私が現在あるのは誰のお陰様かと振り返る時に、真っ先に浮かぶのは飯が食える道に導いてくれた師匠に巡り会ったことに尽きる。
なかなかブログに登場できなかったのは、軽い話では語り尽くせないからであった。
この師匠に会わなければとんでもない人生であったかもしれない。
社会人のスタートで大きく詰まづいたから、この師との出会いがなければ生家の関係の寺に入り生臭坊主の道にあったと思う。
実際その僧籍も決まっていたから、親にして見ればいつ人生に行き詰まり、泣きついてくるのか時間の問題と思っていただろう。
この方には神棚に奉り毎日崇めたて祀らなければならない教祖のような方である。
それもこの会社(マリングループ)で飯を食っている誰もがそうしなければ罰があたる程大きなものである。
この師匠は今でも第一線で自ら一技術エンジニアとして現場で活躍しているから凄い、70歳も過ぎたのにである。
もう記憶も定かでなくなったが、知りあったのは私が二十歳の頃であった。
都落ちして義兄の会社(仙台)に世話になるが、まだ起業して間もない会社であり、工場やビルの大型ボイラー全般の仕事に携わっていた。
当時のエネルギーは個体燃料が主流であったから、技術エンジニアを目差していたのとは程遠く、やっている仕事は煙突掃除のような油と煤にまみれていた。
それも来る日も来る日もである。
今ではボイラー整備士と言う立派な国家資格だが、その頃は確かにボイラー安全規則と言う法規制がある危険で膨大なエネルギー発生装置ではあったが、単純な構造であり理解できればそんなに難しいものではなかった。
そんな折にこれからは液体燃料の時代で、然も無人化全自動化になると先端技術を仕掛けて来たのが、この恩人であった。
石炭や亜炭や木質燃料から石油燃料になる。
昭和39年の東京オリンピックが終り、高度成長期の予兆が始まったばかりであったから、まだ世の中に出て間もない身には正にこれはエネルギー革命であり、産業革命にもつながる事であると頭を思い切り叩かれる思いであった。
同時に自分の進む道、生きる道が見えて来た。
まだ二十歳を廻ったばかりの頃であった。
恩人の名前は芥川和夫さんと言う。
ー続くー
<銭明日二世こと菅村経悦>
環境づくりで地域社会にお役立ち「マリングループ」ホームページ
なかなかブログに登場できなかったのは、軽い話では語り尽くせないからであった。
この師匠に会わなければとんでもない人生であったかもしれない。
社会人のスタートで大きく詰まづいたから、この師との出会いがなければ生家の関係の寺に入り生臭坊主の道にあったと思う。
実際その僧籍も決まっていたから、親にして見ればいつ人生に行き詰まり、泣きついてくるのか時間の問題と思っていただろう。
この方には神棚に奉り毎日崇めたて祀らなければならない教祖のような方である。
それもこの会社(マリングループ)で飯を食っている誰もがそうしなければ罰があたる程大きなものである。
この師匠は今でも第一線で自ら一技術エンジニアとして現場で活躍しているから凄い、70歳も過ぎたのにである。
もう記憶も定かでなくなったが、知りあったのは私が二十歳の頃であった。
都落ちして義兄の会社(仙台)に世話になるが、まだ起業して間もない会社であり、工場やビルの大型ボイラー全般の仕事に携わっていた。
当時のエネルギーは個体燃料が主流であったから、技術エンジニアを目差していたのとは程遠く、やっている仕事は煙突掃除のような油と煤にまみれていた。
それも来る日も来る日もである。
今ではボイラー整備士と言う立派な国家資格だが、その頃は確かにボイラー安全規則と言う法規制がある危険で膨大なエネルギー発生装置ではあったが、単純な構造であり理解できればそんなに難しいものではなかった。
そんな折にこれからは液体燃料の時代で、然も無人化全自動化になると先端技術を仕掛けて来たのが、この恩人であった。
石炭や亜炭や木質燃料から石油燃料になる。
昭和39年の東京オリンピックが終り、高度成長期の予兆が始まったばかりであったから、まだ世の中に出て間もない身には正にこれはエネルギー革命であり、産業革命にもつながる事であると頭を思い切り叩かれる思いであった。
同時に自分の進む道、生きる道が見えて来た。
まだ二十歳を廻ったばかりの頃であった。
恩人の名前は芥川和夫さんと言う。
ー続くー
<銭明日二世こと菅村経悦>
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