新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「ツイッター」に思う

2022-12-22 08:16:56 | コラム
イーロン・マスク(Elon Musk)という方は余りにも個性豊かだなと痛感した:

イーロン・マスク氏の考察:
今朝4過ぎだったかにTBSのニュースでチラッと見たのだが、マスク氏はTwitter社のCEOを辞任すべきかの投票の結果を捉えて「“someone foolish enough to take the job“が現れれば辞任する」と読めた。この南アフリカ出身の凄い経営者は何処まで行っても凄いなと、寧ろ感心させられていた。即ち、自分の後継者を“foolish enough“と決めつけるとは「言いも言ったり」だと思うのだから。

私はTwitterなるものを利用する気もないので、その存在が世界にどれほどの影響を与えているかも知らないし、トランプ前大統領のアカウントを永久閉鎖したことなどが、どれほど凄いのかなどは全く推測もできない。だが、マスク氏は解除してしまったそうだ。マスク氏の今日までの実績は素晴らしいようだが、そのマスク氏が何でSNS(なのかな)の分野に踏み込んだのかも想像などできる訳がない。

ただ、これから先もアメリカにはマスク氏のような20世紀までの常識では測りきれない経営者がまだまだで来る気がするのだ。即ち、ステイーブ・ジャブズ、マイク・ザッカーバーグ、ビル・ゲイツ、ジェフ・ベゾスのような製造業ではない起業をする人が出てくるのではないかと思わせられる。だが、マスク氏は電気自動車も宇宙とケットも作っているところに一味違う感というか、独得の所があると思う。

ツイッターの考察:
ここまでTwitter社という言い方をしたが、私にはこの「ツイッター」というカタカナ表記が余りにも違和感を覚えさせるので、元の英語の表記を使ったまでのこと。そこで、何故違和感かを念の為に解説しておこう。興味がある方は是非ご一読賜りたい。

私はローマ字表記の困った点(「難しさ」でも良いかも知れない)に、英語だけではなく多くの外国語のアルファベットの“t”と“d”の表記に梃摺っていることを挙げたい。その一例として、嘗てのサッカーの日本代表監督だったフランス人のPhilippe Troussier氏を取り上げたい。彼は「トルシエ」と表記されていた。

しかしながら、原語にできるだけ近づければ「トゥルシエ」であるべきなのだ。また、dreamは「ドリーム」としか表記されないが、原語に近づければ「ドゥリーム」であるべきなのだ。

この点を考慮して考えるとTwitterは「トゥイター」が最も英語の単語の発音に近いのだ。私が高校の頃にジャズに魅せられ始めた頃の仲間に高田君がいた。話はわき道に逸れるが、高田君は恵まれた体格を活かして野球部に入り、あの甲子園で優勝したときの補欠選手で参加していたのだった。

その後の慶応大学工学部に進学してエンジニアになったが、当時でもステレオを自分で組み立て、高音のスピーカーが「トゥイーター」と言うのだと教えてくれた。だから、「ツイッター」が世に出たときには「トゥイーター」関連の言葉かなとすら考えていた。

私には「ツイッター」関連ではこれだけ(これだけしか?)の知識しかなかったので、SNSに「ツイッター」が現れたときには高音のスピーカーと何の関連があるのかと思ってしまった。所が英語表記を見れば“Twitter社”なのだった。英語の“twitter”と「小鳥のさえずり」のことだ。この単語の発音記号を見れば「トゥイター」が最も原語に近いのだ。「ツイートする」という表現は“tweet”=「さえずる」の動詞を使ったのだろう。

だが、これをカタカナ表記するに当たって製造業者は“t”の表記に難渋して「ツ」にしてしまったのだろうと解釈した。だが、Troussierを「トルシエ」としたのからすれば、ツイッターでは首尾一貫していない。

最早今日のように「ツイッター」が大手を振ってまかり通っているのであれば、私がここで解説しても何らの効果もないだろうし、無意味な気がする。だが、できることならば「トゥイター」にしておくべきではなかったと思うのだ。


12月21日 その2 President誌2022年12月22日号より

2022-12-21 08:40:30 | コラム
書評に対する批評をしよう:

件名に掲げたPresident誌では杉田米行氏(東京外国語大学、神戸打大学等で教授を務められた方)の「著者インタビュー」で「大人の英語学び直し」について語っておられた。私はこのページは書評欄の中にあったので、敢えて「書評に対する批評」とした次第だ。

私が気にしたのは副題的に“中学英語を侮るなかれ。「英語が苦手」な自分から必ず脱出出来る一冊“となっていることだ。「そんな事を今更言われるのか」と言いたくなった。後難を恐れずに言うが「そんな事は私が30年前から主張していたではないか」なのだ。

