スピンオフ銭明日編集長

モットーは"年を重ねる毎に幸せになる"銭明日編集長の日記

文月雑感'23

2023年07月31日 | Weblog
 暑い🥵暑い💦暑い🥵、梅雨明けを待ち構えた様に日本列島に猛暑酷暑が訪れている。

 ここ北国盛岡の四季を大雑把に区分けすれば春2ヶ月、夏3ヶ月、秋2ヶ月、冬5ヶ月となる。日本列島の緯度は北緯20度〜45度に横たわり、北端と南端の長さは約2750kmとなり、本州1500kmの倍くらいなる。
 そんな日本列島なので季節感も地域別に違って当たり前だろうが、夏は余り地域差がないのが最近の温暖化現象である。

 私ら北緯40度近辺に住んでいる北方民族は、どちらかと言えば暑さに弱く、寒さに強い?、方に属する。それは暑さ期間が少ないからしばし耐えればすぐに涼しくなることを長年の体験から分かっているからだと思っている。
 
 でもこう暑い日が続くと無性に海が恋しくなる。海から遠い内陸の山間地に生まれ、終焉の地も盛岡と言う内陸の盆地に住んでいれば、それは自然の流れだろう。
 道路事情がまだまだ未整備な青春時代、太平洋にも日本海にも車で片道4時間も掛かった。現在は半分もあれば海に着く。

 同年代なら山より海に憧れたものである。そんな自分が仕事の合間合間に海を目指すダイビング病に侵されたのは、会社を起業して30年経った頃である。
 人生は様々だろうが、仕事を通して自分を磨くのも、趣味の世界を通して生き甲斐を感じることも、それぞれ素晴らしいことではあるが、自分はどっち付かずの生き方を選んで歩いて来た。
                                =おわり=


 
 


スイカ

2023年07月29日 | Weblog
 夏の果物はスイカが一番、そう思っているのは自分だけではないだろう。
 今年も友達から尾花沢スイカを頂いた。暑い夏には何よりにも変え難い逸品である。大きさも中身も文句なし。
近隣にも滝沢スイカがあり有名であるが、毎年頂くので地元産を買わないで首を長くしていた。

 スイカの原産地は南アフリカで4000年も前からあったそうだ。シルクロードを経由して中国から伝わったので西瓜となった説、ポルトガル人が持ち込んだ説があるようだ。
日本国内の産地出荷量では熊本が1位、次いで千葉県、3番目が山形県となっていて、ここ10年順位が変わっていない。尾花沢スイカは日本の特級品だ。

 昭和中頃、運動会って楽しみがない時代の健康作りを兼ねた、全員参加型のスポーツ振興策であって、地域仲間とのコミュニケーションを司る、一大イベントとなって定着していた。

 その頃の夏場気温も真夏日を超えることは稀で、運動会は夏場の行事として、定着していた。
 老若男女が一堂に介して、部落の予選会で競い合い、その代表が地域で決勝戦を争って順位を決めたものだ。最後には必ずリレー競技が組まれ、燃えに燃えて楽しかった。

 そんな夏場には必ずスイカが振る舞われていた、スイカ割り競争も楽しい思い出だった。輸入果物も少ない時代、スイカってみんなの心の中で忘れることが出来ない。
ソールフードとしてスイカを通して、人々が繋がっていた気がする。

 誰もが貧しかったが地域の暖かい和みがあった。
時は過ぎても、暑い夏はスイカの人気は変わらないし、結構栄養価もあり、貴重な果物である。

 今度は滝沢スイカを楽しんで、この暑い夏を乗り切ろうと思った。
                                =おわり=





成り行き人生

2023年07月23日 | Weblog
 平成で450万部と一番売れた本と言われた「バカの壁」の著者、養老孟司先生が最近"志なし、目的なし、成り行きだけ"、で生きて来たと言ってたが、20年前にバカの壁で印税4.5億も稼いだ、エリート東大名誉教授先生の言葉とは思えない。

 「バカの壁」の読者批評は賛否両論であった様だ。20年前の著者はノリに乗っていた頃であったから言いたい放題的なところもあったんだろう。
 あれから20年経ち人生の終末期に差し掛かると、こんな言葉も口にするのだろうか?


 自分如き凡人なら、成り行きだけで生きて来たと大口を叩ける。然しそんな生き方も満更でもなかったし、結構上手く行った方だと思っている。言わば結果🆗だった。

 若い子達には志をもつのと持たないのとは、生き方が違ってくるぞと説くのだが・・・・
                               =おわり=


膵臓癌

2023年07月19日 | Weblog
 今月に入り親しかった松本敏之さんが80歳で旅立った。
この地で商いの道に足を踏み入れた頃知り合った同年輩の方だった。それから50年もお付き合い頂いたので友人と呼んでも許されそうだ。
 膵臓癌が命を奪った、奥様の言葉では昨秋発覚したと言っていた。

 膵臓癌で亡くなった方を多く知っている。自分の最期も、痛みさえ抑えられるのであればこの病がいいとさえ思ったりしている。
 人は余命が分からないから終活が難しい訳で、一年以内に確実に亡くなると知ればやる事が明確になる。
 私ら同世代が生き生きとして、地域社会にデビューした昭和50年代って、戦後処理後に訪れた高度経済成長が20年も続いた終わり頃であった。
年に10%もGDPが伸長した時代だ、100万円の定期が10年後複利で倍になったことを思い出す。

 そんな折に松本さんと知り合った。温厚篤実な彼は大手の広告代理店から地元で独立し、テレビ・ラジオ・新聞媒体を相手に社名もスマートな横文字で、時代の先端を走って宣伝広告を生業にしていた。
 お互い若くして会社を起業していたので、経営に対する考え方も似通っていて、60歳で社長業は能力あるスタッフに譲るんだと申していた。

 彼はその後計画通り自社のスタッフに会社を譲り、田舎の生家に移り住んで一人住まいの父親の介護に暮らし向を変えたと聞いていた。

 棺に横たわっていた彼の姿は、一時代を精一杯やり遂げ、楽しかった時代に活躍できた幸せに満ちていた。
            =おわり=