スピンオフ銭明日編集長

モットーは"年を重ねる毎に幸せになる"銭明日編集長の日記

皐月雑感

2016年05月31日 | Weblog
暑かったり寒かったりの不安定な気候の5月も今日で終わる。
本日、昭和のスーパースターであった元プロ野球選手清原和博(48歳)の覚せい剤取締法違反の有罪判決が確定した、懲役2年6ヶ月、執行猶予4年。
国民的スポーツとして今はサッカーの方が盛んになったが、一時前までは圧倒的に野球が主力であった訳で、野球をやるにせよ、やらないにせよ、このショックは計り知れない。


自分が立ち上げた、我が社の定時株主総会が27日に開催された。
(株)トライスは46期、(株)カパス盛岡は25期の決算であった、お陰様で数字の上では好決算を続けているが、水面下の数字以外のことは殆ど分からない、会社を去ってからオーナー権は保有し継続しているが、役員ではないので当然である、任せたなら余り口を出さないのが私の流儀である。
28-29年度役員の改選期でもあった、トライスは26-27年度から社名も経営陣も若返り一新し、第二創業と銘打って来た、その真価が問われるこれからである。
願わくは、人を大事にする、顧客奉仕で他の追随を許さない、オンリーワン企業になって貰いたい。


G7サミットが伊勢志摩で開催され、アメリカのオバマ大統領が広島を訪問したことは大きなニュースとなった、現役の米大統領では初めての事だった。
我々同年代は昭和20年の終戦っ子と言われている、この年代だけは人口数が極端に少ない、男が兵隊に取られていたためである、物心が付いて終戦に生まれたことにいささか恥じめいた時もあったが、今は敗戦国が世界で驚嘆されている経済復興の一端を担えた訳であり、堂々たる人生であったと誇りに思っている。
=おわり=

誕生月の想い その2

2016年05月23日 | Weblog
昭和30年、小学3年生から本校に行くようになるが、10歳くらいで片道4kmを歩いて登校するのは相当きつかった、まして舗装もしていない道である、自転車が通常の交通手段であるこの田舎では、この程度歩くのは当たり前の頃である、鉄道も蒸気機関車であったから固形燃料(炭・亜炭・石炭)がエネルギー源であった。下校の際に馬車や馬そりに盗み乗りしてよく叱られたことが思い出される。


分校の同級生は15人程度であったが、本校では120人の3クラスであった、この仲間とは中学卒業まで一緒だったから、小中一貫教育のようなものであった。印象にあるのは小学6年の冬休み、学校が全焼したことであるが、自分は姉が嫁いだ仙台に居て火災現場には駆け付けなかった、後で火事現場に立ち会った同級生からショックだったことを聞いた、校長先生は一夜にして白髪に変わっていた。


この時代自分達が熱中したことに"鳥っこ取り"があった、春と秋には近くの山の頂に、仕掛けして野鳥を捕獲するのである。生まれた場所が山の中腹であり"鳥っこ取り"には絶好の場所だった、夜明けとともに渡ってくる野鳥を、同じ仲間の囮のさえずりを利用して捕獲するのである。
兄弟三人が長年引き継いでやっていたので、ノウハウの蓄えがあり近隣の仲間に負けることはなかった。
正式には野鳥保護法違反に触れることであったが、当時は取り締まりが緩かったので、方々の山々に多くの仲間がいた。
我が家は殺生を戒める寺にありながら、こんなことをしていた訳で親は肩身が狭かったと思う、自宅には囮用の野鳥を沢山飼っていた。
以前のブログにも書いたと思うが、今でもこのことが自分の商いの原点になっているようだ。自然界から天気を予想、自然を味方にする工夫、四季を判断する目、野鳥の習性、仲間に勝つ工夫、野鳥同士の駆け引きの演出、捕獲基地づくり、捕獲品の売買交渉、鳥カゴ作り、竹スキー作り、鳥餌の仕入れ、鳥餌用雑穀の管理、野鳥の健康管理等であり、常に収支バランスを考えながらの趣味であった。
中学の頃は、学業に影響するので先生から親に注意があったが、辞めることはなかった。


高校は担任の先生の勧めるまま、隣町の商業高校に行く、本来ならば寺に生まれ、名前も「経を悦ぶ」なので寺関係の方面に行けば、私の人生は全く別物になっていたのだろうが、自分には将来や進路を考えるような能力も自己顕示欲もなかった。
父親は叔父のいる県北二戸の寺の後継になることを願っていたのだと思う。事実小学校で和尚になる入り口の得度式は終えていたが、親からそうせよという話は一度もされた覚えはない。父親に連れられ檀家の法事には何度か行ったが、仏前にあるお菓子が食べたくて着いて行った記憶が残っている程度のまやかし小僧であった。
高校生活は楽しいものであったが、部活も勉強も中の上くらいで余り頑張った記憶はないが、経済や経営といった商業分野の成績はよく得意分野であった、英語や物理はついでに習う教科だったがよく分からなかった、英語だけは教員とそりが合わず赤点で卒業した。こういうことはトラウマになって一生付いて回るものである。
(=~18歳編 おわり=)

誕生月の想い その1

2016年05月21日 | Weblog
今月で自分も71回目の歳をかさねた、何とか無事ここまで辿り着いたことに感謝している、最近は毎日スマホアプリで心拍をチェックしている、体調が良い時は60/分、体調不良時は80/分と出ることを最近知った、自分のベストな60であれば85歳くらいまで生きると潜在寿命予測値が出る。
どこまでの寿命かは"神のみぞ知る"のだが、この辺でここまでの自分を素直に振り返ってみることにした。

(我が家の藤 誕生日に満開)

昭和20年5月に岩手県江刺郡岩谷堂の増沢地区にある、萬松寺山の中腹にある寺の三男坊として生まれた。父親は住職で教員であった、小学2年までは街の中心部岩谷堂には遠かった為分教場に通った、分教場での先生は父親であり厳しく育てられた、自分の中には優しかった記憶はない。
通学路は、田んぼのあぜ道を這うような往復一里(4km)の登下校であった、寺近くの参道は両側に木々が生い茂覆いかぶさる道で、門前の家からの500mは真っ暗で、闇夜には提灯がなければ歩けない山道であった。その頃、我が家に電気設備がまだ来ていなく、埋葬は土葬であり、葬式の夜は兎に角怖かったが、同居していた祖母の「死んだ人より、生きている人の方が怖いのだよ」の一言で救われた。この言葉は自分の中の人生訓になっている。

(フルコースで連れ合いと祝う)

母親は父と17歳ほどの年齢差があり、結婚後三人の男の子を設けた、物心ついてから知ったが父は再婚で先妻に女の姉が一人いた、姉の母親は病死と聞いた。末っ子の自分が両親の愛情を一身に受けたのだろうが、父は自分が結婚前27歳で、母は天寿を全うしたが自分が58歳の頃、87歳で旅立った、父との想い出が薄いのが悔しい。

生まれたこの地は、野うさぎ、狐、狸、イタチ、笹グマ、野鳥類などは身近にいて、野山には山菜や茸や木の実が豊富にあり、四季折々野山を駆け巡ってそれ等を物色し、山や川でのザッコ釣りや水遊び、時には貴重なタンパク源のウナギや鯉を取ったり、の環境で一部は料理して食べた訳で、今思えば贅沢な大自然の中で育った。
熊や山猿のような生活の元で自分が生まれ芽を出し、育ち始めた。
(=~10歳編 おわり=)