後でも触れるが、この「中学英語」という点では、私は永年(と言っても1990年以降だが)中学1年の英語の教科書を探してきて、今からで遅くないから、それをレッスン1から終わりまで10回でも100回でも意味が自然に解るようになるまで音読しなさい。暗記しなさい。暗唱出来るようにしなさい」と唱え続けてきた。その理由は中学1年の教科書に出てくる程度の単語と文章が英語の基礎になっているからだ。

杉田氏は「本書に載っている英文を暗唱する。机に座ったままではダメ。部屋の中をグルグル歩き回って、大きな声で発話するのがコツだ、そして暗記した内容を紙に書き、テキストと照らし合わせて正しいかを検査する」と言っておられる。この手法は私が某総合商社で若手を個人指導したときの用いたものとほぼ同じであるし、音読・暗記・暗唱は自分で実行してきたし、家庭教師で中学1年の男児の指導に使って成功したものである。

それほど英語(外国語)の学習法に効果があるやり方なのだ。それを杉田氏が唱えておられたのは歓迎すべことだとは思う。だが悔しい思いを禁じ得ない。それは繰り言になるが、30年前からそう主張し、その方法で成功例あるにも拘わらず、私が言ったのでは受け入れられず、大学教授が言われれば、大手出版社が取り上げたこと。

我が国の学校教育の中の英語の指導法で育ってきた方々というか、育てようとされた先生方には「私が言う音読・暗記・暗唱は空論的であり単なる理想論に過ぎない」かも知れない。だが、実際には「某総合商社で受け入れられ、個人指導まで依頼された事実をどう評価されるのか」なのだ。

実際に英語(私の場合にはアメリカ語と言えるかも)の世界に入ってみれば、日常的に出てくる単語というか表現の圧倒的多数は、それこそ中学1年の教科書に出てくる程度の単語の種々雑多な組み合わせなのである。特に屡々出てくる慣用句(idiomatic expressions)などは元の単語の意味とはかけ離れた表現なので戸惑わされる。

だから、ある程度以上知っているつもりでアメリカ人の中に入っても“I’ll buy you a drink.“に戸惑うし、“I’ll take a rain check.”で「???」となるのだ。言いたいことは「音読・暗記・暗唱を積み重ねて、ただ単に沢山単語をバラバラに覚えるだけではなく、流れの中での使い方とその上に応用編である慣用句や口語体や俗語まで範囲を広げる努力を積み重ねよう」なのだ。

換言すれば「中学1年の教科書に出てくるような単語を確実に覚えて基礎を固め、その使い方を流れの中で覚えるようにしよう」なのだ。「その覚える為の基本的な方法が音読・暗記・暗唱だ」というのが私の主張である。という具合で些か感情的になったかも知れないが、書評を批判した次第だ。


薗浦健太郎議員が辞職へ

2022-12-21 07:33:18 | コラム
どうしてこのような浅慮で杜撰な、見え見えのことをしたのだろう:

この薗浦という方は何度かPrime Newsで見た記憶がある。私はBSフジがこの番組に呼ぶこと即ち閣僚乃至は与党議員として重きを為していると評価したことの表れだと解釈している。だから、東大出身で読売新聞の記者だったという経歴も承知していた。Prime Newsでの発言についての個人的な印象では「煮え切らない人だな。思い切ったことを言っていないな」だった。

そのように慎重派に聞こえた麻生派の重鎮が(例えば文春砲に狙われれば一溜まりもないような)あのような杜撰な政治資金規正法違反を犯そうとしたのかと奇異にすら感じた。この事件が最初にテレビのニュースで流れたときには「殿村」と聞こえて、自民党にはそういう陣笠的な議員が何か違反をしたのか程度に聞き流していた。

この摘発なのか報道機関による深く突っ込んだ意図的な調査の結果なのか、あるいは密告があったのかなどは知る由もないが、岸田内閣と麻生派に打撃を与えようとする意図があったのであれば、自民党内ではこのような失策がないように厳密な内部調査をするとか、過ちを犯さないような徹底した指導が必要だったのではなかったなどと考えてしまう。

記憶は不確実だが、「薗浦健太郎氏はあの操作をして遊興費を捻出していた」という記事を見た記憶があるが、それが本当だとすれば「何と言う人物だろう」と単純に情けなく思ってしまう。それと同時に薗浦健太郎氏は検察と争おうとしない姿勢にも「潔さの裏に何があったのか」と考えたくなってしまう。

