暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

車で四国遍路・・・(9)足摺・金剛福寺と補陀洛渡海

2019年09月11日 | 車で四国遍路

  足摺岬・白山洞門・・・この海の彼方へ向かう「補陀落渡海」があったという

つづき)
5月25日 晴れ 
第6日目(5月24日)の行程
ネスト・ウエストガーデン土佐~第38番金剛福寺~白山洞門~第39番延光寺~第40番観自在寺~第41番龍光寺~第42番仏木寺~西予市の親戚宅(泊)


その昔(もしかしたら今でも・・・)、お遍路さんは深い悩みや生老病死の苦しみを抱えている人がほとんどでした。帰る家もなく、仏の慈悲を願いながら亡くなるまで遍路を続ける人もいたと聞いています。

足摺岬の断崖に建つ第38番金剛福寺は、蹉跎山・補陀洛院・金剛福寺(さださん・ふだらくいん・こんごうふくじ)といい、御本尊は三面十一面観世音菩薩です。
院号に補陀洛院とあるように、足摺岬から「補陀落渡海」が行われていたと聞いたことがあります。
以前から「補陀落」とは?「補陀落渡海」とは? わからないまま不思議に思っていたので調べてみました。

補陀落(ふだらく:Potalakaの音写)はインド南海岸にある観世音菩薩の住処(浄土)のことで、平安時代に観音信仰が盛んになると、補陀落に擬された場所が各地に存在するようになりました。
日本では紀州の熊野那智、高知の室戸岬や足摺岬などが有名で、補陀落信仰の聖地となっています。


     金剛福寺の山門

金剛福寺は、補陀落の東の入口として、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が建立したと伝えられています。
かつてここから観音浄土への往生を願って、帰らぬ覚悟で小舟に乗って海へ出かける「補陀落渡海」が僧行として行われていたという。
平安時代から江戸時代末まで行なわれ、全国で56例の記録・文献が残っています。そのうち熊野那智からの渡海が一番多く28例、高知足摺からの渡海は7例が記されていました。


大きな池(海?)のある浄土庭園が新しく作られていました・・・金剛福寺にて


足摺からの「補陀落渡海」の記録の一つに後深草院二条(正嘉2年(1258年)-没年不詳)が嘉元4年(1306年)に記した「とはずがたり」があります。
以下に讃岐屋一蔵氏の古典翻訳ブログより「とはずがたり 現代語訳 巻五4」の一部を転用させて頂いた。

4 足摺
・・・(前略)・・・
その岬には一宇の堂がある。本尊は観世音菩薩でいらっしゃる。
垣根もなく、また坊の主もいない。ただ修行者や行きずりの人が集まるだけで、身分の上下もない。
「この堂にはどのような縁起があるのですか」
と尋ねると、次のように語った。

 むかし一人の僧がいた。この地で修行していた。を一人使っていた。
そのは慈悲を第一とする志を持っていたが、どこからともなく一人の法師がやって来て、朝食と午後の食事をするようになった。

はいつも自分の食事を分けて食べさせていた。坊の主は注意して、
「一度や二度ならまだしも、いつもそのように分け与えていてはいけない」と言った。
法師は翌朝も食事の時刻にやって来た。
「私は食べさせてあげたいと思いますが、坊の主がお叱りになるのです。今後はおいでにならないでください。今回限りです」と言って、また自分の食事を分けて食べさせた。やって来た法師は、
「あなたのかけてくださった情けが忘れられません。どうか私の住み家へおいで下さい。さあ、参りましょう」と言う。はその言葉に誘われてついて行った。

坊の主が怪しく思ってこっそりあとをつけると、二人はこの岬にやって来た。
そして一艘の舟に乗り、棹をさして南の方へ行く。坊の主は泣きながら、
「私を見捨ててどこへ行くのだ」と言うと、は「補陀落(ふだらく=観世音菩薩の浄土)へ参ります」と答えた。
見るとと法師は、二体の菩薩になって舟の舳先と船尾に立っている。

坊の主はつらく悲しくなって泣きながら、足摺りをしたということだ。そこでこの岬を足摺の岬というのである。
岩にはの足あとが残っているのに、坊の主はむなしく帰ってしまった。
それ以来「分け隔てする心があるために、このようなつらい目に遭うのだ」と垣根も設けず、身分の上下もなく人々が集まって暮らしている。


