スピンオフ銭明日編集長

モットーは"年を重ねる毎に幸せになる"銭明日編集長の日記

震災の気が重い日々1

2011年03月26日 | Weblog
先週18日(金)、どうしても気になるので高田方面に行って来た。
震災から8日目の被災地踏み入れとなった。
 
幸いガソリンが手に入ったので出掛けられた。
ガソリン入手の困難さもあり緊急車以外は乗り入れないようにと
規制報道も出ていたので道路は全くのガラガラ状態であった。

食料品を前日しっかりと買い込み、水沢の食糧販売の友人からも食料を調達し
水掛け祭りで有名な大原から高田に入った。

峠付近からは道路にも地盤のヒビ割れや多少の陥没も目につくようになってきた。
そして高田市矢作(ヤハギ)地区に入った途端目の前に信じられない光景が現れる。


気仙側水門から高田市内(後方)

ここは気仙川の本流ではなく支流であるが最大6kmさかのぼったそうだが
津波が押し寄せた一帯でもあり、民家の倒壊も数多く田畑も水没されていて
JR大船渡線の鉄道の線路もぐにゃぐにゃ状態である。
生まれて初めて見る津波のエネルギーの凄さにただただ唖然とし声も出ない。


気仙小学校(3Fまで津波が押し寄せる)

連絡が取れない気仙町福伏地区に居る友人菅野君に辿り着く目的もあり
“喧嘩七夕”の街でもある旧い商家や屋敷が多くあった気仙町を進むが街並みは
影もなく老舗の八木澤商店の蔵が辛うじて字形を留め横たわっていた以外殆ど壊滅状態で何もない。

人を探しているのか被災者風の方、自衛隊、消防団、警察の方がチラホラ見えるだけで
まだ何にも手付かずの見渡す限りの広大な被災地である。

神社の杉の大木が傷ついてはいたがしっかりとしていた。
多分過去の幾多の天災をすべて見て来た老木である。
今回はどのように思って見ているのだろう。

広田湾河口に車を止めて高田の街を望めば気仙川水門はあるが、河口の二本の橋も使用できず
市内で唯一のホテルだけが崩れもせず形を留めていたのが異様に見えた。

市民の憩いの場であった日本百景の名勝地“高田松原”の松並木や高田の象徴でもあった
高田松原公園や運動場、貴重な生物の宝庫であった沼、何よりも街をしっかり守っていた筈の
高さ10,5m防波堤、全てがその名残さえ留めていない。

河口の3階建の気仙小学校の3階にも水が上がったようで窓が壊れている。
この世ではないようなこの震災地で果たして菅野は生きているだろうか?

3/23現在被災者  死亡     不明     計
    岩手県  2,039名  4,974名  7,013名
    全 国  9,523名 16,094名 25,617名


<銭明日二世こと菅村経悦>
環境づくりで地域社会にお役立ち「マリングループ」ホームページ

悪夢であって欲しい

2011年03月14日 | Weblog
“11日金曜日午後2時46分”
毎月10日前後は陸前高田広田のサテライトオフィス「マリン」保養所に設置した太陽光の検針日である。

9日は地震で大きく揺れたので、三陸沖地震のこともあり11日に点検を兼ねて出向くこととした。

大船渡のK'sデンキで買い物をした後、サテライトオフィスに12時頃入館する。

昼食を取った後、保養所の施設管理を行って時計を見たなら午後1時45分であった。
 
今週初めに道楽DIVからちょっと太って帰って来た。
DIV旅行中、連日の飲食が続いてのウエートオーバーである。

何としてもスポーツジムに行って身体を絞ろうと計画していたので身支度を手早く済ませて保養所を出たのは2時少し前であったと思う。

いつもなら帰り道には高田町産直等で沿岸産品や季節鮮魚などの買い物をして行くのだが、この日は前述のことがあり真っ直ぐに町を通り抜けた。
2時10分頃ではなかっただろうか。
 
それから35分も走っただろうか。
遠野小友近くで急に道路が揺れ、運転が怖くなった。
珍しくパンクでもしたのかなと思いながら車を止めた。

車窓から外を見たなら電線が大きく波打っている。
この時パンクではなく地震であることが分かった。

暫くして電線の揺れも小さくなったので運転も可能と判断し再び車を走らせたが、信号が消えて道路に人が不安そうに出ているので、ただ事ではない事に気づかされた。
 
後で知ったことであるが、いつも見て来た高田の町や高田松原が一瞬にして壊滅したことを知って唖然とする。

人間の生命ってどこでどうなるのか分からないものである。
 
被災された方には掛ける言葉も見つからない。
不幸に命を落とされた方のご冥福をただただお祈りする次第である。

岩手の復興はどうなるのだろうか!

