スピンオフ銭明日編集長

モットーは"年を重ねる毎に幸せになる"銭明日編集長の日記

酒は飲んでも、外には寝るな!

2010年12月21日 | Weblog
昨晩午後11時頃、取引先との忘年会の帰りのこと。
相当酔い機嫌の千鳥足で、最後はいつも立ち寄る店から出て我が家(大館町)へ歩を運んでいた。

南青山の高校の恩師(82歳)自宅前に差し掛かったなら、玄関前の戸外でうめき声がするではないか。
何と恩師が玄関にたどり着けずに腹ばいで玄関を目指してもがいている声ではないか(@_@;)
 
吾輩も相当酔っていたが、何とかしなければと介助の行動には入った。
まず恩師のポケットから宅キーを探してドアを開け、無理やり玄関に引きずり入れ
玄関内に繋がれている愛犬を自由にした。
愛犬の声で少しは正気になるのではと思ったからである。

然し一向に正気に戻る風でなく「君は水商(水沢商業高校)の教え子だったかな」などと
支離滅裂なことを口に出す(自分のことはよく分かっている筈なのに)。

どうしようもないから2階の寝室へ。
ところが、とてもとても重くて何とも大変なものである。
介護の大変さが分かった気がするが火事場の何とかやらで
何とかベットまで運びコートと背広を脱がせ寝せ付けた。
 
大分前に奥方に先立たれ、一人暮らしの恩師の愛犬も主人の一大事とばかり
私の行動に心配そうに介助に加わってくれた。
後は愛犬に任せて恩師宅を出た。



その頃はしっかり酔いも覚めていた。
町内の役員忘年会での帰りとかであったが、今朝のマイナス気温で外に寝てしまえば
今晩はお通夜になっても不思議ではないと思った(;一_一)

酒に飲まれるとはこういうことだな。
そう言えば現役の頃から自宅が分からなくて、タクシーに何度か交番に連れて行かれたとか言ってたな。
考えようによっては幸せな恩師である。
 
人間一番楽な死は、寒い日に酒と睡眠薬を飲んで戸外に寝ることだそうだ。
これは余計なことだな(+o+)

<銭明日二世こと菅村経悦>
環境づくりで地域社会にお役立ち「マリングループ」ホームページ

わが恩人を語る2「社会人失格」

2010年12月12日 | Weblog
師芥川氏は燃焼機メーカーのサンレー冷熱の仙台出先の責任者として赴任されていた。
東北一円を商圏に義兄の様な会社に機械を販売することが目的ではあるが、その頃は殆どの業者がやれない液体燃料への変更と自動制御工事のパイオニア的な先端技術コンサルが売物であった。

一方、私はというと義兄の会社の岩手支店を任されていた。
20歳になったばかりであり、背伸びばっかりしていた頃である。
その反動だったろうか酒絡みで私生活も荒れ始め、次第に仕事にも影響して会社を辞めざるを得ない状況に陥った。



幸い高校の親友を会社にスカウトしていたから、円満に会社を去ることはできた。
私は兄を頼り盛岡でブラブラしていたが、やがて兄の紹介で旗揚げしたばかりの会社に就職した。
給料を貰っているのには申し訳ないわずかばかりの売上げの会社であった。

社会人数年で二度目の挫折であり、もうサラリーマン生活は自分には向かないと思っていた。
この頃、芥川氏は10年はやると決めていた会社奉公に別れを告げ、結婚を機に奥様の郷里仙台で独立された。

ー続くー

<銭明日二世こと菅村経悦>
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わが恩人を語る1「巡り会い」

2010年12月07日 | Weblog
私が現在あるのは誰のお陰様かと振り返る時に、真っ先に浮かぶのは飯が食える道に導いてくれた師匠に巡り会ったことに尽きる。
なかなかブログに登場できなかったのは、軽い話では語り尽くせないからであった。

この師匠に会わなければとんでもない人生であったかもしれない。
社会人のスタートで大きく詰まづいたから、この師との出会いがなければ生家の関係の寺に入り生臭坊主の道にあったと思う。
実際その僧籍も決まっていたから、親にして見ればいつ人生に行き詰まり、泣きついてくるのか時間の問題と思っていただろう。

この方には神棚に奉り毎日崇めたて祀らなければならない教祖のような方である。
それもこの会社(マリングループ)で飯を食っている誰もがそうしなければ罰があたる程大きなものである。
この師匠は今でも第一線で自ら一技術エンジニアとして現場で活躍しているから凄い、70歳も過ぎたのにである。



もう記憶も定かでなくなったが、知りあったのは私が二十歳の頃であった。
都落ちして義兄の会社(仙台)に世話になるが、まだ起業して間もない会社であり、工場やビルの大型ボイラー全般の仕事に携わっていた。

当時のエネルギーは個体燃料が主流であったから、技術エンジニアを目差していたのとは程遠く、やっている仕事は煙突掃除のような油と煤にまみれていた。
それも来る日も来る日もである。

今ではボイラー整備士と言う立派な国家資格だが、その頃は確かにボイラー安全規則と言う法規制がある危険で膨大なエネルギー発生装置ではあったが、単純な構造であり理解できればそんなに難しいものではなかった。
そんな折にこれからは液体燃料の時代で、然も無人化全自動化になると先端技術を仕掛けて来たのが、この恩人であった。

石炭や亜炭や木質燃料から石油燃料になる。
昭和39年の東京オリンピックが終り、高度成長期の予兆が始まったばかりであったから、まだ世の中に出て間もない身には正にこれはエネルギー革命であり、産業革命にもつながる事であると頭を思い切り叩かれる思いであった。

同時に自分の進む道、生きる道が見えて来た。

まだ二十歳を廻ったばかりの頃であった。
恩人の名前は芥川和夫さんと言う。

ー続くー

<銭明日二世こと菅村経悦>
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