 『法華経』に、「観世音菩薩が三十三通りに姿を変えて現れ、教えを垂れて衆生をお救いになる」とあるのはこのことかと思うと、まことに頼もしい。






選ばれて或いは自ら志願して観世音菩薩の住処へ導かれる「補陀落渡海」へのあこがれと、この世に残り生きることの意味を問い続ける坊の主・・・どちらもそれで良かったのだと思いたい。

金剛福寺にはもう一人、ゆかりの女人がいらして気になるものがありました。
大好きな和泉式部です。
平安時代に和泉式部が自ら黒髪を埋めて供養したという逆修塔(生前に死後の冥福を祈って自ら建てる墓)があるはずです。
案内板もなく、運よくお寺の方にお尋ねして教えて頂きました。


  和泉式部逆修塔・・・向かって右の石塔

後深草院二条と言い、和泉式部と言い、この最果ての金剛福寺を訪れ、何かを強く願い、逆修塔まで建立する情熱に圧倒され、ちょっぴりエネルギーを頂いたように思います。
そのエネルギーをお裾分けしたくって、お土産のお守りをたくさん買い込みました。  


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車で四国遍路・・・(8)事故に遭う

2019年09月07日 | 車で四国遍路

   第32番禅師峰寺(高知市)から太平洋とこれから向かう足摺方面を眺める

つづき)
5月24日 晴れ 
第5日目(5月24日)の行程
南国ビジネスホテル~第30番善楽寺~第31番竹林寺~第32番禅師峰寺~第33番雪渓寺~第34番種間寺~第35番清瀧寺~事故に遭う~第36番青龍寺~別格5番大善寺~第37番岩本寺~ネスト・ウエストガーデン土佐(泊)



5月24日はいろいろあって、長く大変な1日でした。
朝一番に第30番善楽寺へ向かったのですが、ナビの誘導する場所に寺が見つからず迷いました。
運よく車がやって来たのでお尋ねすると
「善楽寺まで案内しますのでついて来てください」
お大師様のお導きの様に思われ、朝から助けて頂きました。

善楽寺から第34番清瀧寺(きよたきじ)までは順調に進みました。
第31番竹林寺は五台山にある名刹で、本堂の文殊堂、夢窓疎石の作庭と伝えられる庭園、五重塔など見どころ満載ですが、今回はお詣りだけで先を急ぎます。


      第31番竹林寺の五重塔

第33番雪蹊寺といえば、この寺の前で行き倒れていた山本玄峰師は山本太玄住職に助けられ、僧門に入り修行重ねます。後に名僧といわれるまでになったというエピソードを思い出します。山本玄峰師の銅像が建てられていました。


  山本玄峰老師の銅像・・・第33番雪蹊寺にて

第34番清瀧寺からの眺めがすばらしく、境内には高さ15mの薬師如来が建立されていて、胎内を戒壇めぐりすると厄除けになるそうです。
戒壇めぐりは大好きですが、この時はしなかったように思います(う~ん・・・それで厄除けが足りなかったかしら?)。


     第34番清瀧寺境内からの眺望


薬師如来の戒壇めぐり入口(出口?)・・第34番清瀧寺

清龍寺から国道56号線を走り、交差点(土佐市高岡)を右折し、宇佐方面へ行く39号線へ入ろうとした時の事です。
なんと!信号待ちの反対車線の車の間から軽トラックが急に出てきて、車の側面にぶつかりました。
「えっ!なんで横から車が・・・?」 
全く予想できないことが起ったのです。
警察や保険会社に連絡をとりながら、真夏日の炎天下、事故対応に時間とエネルギーを取られました。
サイドミラーが壊れ、ボディ側面に傷はついたものの、幸い車はそのまま走れそうです。


   側面の傷が痛々しい愛車・・・横浜へ帰ってから修理

事故に遭って、今まで眠っていた脳内のアクシデント対応回路にスイッチが入りました。
先ずはミラーの修理です。
部品調達に時間が掛かるとのことで、2日後に向かう宇和島市のスバル営業所に連絡し、部品を注文し2日先の修理を取り付けました。
でも、すぐに車を走らせ旅を続けたいので、近くのイエローハットへ飛び込みました。
店員さんに相談すると、「こちらには対応できるミラーがありませんが、100円ショップで探してみては?」
100円ショップで丁度良い大きさの鏡を購入し、サイドミラーに透明テープで取り付けました。なんとか、2日後の本格修理までこれで走れそうです。