<銭明日二世こと菅村経悦>
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7年ぶりのモアルボアル其の2

2011年03月12日 | Weblog
後半の今回のDIVING TRIPの仕上げは
通い慣れたDIVING故郷とも言うべきボホールのアロナビーチに向かう。



カピラオ

この時期も訪れる日本人は数える程であるが日本人以外の観光客では賑わっていた。
滞在の4日間は毎日4~5人の日本人DIVERとビサヤの海を楽しんだ。


ボホールの海中

モアルボアルとは違って天気も安定して連日殆どスコールにも当たらない。
やはりボホールの海は歓迎してくれているようだ。


ウミウシの仲間


いつもの気心の知れたDIVショップなので気兼ねもなく
メインガイドのヒロシも来る度にフィリピン人に近くなって来た感がある。
日本人とフィリピン人の違いについてはいつか披露しようと思う。


船長とヒロシ

日本の大手銀行の香港支店に勤めているDIVERと食事を共にしたが
中国のバブルの凄まじさを直接関係者から伺う事が出来た。


銀が目アジ


香港の経済は相当の様であり、日本企業も関連して香港に進出しているので
大手銀行も全て張り付いていると言う事のようである。
果たしてこのまま全土にバブルが繋がってゆくものかは疑問であるとは言っていたが?


地球の生命は海から生まれた。
海は人類の母だ。


海中からの太陽

日本人は古来、海と共生してきた。
この道楽人生も終わりに近づいて来たとは思うが
私にとっても海に潜り海と戯れているのは母に抱かれていたい事なのかも知れない。

自分のマザコン癖はいまだ抜けないと言うことかも♪( ´θ`)ノ

ー 完 ー

<銭明日二世こと菅村経悦>
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7年ぶりのモアルボアル其の1

2011年03月11日 | Weblog
決算迄の束の間、業界の定時総会も無事終わり事務局長職もお役御免とさせて貰ったので
セブ島南西にあるリゾート地モアルボアルにDIVING盟友の守屋氏と出向いた。




思えばここに来たのは7年ぶりである。

盛岡の友人Tと来た二人旅であったが二つの台風に歓迎され
DIVINGもままならない最悪の旅であったと記憶している。
Tは南三陸は陸前高田の出で、私の知り得る中では浜育ちで最も海が似合い2
盛岡の地で企業家として成功した一人である。

そう言えばこの友人とは3年前もニューカレドニアに行ったが
この時も海が荒れてDIVINGを充分楽しめなかったから相性が悪いのかも知れない。
その所為もありあれから一緒にはDIVING旅はしていないしモアルボアルにも足が向かないでいた。


モアルボアルはセブ市から陸路3時間余りの漁村と共存しているリゾートであるが
何故かヨーロッパ人特にもドイツ人が多い旧いリゾートのようである。
日本人住人はダイバー以外殆ど見当たらない。


イワシの群れ


日本なら差し詰め日本海の小さな町という感じの場所である。
今回の旅では無償でボランティアをしている日本人ガイドに付いて貰った。
アキオさんと大竹さんと言う方であった。





歳も私よりは若いがそれぞれ早期に会社をリタイアしている年金生活者であるそうだ。
特にもアキオさんはモアルボアルに惚れダイブマスター迄取得して語学も数カ国語に精通している。
モアルボアルでは名が知れている日本人のようだ。

二日も夕食を共にしながらモアルボアル事情をたっぷり聞くことが出来た。
こう言う事も旅の楽しみである。


それにしてもヨーロピアンの避暑滞在は短くて一ヶ月、普通で二ヶ月とは何とも羨ましい限りである。
来たと思ったならすぐ帰るのは日本人、アメリカ人、韓国人とか言っていた。


これもイワシの群れ

ドイツ人の別荘も海の見える風光明媚な珊瑚礁の高台の緑に囲まれた閑静した場所にあり
時々中古物件も出るようである。

300坪の土地付きで600万とか。
然しこの国では外国人は規制上買えないので、代理購入になるのでトラブルも多いそうだ。
アキオさんは不動産と女性には手を出さない主義とは申していたが真相は知る由もない。

3泊4日の滞在中夕方には強いスコールが来るちょっと寒く
初日のDIVINGでクラゲに刺されたモアルボアルであった。
今回は歓迎されたのだろうか?

ー 続く ー

<銭明日二世こと菅村経悦>
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わが恩人を語る4「師匠との別れ」

2011年03月10日 | Weblog
さて芥川師匠と私はそれぞれの拠点仙台、盛岡で受注活動しながら
現場仕事の際や多忙な際は合流し応援し合いながら徐々にお客様を獲得して行った。

やがて自分の拠点での仕事をこなすだけで精一杯になり
私も盛岡でぽつりぽつりと人を雇いながら、業務を拡大する事となる。

宮仕えが下手な性格も自立独立に走ったようで、師匠からはなんと映ったものか聞いた事もない。
その後、私は面白いほどに仕事が増えて行き、昭和47年(1972)に法人としてスタートすることとなる。



一方師匠は個人経営に拘り多くのスタッフは抱えず、仕事もセーブしながらの堅実経営の道を進んで行った。
言わば私とは全く別の経営道を辿ったと思う。


今は年に数度会うだけになったが、未だこうして旧交を温めながら酒を酌み交わしながら
思い出話を肴にできることは至上の幸せである。

昨年末あった時は、俺も歳だからこの仕事を誰に引き継いで行ったら良いか悩んでいるとは言っていたが
その夜は午前二時迄ハシゴしたとか、私などよりタフである。



現場徹底主義と組織経営主義の違いで、私などは今更現場には戻れない、つぶしが効かない人間である。
師匠の健康を祈りながらこの項の終わりとしたい。

ー 完 ー

<銭明日二世こと菅村経悦>
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