何れにせよ、今日これまでにこの種の不実記載というのか、裏での操作が多過ぎるのが気になる。しかも、その綻びは文春(なのだろうか)のようにその意図があって調査すれば露呈してしまう虚偽の記載を何故に実行するのかなと、理解しがたいのだ。また、調査する側は何故野党も狙わないのかとも考えてしまう。

私からすれば「政治家とは何なのだろうか」との疑問を感じるが、もしも4千万円が一部の報道にあったような遊興費ではなくて、仮に選挙で当選を続ける為のコストだったとすると、私には我が国の公職選挙法の規定(規制?)に無理があるのではないのなとも考えさせられるのだ。金をかけないでも済むような選挙にはできないのかなとも思うのだ。何度でも言うが、私の考えは全てマスコミ報道に基づいているだけだ。


内閣総理大臣岸田文雄氏論

2022-12-20 07:39:54 | コラム
何故岸田文雄内閣総理大臣は世論調査で不人気なのかな:

昨19日には「折角良い事をしておられるにも拘わらず、内閣支持率が低下するとはお気の毒」だと言ったが、畏メル友RS氏は岸田総理の問題点は「国家観の欠落では」と厳格に指摘しておられた。

私は何も岸田文雄氏だけの問題ではないと見ている政治家の疑問点があると思っている。それはNHKの国会中継などで目立つ(耳立つ)「原稿棒読みの答弁」が代表的だと思う。私はnaïveにも国会の場での議論は「その場で論旨を組み立てて丁々発止と論争する場だ」と永年信じてきた。会社の会議で予め用意してきた原稿の読み上げ大会になる事などあり得ないのと同様に。

所が国会の場の現実は総理を始めとして閣僚も皆棒読みに徹しているのだ、それも知る限りでは各省庁の精鋭が準備した原稿のである。1980年代の後半にある官庁の28歳の課長補佐(勿論東大出身)が「我々が夜を徹して答弁を準備している。我々が国を動かしていると言えるのでは」と個人的に語ってくれた。国会開催中は毎日午前2時や3時の帰宅になると言う。

私はこのような仕組みを否定するとか非難する気もないし、閣僚の方々にすれば即興でその場で答えるよりも、事前に提示された質問に対する答弁の原稿を専門職である各省庁の精鋭に依頼して整えざるを得ないと思っている。だから、時には事前に提示していなかったことであるが」というような質問や「事前に提示されていないことを訊かれた」などという遣り取りがあるのも解る気がする。

再び同じ事を言うが、私はこのような仕掛けになっていることに対して何か言う気はない。しかしながら、何も岸田総理に限ったことではないが、棒読みからは真摯に答えようとするような気迫も信念も感じないのである。答えておられるご当人の信念であるのかないかも汲み取れないのである。安全第一を旨としておられるのは解るが、岸田文雄という方の個性が滲み出ないのだ。

この辺りを菅政権の頃にBSフジのPrime Newsに登場された日本大学危機管理学部教授の先崎彰容氏が、菅総理の原稿読み上げの答弁と記者会見での原稿無しの語り口を比較して「原稿無しで語られた方が菅義偉氏個人の信念と個性が溢れ出ていて、なるほど菅義偉とはこういう人だったのかが良く解った」と指摘された。非常に印象的な論評(カタカナ語にすれば「コメント」だが)だった。先崎教授の言外の意味は「原稿無しで語って下さい」だと勝手に解釈していた。

私はこれまでに岸田文雄氏については余り好意的なことは言ってこなかったと思う。それは、岸田氏自身が「聞く力がある」とか色々な自己紹介をされたが、総理就任の後では余りに「原稿棒読み」傾向が顕著なので、岸田文雄という方の個性というか個人の思想・信条が前面に押し出されてこないのだ。すなわち、「この方は何をしたいのか」や「国民の為に何をしてくれるのか」が全くハッキリと打ち出されていないのだ。

即ち、昨日は新資本主義と言ったかと思えば、今日は「救済法案」かと思えば、明日は外遊であったり、「防衛予算の43兆円」であったりという感じであって、やることに「岸田文雄これにあり」という信念が全体を貫く心棒のように打ち出されていない気がするのだ。だから、支持しないという比率が高くなってくるのではないのかと思って見ている。

より極端に言えば「総理大臣になれば、こうやって日本を動かしてみせる」のような信念が感じ取れない気がするのだ。対ロシア制裁もそうだが、自分の前に後から後から浮かび上がって諸々の難題に対応し、対策を打っていくので精一杯なのではないだろうか。こちら側にいれば偉そうに批判もできるが、実際に国を背負っている内閣総理大臣がどれほどの激務であり、難しい職務なのかは解っているつもりでも、言いたくなるのだ。