いつ何処で何が起きるかわかりませんが、怪我もなく旅を続けられることが不幸中の幸い・・・と、お大師様にもう感謝!でした。


   第36番青龍寺の長い石段を一歩一歩・・・


波切不動明王とつながっている綱に「道中安全」を託して

事故対応に2時間以上掛かったので、その後は第36番青龍寺(しょうりゅうじ)、別格5番大善寺、第37番岩本寺までで精一杯でした。

第36番青龍寺は、参道に昔の遍路道の風情を残す札所です。
弘法大師が留学した唐の青龍寺を模した寺で、ご本尊は波切不動明王です。
弘法大師が唐から帰朝する時に不動明王が現われ、宝剣で荒波を切って海難から救ってくれたという伝説があり、不動明王に「道中安全」をお祈りしました。

青龍寺から横浪黒潮ラインを通り、須崎市の別格5番大善寺を初めてお詣りしました。
下に大師堂があり、急な坂道を登り切ると、本堂のある境内から須崎の海がキラキラ光って見えます。
ここは昔、海に突き出た岬になっていて「土佐の親不知」と言われ、旅人が波にさらわれるなど海難事故が多かったそうです。それを聞いた弘法大師は海岸に立つ二つの大石の上で死者の菩提を弔い、往来安全の祈祷を行い、一寺を建立したのが大師堂の起源で「二つ石のお大師さん」と呼ばれています。


    別格5番大善寺の鐘楼から須崎の海が輝いていました


  別格5番大善寺の本堂、下に大師堂があります

国道56号線を走り、17時ぎりぎりに第37番岩本寺に到着しお詣りを済ませました。

これにて本日の遍路は終了、さらに先の道の駅「ビオス大方」で車中泊の予定でした。
ツレが歩き遍路で泊ったというホテルへ食事に行くと、そこは私が歩き遍路の時にいつか泊まってみたいと思ったホテルでした。
心身共に疲れ切っていたので車中泊は止めて、急遽そのホテルで宿泊をお願いしました。
あこがれのホテルの大きな風呂に浸かると疲れも癒えて、また明日から元気に遍路が続けられそうです。
ホテルはネスト・ウエストガーデン土佐、幡多郡大方町入野にあります。

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車で四国遍路・・・(7)室戸から高知へ

2019年09月06日 | 車で四国遍路

   安芸の野良時計・・・土居郭中をぶらぶらしました

つづき)
5月23日 晴れ 
第4日目(5月23日)の行程
道の駅「キラメッセ室戸」~第26番金剛頂寺~第27番神峯寺~安芸の野良時計~龍河洞~第28番大日寺~土佐国司館跡(紀貫之館跡)~第29番国分寺~南国ビジネスホテル(泊)


室戸にある24番最御崎寺(ほつみさきじ)、第25番津照寺(しんしょうじ)、第26番金剛頂寺(こんごうちょうじ)の3寺(室戸三山)はいずれも優しく包まれるような魅力を感じ、ゆっくり留まりたいお寺でした。


       第26番金剛頂寺の山門

第27番神峯寺(こうのみねじ)への車道は狭く険しいという情報を得ていましたが、聞きしに勝る、今回の車旅で「一番の難所」でした。
「対向車がどうぞ来ませんように・・・」とお大師様に祈りながら、曲がりくねった傾斜のきつい狭い道を登って行きました。往復1台ずつ対向車に出合ったのですが、カーブの広めの場所でラッキーでした。5月末というオフシーズンなのも対向車が少なくヨカッタ!です。
ツレの話しでは、ハンドルを取られないように必死ににぎっていたので手が痛くなった・・とか。
帰宅してからもテレビ番組「ポツンと一軒家」を見ると、「この番組で紹介される山道より神峯寺の方が凄かったね!」という話にいつもなります。


    竹林山神峰寺へ辿り着きました

神峯寺の「土佐の名水」を味わいました(雪の下が満開です)

神峯寺へ到着すると、そこは山道が嘘のような別天地です。
清らかな名水が湧き出で、山の斜面には美しく手入れされた庭園があり、本堂と大師堂で般若心境を唱え、道中の無事をお願いしました。

