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5.栗原〜江刺へ流転![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/fa/6dc89d6984cf44be68641de66ed369e6.jpg?1707287853)
蛇足ながら、自分が生まれた寺(祝峰山萬松寺)は昭和前期、江刺郡岩谷堂(現在は奥州市江刺区)増沢であり、ここは平安末期平泉の藤原一族が、紺紙金銀字交書一切経(国宝中尊寺経) 5300巻余を作成し、中尊寺に奉納した歴史上の寺院跡「奥州益沢院」と言われている。
テルは生前幼子の記憶の中にある父親隆道の姿を語っていた。推察するに、その父親が死去したが故、宮城県栗原郡富野村(現在は栗原市築館町)照明寺の地を去ることになったのだろう。
シゲ・テル親娘の流転先は、照明寺の関係先である岩手県江刺郡玉里の守林寺の離れに身を寄せたのだろうと推測される。生前テルが玉里小学校にも通ったと語っていた。
この親娘はこの地でも長く落ち着くこともなく、寺通しの縁があったのかまたまたこの地を離れるのである。
6.シゲの婚姻
岩手県江刺玉里での暮らし向きについての足跡は不明なのだが、この地にはそれほど長い年月居住したのではないのだろう。
玉里から移った先は隣村の岩手県江刺岩谷堂増沢の地であった。
この地にあった萬松寺住職の菅村泰喜との縁で婚姻届出が昭2(1927)年6月になされている。シゲ42歳、てる11歳、妹リツ5歳(12歳で死亡)の頃で子連れ婚であった。姓が鈴木から菅村になる。
当時の萬松寺の家族は、戸主泰喜50歳、長男泰家28歳、ハツ(泰喜父親泰成の子)45歳。
7.てるの婚姻
萬松寺住職の菅村泰喜の長男泰家とテルが結婚したのは、昭12(1937)年11月である。てる21歳、泰家38歳(再婚)であった。
ここも推測になるが、てるは11歳で萬松寺に入り、10年後に泰家と結婚した。この間てるは東京に出て女中奉公をしたと本人から聞いていたが、その奉公先や多感な思春期をどの様に過ごしたのか、聞いたことはない。
=つづく=
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蛇足ながら、自分が生まれた寺(祝峰山萬松寺)は昭和前期、江刺郡岩谷堂(現在は奥州市江刺区)増沢であり、ここは平安末期平泉の藤原一族が、紺紙金銀字交書一切経(国宝中尊寺経) 5300巻余を作成し、中尊寺に奉納した歴史上の寺院跡「奥州益沢院」と言われている。
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