スピンオフ銭明日編集長

モットーは"年を重ねる毎に幸せになる"銭明日編集長の日記

弥生雑感'23

2023年03月31日 | Weblog
 月末に向かい暖かい日が多くなった。国天然記念物の盛岡石割桜の開花も間もなくだろう。

 欧米の運動ガイドラインでウォーキングをしない人と週2〜3回30分の適度な人比で、心臓病や脳梗塞が確実に減少のデータが実験で示され報道されていた。

 スマホアプリで健康管理を初めて5年になり、日々の日課にしている。真冬酷寒の季節を乗り切った3月早春はウォーキングも実に楽しく心が和む。

この健康アプリにスタンドって項目がある。1日12時間は動きなさいと指令されるのだ。
自分は昨日で1103日間(3年と8日)達成していた。

この間寝込んだことがなく、動き回っていたことになるから、凄い記録であろう。然も連続してのことだから、容易いことではない。
 コロナ感染症にも罹患せず、風邪で寝込んだ記憶もいつだったか遠い昔で思い出せない、好きな酒では二日酔いもしない、"無事これ名馬"とは自分の為にあるのでは・・・^_^
                                =おわり=
 




企業戦士

2023年03月27日 | Weblog
 自動車業界一筋で60有余年に渡り活躍していた兄弟の様な友人、谷地勇三さんが23日旅立った。'23年の23日の数字には不思議な縁を感じぜざるを得ない、この人ほど日産(23)を愛した企業人はいないのではないだろうか❗️

 小生の実兄も岩手の日産で長く優秀セールスとして活躍の後、外資系企業に引き抜かれ転職したのだが、その後を谷地さんが引き継いで、兄に劣らない優秀セールスマンとして足跡を残した。
彼はサラリーマンでありながら、365日24時間いつでもお客様の困り事を受け付け必要とあらば駆けつけていた。ワーカーホリック(仕事中毒症)の流行り言葉が、日本の経済を押し上げていた時代の代表格的でもあった。

 
 退職後も🚗販売会社を立ち上げ、結構羽ぶりも良かったのだが、長年の無理が加齢に耐えられなかったのか、ここ数年病院の世話になることが多かった。
 それでも旅立つ寸前まで、医療携帯酸素ボンベを抱えながらお客様を訪問していたとは、谷地さんらしい壮絶な終わり方であった。

 人にはそれぞれの生き方、終わり方があるのだが、谷地さんは車屋一筋で生きて来たから、車屋のまんま三途の川を渡りたかったのだろうか・・・🙏
            =おわり=
 

普通の生活

2023年03月17日 | Weblog
 3.11は東日本大震災から12年の忘れられない日だった。死者と行方不明者2万2318名。
 新型コロナの感染症が始まって3年が過ぎ、日本の累計死者7万3391人。
 今年2月のトルコ・シリア大地震による被害死者は5万人を超える。

 突然訪れ被災された方の関係者の殆どは、あの日以前の普通の生活に戻りたいと口にする。
 自分などはこうして暮らしている日常に感謝して、この世に生まれて来た悦びを振り返ったことがあっただろうか?
 幸いと言っては申し訳ないが、天災にも人災にも遭わず、大きな病気もせず、経済的にも恵まれ、人様に迷惑をかけず?、人並みの人間としてくらしている。

 こんな自分の様な普通の生活が突然失くなった人々にとって、叶えそうにない普通の生活を口に出したくなるものなのだろう。
分かったようなことを申し上げたが、そんな非日常と闘っている人々に、かける声は見つからない。普通って簡単ではないなぁ!
            =おわり=

 



 



 

 



北帰行

2023年03月09日 | Weblog
 北国の寒さも一気に緩み、白鳥が北へ帰る準備を始めた。ファミリーなのか、仲間なのか、数羽もあれば10羽以上もある夫々の群れが、大空で何やら騒ぎながら旅立ちの朝練をしている。
 この鳥たちはシベリア生まれなのだろうが、帰り着く土地は戦争もない平和で安全な住み良い自然環境溢れる野山であって欲しいと願う。

 生まれた自分っち(家)は、人里離れた山の中腹にあって獣や野鳥と戯れながら育った。生活の為もあり捕獲もして小遣いを稼いだ。そんな昔の非業を忘れてくれても良いのに、時々悪夢にうなされる。
 そう言えば、お袋の野良仕事の側に、体が弱ったタヌキが現れバッタリと倒れた事があった。
家に連れ帰り食事を与え介抱してやったなら、元気になりしばらく一緒に暮らしていたが、やがて山に逃げて行った。この恩知らずなタヌキもきっと自分の家に帰りたくてそうしたのだろう。

 1963年高卒で身寄りがない東京に就職した。ある時、同郷の連中と亀戸で安酒を飲んだ勢いで、上野駅18番線ホームに足が向いた。 
 田舎が恋しくなって、東北本線の発着駅に来てみたくなったのだろう。まだ新幹線がない時代だったから、ここは郷愁に繋がる貴重な場所だった。

 然し、高卒給料が2万円に満たない時代、列車運賃は高額で帰りたくても帰れない北帰行であった。
            =おわり=