神峯寺を終えてしばし休憩・・・念願の「安芸の野良時計」と「龍河洞」へ寄り道しました。
「野良時計」は土居郭中と呼ばれる一画にあり、近くをぶらぶらして武家屋敷、安芸城址を訪ねてみました。
土居廓中は、戦国期に築かれた安芸城を中心に、江戸時代に土佐藩家老・五藤家により形成された武家町で、今も名残りをとどめています。

 
上ったり下りたり滝があったり・・・スケール大の鍾乳洞でした


約1時間かけて龍河洞を探索しましたが、ほんの一部だそうです。

龍河洞(香美市土佐山田町)へはウン十年ぶりで2回目の筈が、行ってみると何も覚えていないので・・・もうびっくりです。

龍河洞の解説板などで興味を持ったのは、昭和6年に地元中学の2人の先生によって発見された話でした・・・鍾乳洞の奥へ入り、神秘なお宝を発見した時の2人の驚きや喜びを想像すると、こちらまでドキドキしてきます。以下に興味ある話を抜粋しました。

1931年(昭和6年)中学教諭・山内浩氏と松井正実氏は、それまで洞窟内の難所と言われていた「記念の滝」の崖を登ることに成功し、さらに洞窟内を突き進んで、出口付近で弥生遺跡を発見したのである。
弥生式土器を発見した2人は直ちに保存会を結成し、やがて本格的な発掘調査が数次に渡って行われ、ここが弥生時代中期の住居跡であることが明らかになった。
石灰華に包まれて固着した土器は「神の壺」と呼ばれ、そのほか弥生土器、石器、炉跡などが見つかっている。





         「国司館跡」(紀貫之館跡)

午後になり、龍河洞に近い第28番大日寺にお詣りしてから第29番国分寺へ向かうと、国分寺のすぐ手前に広々と整備された場所があり、看板に「国司館跡」(紀貫之館跡)とありました。紀貫之は4年間国司として土佐に滞在し、京都へ帰る船旅中の出来事を記したのが「土佐日記」です。


       第29番国分寺の山門

     国分寺の境内・・・奥に本堂が見える

第29番国分寺は行基が土佐国分寺として開き、後に弘法大師が中興しました。天平様式を模して造られたという本堂の屋根が美しく、印象に残る札所です。
今は田園地帯の中に杉木立に囲まれ寂しいくらい静かな場所ですが、この辺一帯は平安時代には土佐の国の官庁街で賑わっていたことでしょう。
手入れの行き届いた庭を眺めながらツレと薄茶一服を頂きました。
お菓子は土地の名菓「土佐日記」でした。



この日は街中なので、当日電話して南国ビジネスホテルに宿を取りました。
遍路の身の上であれこれ言えませんが、食堂で頂いた海老フライ定食がボリューム満点で美味しく大満足です。  


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車で四国遍路・・・(6)室戸の空と海と夕陽

2019年09月03日 | 車で四国遍路

    道の駅「キラメッセ室戸」の食堂「食遊 鯨の郷」から見た夕陽

つづき)
第23番薬王寺から次の第24番最御崎寺(ほつみさきじ)までは75.4kmあり、歩き遍路では2泊3日の長く辛い行程だったのが、車だと1時間余で着いてしまいます。
なにか大事なものを見落としているようで、早く着きすぎるのが残念な気がします。
室戸岬にかけて寄り道をしたい番外霊場が点在しています。

先ずは室戸市佐喜浜入木の番外霊場・佛海庵(ぶっかいあん)。
国道55号線に看板が出ていたので、今回も寄ってみました。

僧佛海(1700~1769)は諸国行脚や24回の四国霊場巡礼の後、宝暦10年(1760年)庵を建て、お地蔵さんの石像を自ら刻んでお祀りしました。海辺の難所で立ち往生する遍路を助けたという佛海は生涯に三千体の仏像や地蔵を作り、「木喰佛海」の名が仏像に刻まれています。



10年前に「四国遍路」(岩波新書)の著者・辰濃和男氏の文章に惹かれて佛海庵へ立ち寄った記憶が今なお鮮明です。
1974年当時、法香さんという庵主が居て、雨に降られて困っていた辰濃氏と同行者を泊めてくれたという。五右衛門風呂を沸し、まめまめしく夕食を作ってくれた・・・と書かれています。
一番強烈なのは「ごろごろ石」のこと、次のような記述がある。

