(13:11)なお、あなた方は時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、既にきている。なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。
(13:12)夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。
(13:13)そして、宴楽と泥酔(でいすい)、淫乱(いんらん)と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
(13:14)あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。
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◆(13:11)の言葉は、今、これを読む人々にも語りかけている言葉にもなります。イエス・キリストを信じることには、常に前進があります。聖書の言葉には、過去のこと、それを信じて死んでも守ろうとするような、僕らから見れば外界との接触が無かったが故に、当時はそれが外界よりすぐれていたが故に優位が保たれていたと見られるもの、それは民族律法としてあったが、歴史が下るににつれ外界との接触が時間の中で起こるにつれて、神の啓示の中で普遍律法として位置づけがあるものとして外界にも知られ優位をもつようになってきました。それを読むと今の僕らも開眼する訳です。例えば、紀元前で今も僕らが読めば開眼する想いにさせられるギリシャの哲学者プラトンなどの著作・・・こういう中で2017年今でもモーセが神から授かった「十戒」において、正直、どれが最後に残るものかと思えば、第一戒のみではなかろうか。何らのかたちで残り、その他の九戒は、多くの破れが見えているのが正直な所ではないだろうか。
◆その第一戒とは、「神のみを第一とせよ」であった。いきなり、異邦人が「神のみ」といわれても先理解の事項がないといかんともしがたい。その神とは天地創造から、選ばれた民族がエジプトを脱出するまでの働きと奇蹟を示した神ということです。第一戒、煎じ詰めれば、神の言葉は人間がつくったものではなく、それは神から与えられたものであるということになります。だから自己解釈で都合よく変えたりすることはできないものということです。これに命をかけて来ている訳です。さらにこれは、時代が経過するにつれ、いつかはこのままではパラダイスを知らない(死後の世界を知らない人間の)ままではなく、永遠の世界に生きるには、いずれ不完全な肉としてのこの身体からをも抜け出して(エクソダス)いくそのルート、法則が開示されたのであると・・・。
◆そこでパウロの言葉です。(13:11)「救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである」とは、2016年11月21日の第182回の日記に書いたローマ人への手紙第1章17節「信仰に始まり信仰に至らせる」がここでも述べられていると僕は思うわけです。時間的経過の中で僕らは、イエスの霊、そして聖霊というものを聴かされたわけですから、それを受領すべく自分の肉体を整えねばなりませんということを勧めていると受け取れる訳ですね。だから、「この事を励まねばならない」とパウロは、今の僕らにも激励しているのです。今の僕らは、眠りからさめるべきときが既に来ているとは、イエスによってその法則が示されたのであるからと言うことですね・・・。
◆いずれ、この肉体の復活です。その障害としての肉体の快楽とも呼ばれる、つまりここでは自然な神が造られし規則、方法から不自然なものに変形させて、その逸脱を快楽としていると、霊と肉は相反するものであるから、この肉体に関するすべての欲情に肉体と思いがスポイルされてはならないと勧めをしているのです。・・・なぜなら、この肉体を持って僕らが復活に預かるときは霊的な肉体となっているわけだから地上での肉体的快楽があるとすれば、次の世では、欠けてところが多い霊的な肉体という事になる。だから、”イエスに出会うことがこの地上の目的であった”こととしてこの恵みから(クリスチャン用語)漏れないように励まねばなりませんよということになります。・・・Ω
(13:12)夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。
(13:13)そして、宴楽と泥酔(でいすい)、淫乱(いんらん)と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
(13:14)あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。
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◆(13:11)の言葉は、今、これを読む人々にも語りかけている言葉にもなります。イエス・キリストを信じることには、常に前進があります。聖書の言葉には、過去のこと、それを信じて死んでも守ろうとするような、僕らから見れば外界との接触が無かったが故に、当時はそれが外界よりすぐれていたが故に優位が保たれていたと見られるもの、それは民族律法としてあったが、歴史が下るににつれ外界との接触が時間の中で起こるにつれて、神の啓示の中で普遍律法として位置づけがあるものとして外界にも知られ優位をもつようになってきました。それを読むと今の僕らも開眼する訳です。例えば、紀元前で今も僕らが読めば開眼する想いにさせられるギリシャの哲学者プラトンなどの著作・・・こういう中で2017年今でもモーセが神から授かった「十戒」において、正直、どれが最後に残るものかと思えば、第一戒のみではなかろうか。何らのかたちで残り、その他の九戒は、多くの破れが見えているのが正直な所ではないだろうか。
◆その第一戒とは、「神のみを第一とせよ」であった。いきなり、異邦人が「神のみ」といわれても先理解の事項がないといかんともしがたい。その神とは天地創造から、選ばれた民族がエジプトを脱出するまでの働きと奇蹟を示した神ということです。第一戒、煎じ詰めれば、神の言葉は人間がつくったものではなく、それは神から与えられたものであるということになります。だから自己解釈で都合よく変えたりすることはできないものということです。これに命をかけて来ている訳です。さらにこれは、時代が経過するにつれ、いつかはこのままではパラダイスを知らない(死後の世界を知らない人間の)ままではなく、永遠の世界に生きるには、いずれ不完全な肉としてのこの身体からをも抜け出して(エクソダス)いくそのルート、法則が開示されたのであると・・・。
◆そこでパウロの言葉です。(13:11)「救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである」とは、2016年11月21日の第182回の日記に書いたローマ人への手紙第1章17節「信仰に始まり信仰に至らせる」がここでも述べられていると僕は思うわけです。時間的経過の中で僕らは、イエスの霊、そして聖霊というものを聴かされたわけですから、それを受領すべく自分の肉体を整えねばなりませんということを勧めていると受け取れる訳ですね。だから、「この事を励まねばならない」とパウロは、今の僕らにも激励しているのです。今の僕らは、眠りからさめるべきときが既に来ているとは、イエスによってその法則が示されたのであるからと言うことですね・・・。
◆いずれ、この肉体の復活です。その障害としての肉体の快楽とも呼ばれる、つまりここでは自然な神が造られし規則、方法から不自然なものに変形させて、その逸脱を快楽としていると、霊と肉は相反するものであるから、この肉体に関するすべての欲情に肉体と思いがスポイルされてはならないと勧めをしているのです。・・・なぜなら、この肉体を持って僕らが復活に預かるときは霊的な肉体となっているわけだから地上での肉体的快楽があるとすれば、次の世では、欠けてところが多い霊的な肉体という事になる。だから、”イエスに出会うことがこの地上の目的であった”こととしてこの恵みから(クリスチャン用語)漏れないように励まねばなりませんよということになります。・・・Ω