スピンオフ銭明日編集長

モットーは"年を重ねる毎に幸せになる"銭明日編集長の日記

震災の気が重い日々3

2011年04月04日 | Weblog
広田方面には一般国道は通れず、竹駒から迂回路に入り箱根山のふもとの道路を大船渡方面に向かう。

山のふもとからは高田の街は一望でき、震災の凄まじさが更に広がる。
反面、山の手に建っている家々は春も間近の陽光を浴びて何事もないように光り輝いていた。

迂回路は通岡道路に合流し、そこから広田方面には新しくできたアップルロードに右折する。
間もなく小友町に入ったがここも一帯が碁石方面まで壊滅状態である。


高田小友の町

1960年の三陸チリ地震津波の被災の後、市内から小友地区を頑丈にガードしていた防波堤も用を足たさなかったようで、またこの一帯が津波で全滅してしまった。
広田半島への陸の入り口はこの道路しかない訳で、広田半島は震災から1週間孤立していたが今は何とか通れるようになっていた。


石浜から広田湾

サテライトオフィスがある前花貝地区には広田海水浴場側から入ったが、ここの防波堤も形を留めていない。
地区唯一のコンビニも跡形もなく海側の集落も被災されている。
命を落とした方と行方不明者で十数名が被害にあっていた。

サテライトオフィスは津波には大丈夫だろうと言うから建てた場所で、両面に海が見える高台に位置している。
思惑通り家財がやられた程度で太陽光発電の設置状況も何ともない。


広田湾石浜から別荘を見上げる


別荘から広田海水浴場方面

近くの家に集落の方々が集って支援物の仕訳等していたので、お見舞いを申し上げ積んで来た食料品を提供する。
また毛布類は近くの避難所「モビリアキャンプ場」に提供し帰路に着く。

15年前に昭和のバブルのお陰で、縁あってこの地に惚れて設けた別荘であった。
海の方々は内陸の人間と比べて家族や親戚縁者の繋がりが強いと聞いていたが、よそから来た我々に対しても親切にして頂いていた。
内陸の人よりも人情深さがあり子供達も礼儀正しく益々好きになっていた広田である。

本日現在広田半島の生活インフラは回復していない。
災害復興と言うのは容易いが気の遠くなるようなエネルギーも資金も必要である。
震災前の形まで戻すのにどれ程の期間が掛かるものやら・・・・・。

この地は自然豊かで適度に湿地もあり野鳥の宝庫であったが、そろそろ初鳴きが聞こえる鶯も果たして戻ってくるのだろうか?
また時々通って来てこの町の復興する姿を見守りたい。


<銭明日二世こと菅村経悦>
環境づくりで地域社会にお役立ち「マリングループ」ホームページ

震災の気が重い日々2

2011年04月01日 | Weblog
菅野とは水沢商業の同級生である。
彼が陸前高田から越境入学して来た理由は、就職に有利なことだったようであるが
高校を出てからはそれぞれの人生を歩んで来た訳で、その間の交友は殆どなかった。
しかし私が15年前に陸前高田広田町の前花貝地区にサテライトオフィスを構えてから交流が再開した。


震災前の美しい高田松原

年に数回は高田の街で旧交を温めるのが年中行事になっていた。
彼は気仙町のリーダーで、様々な団体に所属していてこの町の名士となっていた。
そんな訳で酒が入れば豪遊をする事となり、私にとっても楽しみになっていた。

さて、その菅野が今回の震災でどうなってるのか。
同級生からも心配する声が多く、代表して訪問した次第でもある。

この辺の被害状況は、リアス式海岸のV字に引っ込んだところから入り込んだ巨大津波のエネルギーが
村落をことごとく飲み込んで、家が家を倒して行ったようである。
反面、出っ張りのところは高台にあり嘘のように殆ど被害は見受けられない。

自宅近くの月山神社に行ってみた。
地域の方が数十人テントを張り暖房燃料の材木を切っていたがここには居なかった。
しかし小学校の前に避難場所の地域交流センターがあることを伺った。

地域交流センターも人がごった返していたが、入口側の事務所内にそれらしき人物を見かけた。
いつもと変わらずに地域のリーダーを担って家族共々無事であったようだ。

心配して駆けつけた自分には「何しに来た」であったが、腐れ縁の友人とはそれで良いと納得する。
菅野と飲み歩いた高田の店が懐かしく感じる、その一軒も今は無い、せめてお店の方は無事であって欲しい。

菅野の無事を後にサテライトオフィスがある広田半島に向かう。


<銭明日二世こと菅村経悦>
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