我が国とアメリカとの物の考え方の違い:
恥を忍んで訂正した箇所は"cell”であるべきが"sell"だったものです。恥じ入っております。
先ほどもニュースで民法の離婚後の「親権問題」を如何にするかで意見が分かれていると報道されていた。また、つい先日は新型コロナウイルスを2類にするか5類に下げるかで、未だに議論が分かれて決定できていないことを報じていた。岸田総理批判になるかと思うが、現在のような時期にあっても、総理は防衛費の2%を5年以内になどと言っておられるのも決定力不足に思えるのが残念だ。
ここに挙げた例が示すように、我が国の慎重に物事を考える思考体系の下にあっては「イエスかノーか」、「やるのかやらないのか」、「白か黒か」のような決定を「エイヤッ」とばかりに二者択一で決めてしまうか、決めようとすることは極めて希である。私にはこのような物の考え方が、日頃揶揄されている岸田総理の「慎重に検討し」か「周囲の専門家に諮って」という即断・即決しない姿勢に表れていると思って見ている。
私が奇異に感じていることがある。それは「我が国は民主主義国家である」と何かにつけて強調し、何か事が起きると「それは民主主義に反する」との議論が出てくることだ。特に違和感を覚えた例を挙げれば、山上徹也の安倍元総理襲撃を「民主主義の冒涜だ」という議論が出たこと。民主主義の長所であり欠点であるのは「多数決」だったのだ。
そう割り切って理解し認識してあれば、こんな論調が出てくることなどなかったはずだ。「善か悪か」と取り違えているのだ。乃至は「平等か不公平か」のような考え方は出てこないはずだ。
私は何もアメリカ他の西欧文化圏にある諸国の文化と思考体系を礼賛するつもりなど毛頭ないが、彼らは二進法的にしか物事を考えられないし、多数決の原則に従順に従うから、「進むか引くか」のような国家戦略上極めて重大な事案でも、いともアッサリと割り切って決定してしまうのだ、「長時間慎重に検討」という過程を経ないで。これは何も賞賛に値する決定力でも何でもなく、ただ単に「二進法」で考えているだけのことだ。しかも、そこに過半数の意見があれば尚更のことだ。
ここでは敢えて失礼を顧みずに岸田総理を例に取るが「検討使」と揶揄されている慎重な姿勢こそが「我が国の二進法的に単純に割り切らない思考体系が解りやすい形で現れている」と見ている。2%の件などは、我が国を取りまく海外の情勢と、あり得ること指摘されている「台湾有事」を考慮すれば「5年以内に」などと決定力不足なことを仰っている場合なのかなと思わずにはいられない。恐らくアメリカ人たちには、岸田氏は“indecisiveな人だ」と見られていはしないかと危惧する。
私は長い間彼らアメリカ人たちの中で過ごしてきて、彼らの果断な決断力には初めもうちは敬意を表していた。だが、馴れてくると、そこにあるのは単なる二進法的思考体系に過ぎないと解ってきた。悪い言い方をすれば「非常に単細胞」であるのだ。この思考体系の相異を同僚たちと論じあった事があった。面白い議論だった。私は結論として「君等は単細胞なのだ」と言いたくて、“simple cell”と言って理解されなかったので“single cell”に切り替えたら通じて「上手いことを言う」(=“Well put.”)」となった。
先に取り上げた“indecisive”はジーニアス英和には「優柔不断」と「決定力不足」とが出ている。岸田総理に是非にとお願いしたいことは「今や果断な決定力が必要な時期に入っている」と、あらためてご認識願いたいことなのだ。重大な決断をなさるのは例えようもなく恐ろしいことだろうが、逡巡されては国を危うくしかねない危険性さえあるように思えてならないのだ。
ここは一番“single sell”になるご決断をお願いしたいのだ。「何だ。これが言いたかったのか」と言われそうだ。