庵の前には墓があり、墓の向こうに生きものの影のない黒ずんだ石ころの浜辺があって、
風の強い日、その石の群れが闇の中で一斉にうめきだすという。
道路ができる前、お遍路さんは石だらけの海岸を歩き、難渋し、
ごろごろと鳴る石の音におびえながら先を急いだものだという。 
           (辰濃和男著「四国遍路」(岩波新書)より)


庵の前にある古い墓石群は10年前に訪れた時のままですが、佛海庵(無住)は新築されていました。お堂の中の様子は以前と変わりなく、誰でもお立ち寄りください・・・という佇まいに安堵し、お詣りしました。
昔、困窮している遍路を助けたという佛海庵ですが、今は「宿泊できません」の札が掛かっています。



        番外霊場・御厨人窟から空と海を見る

国道55号線を室戸岬へ向かい走っていると、岬の手前に番外霊場・御厨人窟(みくろど)があります。
今、御厨人窟には五所神社が、右隣りにある神明窟には神明宮が祀られています。
いつでも御厨人窟に入れると思っていましたが、海蝕による落石が頻繁に起こったため入洞が禁止されていました。入口に鉄製防護屋根が設置され、2019年4月末から入洞ができるようになったばかりで、ヘルメット着用で入りました。

洞窟は、空海著「三教指帰(さんごうしいき)」(797年)に記された
「土佐室戸崎に勤念す。谷響(たにひびき)を惜しまず、明星来影(らいえい)す」のまさに修業の場でした。(興味のある方は、空海若き日の哲学「三教指帰」をお読みください)


「聾瞽指帰」(ろうこしいき)(巻頭部分、空海撰・筆、金剛峯寺蔵、国宝)
(注・・空海24歳の著書『聾瞽指帰』は空海50代に改訂し「三教指帰」と改題された)

平安初期、青年であった弘法大師が御厨人窟で修業をし、見える風景は空と海のみ・・・後にここから「空海」の法名を得たと言われています。
また、神明窟で「虚空蔵求聞持法」の修業中に「明星が口に飛び込む」という体験をし、その時に悟りが開けたと伝えられています。



番外霊場・御厨人窟は怖いような暗闇の中に大きな海蝕洞が拡がり、賽の河原のようにおびただしい石が積まれ奉納の蝋燭がゆらいでいる、お籠り堂のような霊場でした。でもあまり長居はしたくない気がしました・・・。
ここから空と海を見ると、明星来影の神秘体験がさもありなむ・・・と。



    第24番最御崎寺の山門

第24番最御崎寺(ほつみさきじ)と第25番津照寺(しんしょうじ)をお詣りし、その日は道の駅「キラメッセ室戸」で2度目の車中泊です。


陽があるうちにツレがいろいろ寝る準備を・・・道の駅「キラメッセ室戸」駐車場にて

道の駅「キラメッセ室戸」はすぐ海が迫っているロケーションが先ず気に入りました。
食堂「食遊 鯨の郷」で頂いた夕食もデザートのジェラード(塩味)も美味しくお勧めです。  
でも一番の御馳走はサンセット。
お店の方が窓のブラインドを全開にしてくれて、まさに夕陽が落ちる瞬間を食堂に居る全員で鑑賞したのも良き思い出になりました。
その場で地図を広げ、5月22日の夕陽の沈んだ位置を推定すると、足摺岬ではなく宿毛市あたりでした。



もう一つ、感激したのはトイレに生けられた花でした。
トイレに行く度に「どんな方が生けたのかしら?」と思い、道の駅「キラメッセ室戸」のおもてなしの心を感じました。

  



夜は潮騒を聞きながら、カーテンの隙間から満点の星を仰ぎ見ながら眠りにつきました。
「あぁ~なんて素晴らしい1日だったのだろう・・・」  
車中泊2泊目なのでだいぶ身体も狭さに慣れたのか、疲れていたのか、朝までぐっすりでした。


