スピンオフ銭明日編集長

モットーは"年を重ねる毎に幸せになる"銭明日編集長の日記

「平泉」世界遺産登録へ再挑戦・其の参

2010年11月29日 | Weblog
ー 平泉藤原時代の完成 ー
地力の肥えた江刺で豊力を貯えた清衡は政治家としての才能も遺憾なく発揮し、義家とのタッグで清原を滅ぼし、名実共に奥羽両州の管領となり、清原・安倍双方の地を合わせ「陸奥出羽押領使」となり平泉文化の花開くことになる。


毛越寺境内

清衡の中尊寺建立の棟札が残っている。
日本最古の棟札であり、「藤原清衡 女壇平氏」の文字が書かれている。
女性施主(女壇)平氏は清衡の再婚相手であろう。

各前ははっきりしないが、平氏の女性との二人三脚で清衡は金色堂を建立し、大伽藍を建立した。
大伽藍は「鎮護国家大伽藍一区を建立供養し奉る」に始まる願文が残っていて、清衡の壮絶な平和意識、全てに渡り、あらゆるものが平等である絶対平等思想に貫かれている。

宮沢賢治が熱烈たる法華経信者であったことはよく知られているが、その千年前、天台思想の根幹をなす法華経に熱心に帰依したのが清衡である。
自らの苛酷な体験に加え、あまたの人々の死に立ち合った清衡は深く法華経に帰依し、これの具現を願った。全ての衆生が平等に成仏できるという絶対平等思想を清衡は深く自らのものとした。

願文の最後は、自らを北方の王者としたあと、「その全分を捧げて(白河)法皇を祈り奉る」とした。


毛越寺”兵どもが夢のあと”


 
ー エピローグ ー
我々は藤原一族と同じにこの地で生まれ育ちやがて朽ちて行く。
歴史は中央政権と地方の争い確執を幾度となく繰り返している。
アテルイ~前九年後三年合戦~平泉奥州合戦~戊辰戦争、と不思議な感がする。

作家の高橋克彦氏は奥州人の反骨精神がそうしていると語っているが
今回小沢一郎の悲願がならなかったのもそういう歴史の繰り返しがこの地にはまだあるのだろうか・・・


中尊寺から北をのぞむ

ー 終わり ー

<銭明日二世こと菅村経悦>
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「平泉」世界遺産登録へ再挑戦・其の弐

2010年11月28日 | Weblog
ー 平泉を含む奥州胆沢地方の歴史観 ー
「水陸万頃」と続日本紀の延暦8年(西暦789年)7月17日の記事にうたわれた程、胆沢地域は北上川(当時は日高見川)の恵みを受けて農産物生産に恵まれ、産出品のレベルも高く、ここで清衡は地力を貯えた。
居舘豊田の舘は北上川支流の人首川に面していたため、舟運は不便であった。

本流北上川に面し、河口が整っていた平泉に本拠を移した。
安倍氏の一員でもある清衡は、衣河関を越し、平泉を本拠と定めた。
それ以前衣河関から北、奥六郡の長として安倍氏はあり、陸奥を南北に分けた境昇が衣河関であった。

南は律令の及ぶところ(大和朝廷)であり、北は安部氏の支配する奥六郡である。
安倍氏以前の中央勢力との戦いと云えば、その頂点はアテルイの延暦年間の二十年戦争であり、坂上田村麻呂が武門の最高位として征夷大将軍に任じられた戦いである。

以降、武門に生きる人間にはこの最高位の官位を目指して戦いを繰り拡げる。
八世紀のアテルイの時代から三百年の空間を経て、十一世紀安倍氏の時代となる。

前九年合戦、後三年合戦を経て、いよいよ清衡の登場となる。


月見坂



ー 藤原三代党首 藤原清衡 ー
清衡は藤原秀郷(藤原氏の系譜、関東の豪族、別名俵藤太)の血を引く藤原経清(陸奥の国亘郡の豪族)を父とし、絶世の美女とうたわれた安倍頼時の娘コウを母としている。
源義頼は前九年合戦で経清を断罪したが、息子清衡と母親コウは助命し、義頼と組んで安倍氏を滅ぼした清原武則の子息武貞にコウを与えた。
このことは平家滅亡に至るケースと似ている。

その結果、異父兄弟の家衡が誕生した他、武貞の甥男として真衡がいる。
兄妹3人の清原内での権力争奪戦に源義家が加わっての合戦が後三年合戦である。

清衡は母と共に清原氏の本拠地である横手で暮らしたと思われるが、やがて父の舘「豊田の舘」で妻子と暮らすこととなる。
ここを襲い、舘を焼き払い、清衡の妻子を殺害したのが異父弟である家衡である。

甥男真衡の死により、家衡は清原内での覇権を求め、この挙に出たと思われる。
幼い日、父経清を殺され、いままた妻子を殺された。
こういう苛酷な運命を、身をもって体現されたのが清衡であり、数奇な運命の超克の場として仏教都市平泉の造営が始まる。


毛越寺庭園

ー 平泉藤原時代の完成に続く ー

<銭明日二世こと菅村経悦>
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「平泉」世界遺産登録へ再挑戦・其の壱

2010年11月27日 | Weblog
ー プロローグ ー
私は平泉の北隣奥州市江刺区増沢地区にある万松寺という寺で生まれた。
この地区に平安時代末期平泉と関係が深い奥州益沢院があった。

平泉を造営した初代藤原清衡はこの益沢院で「紺紙金銀字交書一切経」制作の大事業を完成させ、平泉金色堂の落成の際に奉納したと言われる。
平和な浄土世界を祈願しての金銀字一切経は5300巻を越す大経典であり、国宝に指定されている。

その歴史遺産「平泉」が世界文化遺産登録に向けて二度目の挑戦をしている。


弁慶堂からのぞむ月見坂



ー 幻の奥州益沢院 ー
この地は清衡の父の舘「豊田の舘」があって清衡も平泉以前はここで妻子と暮らしている。


不動堂

金銀字交書一切経5300余巻を1117年から8年がかりで200人の僧侶によって作られたと推定されている。
いずれにしても膨大な財力と経済力とカリスマ性が備わっていなければ成し得なかった訳で、大規模な天台宗の組織が存在していたと思われる。
平泉へ移転したのは水利の為であろうが、当時益沢院は平泉中尊寺の「鍵持ち寺」と云われていた。

残念ながらいまだ考古学調査で遺跡の存在が明らかにされていない。


金色堂

ー 平泉を含む奥州胆沢地方の歴史観に続く ー

<銭明日二世こと菅村経悦>
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