スピンオフ銭明日編集長

モットーは"年を重ねる毎に幸せになる"銭明日編集長の日記

葉月雑感

2016年08月31日 | Weblog
昨日の台風10号は北国の夏の終わりを告げに来たのではないだろうか、それにしても県北地区の爪あとは相当酷かった、こんな時に不謹慎だがここ盛岡って自然災害が本当に少ない、寒いのを除けば住み良いところである。


自分は緑内障の障害はあるが、内臓関係は丈夫な方だ、唯一中性脂肪値は高いがこれは40代からで自分にとっては一病息災を忘れないように、神が与えてくれた持病と捉えることにしている。医者からは立派な高脂血症だと診断され薬は常用している、月に3000円は安い方だ。

古稀の年から一年経ち、歯が欠けるように仲間が旅だったりしているが、今月も同年代の友人が亡くなり、その友人の訃報を知らせようと電話したなら、その友人も癌と闘っていた、そう言えば先月も同年代の方が闘病に勝てずに亡くなったっけ、この年代は平均余命が特別短いのではないのかと思ったりしている。命って諦めきれないものなんだろうな、いずれ知る時が来る(≧∇≦)
(庭の吾亦紅)
盛岡の真夏日が25日もあり、リオ五輪がありで、疲れが抜けない、目もハレーボッターい葉月末である。
=おわり=



ウサギとカメ その3

2016年08月25日 | Weblog
ガンテツは多才な奴だった、特にペンを握れば才は極わ立つ、地方行政に対しての提案記事は多く、業界新聞に連載した、自主出版の本も何冊か出した。
当時地方新聞社主であった奥寺一雄(故人)氏を師と仰ぎ、その実行する旗頭役を担った。
「日中友好の翼」なる、いわて花巻空港活性化に繋げるチャーター機を中国山西省に何便も飛ばした、いわて路を桃の花で埋め尽くそうとする桃源郷植樹、平泉を世界遺産登録へ繋げる安倍一族の検証等、寝食を惜しまない活躍があった。
その頃の自分はと言えば、社業が軌道に乗り仕事が面白く、ひたすら会社の発展に全力投球だった。

(昭和20年の岩谷堂役場 我々のふるさと)

人それぞれだが会社経営には、昔から人・物・金が基本である。ガンテツ会社に後継者は育っていたか、番頭格がいたか、公共工事は安定して受注出来ていたか、資金繰りはどうだったか、同じ経営者としては甚だ疑問に思ったものである。
ガンテツ会社は東日本大震災が起こる直前に消えてしまった、今の復興バブルを見れば残念だったろう。

ガンテツはどっかで下駄を履き違えてしまったが、来世では豊かな才能を生かし、好きな本でも書いてのんびり暮らして貰いたい、ウサギのように常に先頭を走って来た人生だったろうが、カメのような生き方もそれなりに楽しいもんだ・・・・🙏

=おわり=





ウサギとカメ その2

2016年08月22日 | Weblog
鉄工会社の三代目のガンテツは、40代前半に先代から社長を受け継ぎ、本社工場も故郷江刺の工業団地に新築移転して橋づくりの専門会社として光輝いていた。
自分とは盛岡の得意先の店で30年ぶりで再会した、自ら東北古代史の英雄、阿弖流為(アテルイ)の生まれ変わりと言っていた顔はすぐ分かったが、ガンテツが自分を果たして覚えていたかは今は確める術はない。

我が社は創業から48年仕事の基本姿勢は変わらない、小さな仕事の積み重ね、大会社がやらない隙間産業でサービス業的建設業である、一方ガンテツ会社は公共工事を入札で受注する土木建設業、我が社とは生きるスタイルが真逆であり、良く酒は飲んだが仕事の話をした記憶は薄い。

ガンテツの夢だったのか、40代の終わりに政治家を目指した事がある、学生時代に代議士私設秘書の経験はあるが、地元盛岡での下積みもないのにいきなり県会議員に立候補した、彼は常々口にしていた"出たい人より、出したい人"に当てはまる人物であったのか今も定かではない、結果善戦はしたが次点で敗れた。自分も人生一度だけと思い選対に入り全面的に応援した。
この負け戦のショックは今でも忘れられないし、ガンテツの今後にも影を落とすこととなる。
=つづく=


ウサギとカメ その1

2016年08月17日 | Weblog
また友人が一人亡くなった、小学校の頃からの愛称を"ガンテツ"と言う。
故郷が同じで同級生だが、何をするにせよ常にリーダー的なところに出て来る奴である。
自分が分校から本校に合流した小学3年には、既に目立った存在でこんな奴も世の中に居るんだと、山猿で育ったような自分には強い刺激があったと思う。


小学6年から水沢に転校して行き、その後のガンテツがどうなったかは分からないが、盛岡一高に越境入学したとは人伝に聞いた事がある。
彼は鉄工加工業をしている会社の三代目で、先代はゼロ戦を作った技師と聞いている、男の子は彼だけであり、その会社を継ぐ事はガンテツが背負う運命であったと思う。

ガンテツと自分が再会するのは、30年後くらいになる、今回のタイトルが"ウサギとカメ"かは、同じ時代に生きた経営者でありながら、自分とは違う道を歩んだガンテツの生涯を検証してみたくてそうした次第である。
今回はちょっと長いブログになる
=つづく=





バブル時代の遺産

2016年08月10日 | Weblog
自分には夏になれば頻繁に訪れる場所がある、ここは東日本大震災で壊滅的被害があった、陸前高田市広田町である、広田半島は突端に黒崎仙郷の名勝地があり、風光明媚な素晴らしい自然環境がある。
会社の保養施設として20年前に取得した、我が社はお陰さまでいい経営状況を維持しているが、当時はバブルの真っただ中にありこの不動産投資も節税対策の一端として求めた。
なぜここを求めたかはいろいろあるが、過去の津波の被害がここまでは来なかったのが最大の決め手であった、思惑通り今回も津波は免れたが地震での被害はあった。
震災以降は復興インフラ整備の関係で地域は滅茶苦茶に変わって来ている、自分らはよそ者の身であり言うがままに従っているが、自然環境が破壊されるのは忍びない。

今は殆ど誰も利用する施設ではないが、管理人として月に一度は行き来している、今日も草刈りや掃除に訪れた、ダンプカーがひっきりなしに往来するので土ボコリも舞い、室内の汚れも半端じゃない。
訪問して最初に行う事は、海に向かい犠牲者に手を合わせご冥福を祈ってから入館する、ここの一番のおすすめポイントは野鳥の多さである、震災後はめっきり少なくなっていたが、最近少し戻ってきたようだ、広田湾側の施設に隣接している樹木にウグイスが20〜30羽群れていた、ウミツバメも舞う、ヤマガラやシジュウカラも現れる、黒アゲハも目にした、湿地帯も少し蘇生して来た、広葉樹の 木の実も多く、好物の虫が多いという事なんだろう。
夜の満天の星の輝きは盛岡の比ではない、太平洋から上がってくる日の出も最高だ、然し多くの犠牲者を飲み込んだ海である。


戻る道の最短距離は、復興工事が盛んな高田の街を抜け、遠野住田ICから釜石自動車道路に入り、花巻JCTから東北道に移り盛岡自宅まで2時間余り掛かる。今日は奥羽山脈に沈む夕焼け空にも不思議な風景があった。

=おわり=