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車で四国遍路・・・(5)ロープウェイに乗って太龍寺へ

2019年09月02日 | 車で四国遍路

   太龍寺(たいりゅうじ)ロープウェイ・・・那賀川を取り囲む町や山々が一望できました


(遅くなりましたが、「車で四国遍路」のつづきです。頭のネジを巻き戻して書き出しました。お付き合いくださると嬉しいです・・・)
つづき)
5月22日(水) 晴れ
4日目(5月22日)の行程
道の駅「ひなの里かつうら」~第20番鶴林寺~ロープウェイで第21番太龍寺~第23番平等寺~別格4番鯖大師~第23番薬王寺~仏海庵~御厨人窟~第24番最御崎寺~第25番津照寺~道の駅「キラメッセ室戸」にて車中泊


7時過ぎに道の駅「ひなの里かつうら」を出発し、第20番鶴林寺へ向かいました。
すぐに狭い山道に入りましたが、鶴林寺から下りる車は別の道(太龍寺方面へ行く)を通る筈なので、すれ違う車の心配はほとんどなく、今思うと快適な山道でした。
鶴林寺の愛称はお鶴さん、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍、遍路なく」とうたわれた、遍路泣かせの「阿波の三難所」の一つです。
弘法大師の合掌した手に鶴が舞い降りたという伝えがあり、本堂前の2羽の鶴に再会し、懐かしくお詣りしました。


    第20番鶴林寺の山門をくぐる


    早朝なので、灰が美しく調えられた大香炉


美しい三重塔・・・文政6年(1823年)に地元の宮大工が建立したという

次は第21番太龍寺へ向かいました。
今回の遍路は、ロープウェイがある所は利用しよう・・・と決めていたので、大分遠回りしてロープウェイ乗り場・鷲の里駅へ行きました。
全長2775mのロープウェイに乗ると、眼下に曲がりくねった那賀川や緑の山林が広がり、緑の中に白い花が密集して咲いていました。
ガイドさんに尋ねたのですがわからず、空木または山法師でしょうか? 素晴らしい10分の空中散歩でした。



山を越えると、今度は紀伊水道や橘湾の海側が見えてきて、標高600mの山頂駅が近くなりました。
山頂駅近くに舎心ヶ嶽があり、修行している弘法大師の坐像を見ることが出来ます。
延暦12年(793年)弘法大師空海が19歳の時、太龍嶽(舎心ヶ嶽)で百日間にわたり「虚空蔵求聞持法(ぐもんほう)」を修法された修業地で、山頂駅近くの舎心ヶ嶽に修行している弘法大師の坐像を見ることが出来ます。
「虚空蔵求聞持法」は、虚空蔵菩薩の真言を1日2万回、50日間唱えることで、すべての経典を暗記できるという秘法だそうです。


   「西の高野」太龍寺(たいりゅうじ)の大師堂

巨大な杉が聳え立つ境内には古い伽藍が点在し、「西の高野」と呼ばれる太龍寺の落ち着いた佇まいが大好きです。
ご本尊は虚空蔵菩薩。焼山寺に続いて2回目のご真言なので、長く難しいご真言を3返頑張りました。
奥の大師堂で般若心経を唱え出すと、美しく澄んだ鳥のさえずりが・・・「せっかく太龍寺大師堂へ来たのですから、私の啼き声も聞いてね」と聞こえ、仲良く唱和しました。



   からりっと明るく開けた第22番平等寺へ

鬱蒼とした杉木立の下の寺が続いたけれど、田園地帯の丘の上にある第22番平等寺は開放感が溢れ、ここにたどり着くとなぜかほっとしました。
前回、ここで足首の違和感を感じたのだった・・・と思い出しながら、万病や健脚のご利益が名高いご本尊・薬師如来にお詣りする。
考えも進歩的なお寺のようで、こちらの薬師如来は秘仏だったのをやめて、年中拝観できるようになったという・・・有難く、とても素晴らしいことです。


        第22番平等寺・薬師如来に手を合わせて・・・

平等寺で運転をツレと交代し、ここから懐かしい海の遍路道を選んだはずなのだが・・・歩きと車の感覚の違いを思い知らされ、迷ったり、道を間違えたり散々でした。
それでもなんとか海の道を走り、前回お接待して頂いた田井ノ浜・遍路小屋を確認できて、やっと「車は車の道を行くべし・・・」と思いきれました。

別格4番鯖大師と第23番薬王寺へ詣でて、これにて徳島県の札所をすべて終了です。


   ユキノシタが咲き乱れる手水場・・・別格4番鯖大師(だと思う?)にて


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