スピンオフ銭明日編集長

モットーは"年を重ねる毎に幸せになる"銭明日編集長の日記

男として如何なものか!

2009年08月29日 | Weblog
7月の末にダイビング師匠のミミ(本名は本人了解がないから伏す)が来県した。
私がこの道楽スポーツを始めたのは1997年であった。
ライセンスは盛岡で取得したが、ダイビングトリップのホームタウンはフィリピンビサヤ諸島に求めた。

その理由は日本に一番近い珊瑚礁が豊富な外国であること。
7000もある島国であり、ダイバーにはミステリー性と魅力がある。
渡航費もDIVフィーも極端に安く、貧乏ダイバーには敵地と判断したことにある。

成田から5時間でセブマクタン国際空港に着くが、目的地リロアンはセブ島の最南端の小さな漁村海岸で陸路で4~5時間かかる。



ポイントはネグロス島が対岸にあり、潮流が強く珊瑚礁以外にも魚や生物が多くいて、特に海牛などのミクロなものが極端に多く知る人ぞ知る隠れたダイビングスポットである。


■海牛(うみうし)


■オニオコゼ

ホテルはコテージ風のリゾートとは名ばかりで、日本では掘っ建て小屋クラスである。
湯の出ないシャワー(バスタブなんかはない)、水の流れないトイレ、電気もしょっちゅう停電、一部屋のダイニング兼寝室は夜な夜なヤモリの来訪である。
然し、テレビも音楽もない異国で波の音と満天の星空を見て暮らすつかの間は至福感に浸ることが出来次第にはまってゆくのである。


■至福のひとときを過ごす私

このリゾートの日本人スタッフにミミが居た。
海外のダイビングショップにはこういう日本人のガイドスタッフは必ずいるが、失礼ながら殆どは都落ちしたような個性派が多い。
彼女もそんな一人だろうと思っていたが、幸か不幸かあれから12年も付き合うことになってしまう。(つづく)

<銭明日二世こと菅村経悦>
環境づくりで地域社会にお役立ち「マリングループ」ホームページ

恩師の旅立ち

2009年08月26日 | Weblog
久し振りにブログを書く。
バイオリズムが狂った為か一月振りのペンになる。

7月3日、中学時代の恩師、菅原昭平先生が旅立たれた。
昭和になった時生まれたから昭平と命名されたと言ってらしたから84歳の人生であった。

自分にとっては一年生での担任で、社会科は中学三年間教わった。
当時から世界史に熱弁を奮っていて、特にも中東問題を語る時の師は眩しいほどに光り輝いていた記憶がある。
私には今でもよく分からない世界史である。

話は変わるが、私の親父は曹洞宗の貧乏寺の住職であり、傍ら教員も兼務していた。
自分が30歳前に旅立ったから親父の思い出も薄れてしまったが、教師の鏡の様な人間で一点の曇りもない立派にカッパを着せたような人だったようだ。


(種山高原 星座の森・奥州市江刺区)

当時の江刺郡岩谷堂増沢にあって、菅原昭平先生の恩師は親父、私の恩師は菅原昭平先生と言う因縁めいた間柄になっていた。
師の幼少時代は身体が弱かったらしく、親父は特に気にかけていたようで、私は事ある毎に感謝の言葉を頂き恐縮した。

その偉大な師は、その後故郷を離れ盛岡の地にて大活躍され、退職後も先人記念館初代館長を皮切り岩手の教育界の代表格として全日本で手腕を奮われた。
その集大成は平成17年に岩手日報に連載された「明鏡止水の人 郷古潔」(水沢生まれ、三菱重工初代社長)に代表され、盛岡と奥州市で盛大に出版会が行われた。

師は泰家先生(親父の名前)の息子なんだから、もっと勉強が出来る筈なんだがなとお袋に常々話していたそうだ。
師からは父子鷹と期待されていたのかも知れないな?

そう言えば師は奥さんを披露する時、当時からうちのカカァと言っていたのも奇異を感じたな。

郷土の誇り昭平先生のご冥福をお祈りし合掌

<銭明日二世こと菅村経悦>
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