountという言葉が出てくる。以前書きましたが Accountability という言葉が聖書から来ていると、どうかこの言葉だけでネット検索で出てきますので読まれてください。品質要求事項ISO要求では、リーダーシップに於ける説明責任と訳されています。今も生きている言葉なのです。・・・