12月19日 その2 12月18日と19日のスポーツ

2022-12-19 08:56:01 | コラム
甲子園ボウルとW杯決勝戦:

本19日は先月からのホルモン療法開始以来の体調の不備もあって午前3時半に目が覚めてしまった。仕方がないので「節電にご協力を」と何処かで誰かが言っていることなど忘れて、先ず空調を点けてから何の気なくNHKにチャンネルを合わせた。そこに出てきた画はメッシが優勝杯を抱えているところだった。アルゼンチンが勝ったと解った。この時間にそんな状況ではPK戦にまで行ったのだなとの想像はついた。

W杯決勝戦:
この決勝戦を深夜の0時に起きて観ることは、昨日のように不調の波に襲われていたのでは諦める他はないとの選択をしたので、21時には寝ていた。朝1時過ぎに小用で目が覚めたが、テレビを観る勇気は無かった。この大会では一度もアルゼンチンのサッカーを見る機会がなかったので、フランスとどちらが勝つかの予想なでできる訳がなかった。これも見送った理由の一つ。

だが、NHKが見せてくれた「ハイライト」で「後悔先に立たず」状態にはさせられていた。勿論、凄い試合になるだろう事くらいは読めていたが、この体調では無理は禁物と思っていた。矢張り、残念なことをしたと思わせられた。ハイライトだから前後の展開が解らないが、アルゼンチンの2点目のピッチ全体を大きく使ったパスの展開などは「流石」と感嘆したし、その場で観たかったと痛感。

同点に追い付いたフランスというか、エムバペも凄いとは思うが、微妙な表現になってしまう「ヨーロッパのフランスにアフリカ系の選手が多く、南アメリカのアルゼンチンはハイブリッドではない選手の構成だった」のが印象的だった。ハイライトだけを観た簡単な感想は「矢張りフランスは優れた身体能力のティームで、アルゼンチンには組織力があったのかな」だった。でも、矢張り少し後悔している、起きなかったことを。

甲子園ボウル:
次は見出しからは順序が前後したが甲子園ボウルを語ろう。我が家の息子たち二人は共に関東大学一部リーグ所属のフットボール経験者。だが、「テレビでも観戦するか」と尋ねてみれば、異口同音に「早稲田が相手では関学が勝つに決まっているから興味が無いので観ない」と誠に素っ気なかった。自分でも「西高東低」傾向が続くフットボール界では、観る機会などがない関学ファイターズが勝って当然だろうと思っていた。

当方にとっては仮令テレビ観戦でも、今シーズン初めての15分クオーター制の試合を最初から見られる貴重なことだった。関学は前半に使った東京の足立学園出身の1年生QBの出来が、解説の神戸大学監督が褒めるほどには機能しておらず、関学らしからぬソツがあるフットボールを展開していたので、詰まらない試合だった。その流れを3Qから投入した3年生QBの鎌田が断ち切って、関学の順当な勝利に終わった。

フットボールの細かい技術その他にまで触れる気はないが、目立ったことを取り上げてみよう。関学のラインマンにオーストラリア人の父親の元に育った凄い体格と身体能力を備えた選手がいたこと。関学にこれまでに外国人の選手がいた記憶がないので、珍しいと感じたと同時に、これから先にも我が国のスポーツ界にはこういう親御さんの下に育った選手が増えてくるだろうと、あらためて感じた。

早稲田大学ビッグベアズ(大隈重信から取ったらしい)の主将は殆ど試合には出ない凄い体格のラインマン。アナウンサーの紹介では早稲田実業では野球部に所属し17の背番号で甲子園にも出ていた選手だったそうだ。結論めいたことを言えば「この辺りにも優れた素材は野球に集まる傾向があるのでは」と、先日論じたばかりだ。ビッグベアズにはフットボール未経験者と野球からの転向者が多いという。

この件などは言わば零れ話の類いだが、早稲田大学ビッグベアズは敗戦濃厚だった4Qの終わり頃になっても決して試合を捨てずに、2本目のTDを獲って見せた辺りは、この大学のサッカー部にも見られる決して諦めずに最後まで早稲田大学魂とでも形容したい精神力を発揮する辺りが立派だと思って見ていた。

この試合の後半(3Qと4Q)を見れば、フットボールの面白さがより良く理解されるだろうにと、NHKが何時まで経ってもBSでしか中継しない姿勢が残念なのだ。また、解説者に起用されたのが神戸大学監督の矢野川源氏だったのは不思議だった。内容も中途半端な感があったし、私の信頼すべき解説者のリストには載せていない方だった。関西のリーグから出すのであれば、フェニックスの監督を経験された立命館大学パンサーズの橋詰功氏辺りの方が適任かと思うのだ。