新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

Englishという外国語を考えてみよう

2024-06-11 08:02:43 | コラム

Englishとは異文化と思考体系が異なるの国の言語である:


今回は久しぶりに「ホームグラウンド」であると思い込んでいる英語というよりもEnglishについて、少し深いところまで論じてみようと思う。


先ず指摘するのは「Englishを教える時も学ぶ時も、日本語での思考体系(物の考え方)を持ち込まないことが非常に重要であること」なのだ。何故ならば「Englishとは我が国とは文化(=cultureのことであり、ある特定の集団の言語・風俗・習慣・思考体系を意味する)が全く異なる外国の言葉であることを忘れてはならない」からである。その意味は「我が国の学校教育の科目にあるのは英語であっても、Englishではない」ということになる。


私は「学校の教育では高校になれば、単語や文法や英文解釈等々の理論の他に、Englishとは文化も物の考え方も日本とは違う国の言語であると教える方が、実用的な効果が上がるではないのではないのか」と考えている。そういう認識に欠けていると「無意識の非礼」を犯す危険性があるのだ。

私は「難しい理論的なことを児童や生徒に教えて、その結果で優劣の差を付ける5段階で査定していては英語学の理解は進むだろうが、一部から一向に英語が話せるようにならないと嘆く声が上がってくることになる」と指摘してきた。即ち、会話の能力など付けることを目的にしていないことをハッキリと児童・生徒・親御さんたちに伝えてなかったので、このような見当違いの非難が上がってくるのだ。


単語を沢山覚えること、文法、英文解釈、英作文などとバラバラにして教えることなどに重点を置いた英語(Englishではない)の教え方を非難する気などないし話せるようにすることは目的ではないのだからなげくのは当たらないのだ。入試、TOEIC、TOEFL、英検等の試験の成績を重要視していれば、「実用性に欠ける結果になるのは自然の流れ」なのだから。


私は仕事での必要性から対日輸出の最盛期には、年間に6回も7回もアメリカに出張していた。そして、アメリカの空港に到着する度に「また、この何もかも違う国に来てしまったのだ。ここから先は頭の中のギアをEnglishにシフトしなければ通用しないし、仕事にならないのだ」と緊張するのだった。換言すれば「頭の中をEnglish脳に変換しておかないと仕事にならない」という意味である。

視点を変えれば、「アメリカの会社は我が国の会社とは文化も思考体系も違う世界であり、アメリカの一員として行動する以上、我が国の会社組織で育まれた思考体系は通用しない」のである。アメリカの会社組織が我が国とは何処が違うことは今日までに再三再四述べてきた。そこで、念のために、幾つかの例を挙げて置こう。


その典型的な例としては「副社長兼事業本部長は会社の社長と同じように、製造・販売、総務、経理、人事権、労務・勤労、管理等々の全ての分野に絶対的な権限を持っていること」が挙げられる。彼等は絶対的な権限を持っているし、実務も担当するのだ。「彼らは二進法的な思考体系で物事を進め且つ処理していく」ので、詳細は省くがこの点が我が国とは決定的に違うのである。

アメリカの組織では、我が国のように上司から日常的に命令も指示も来ることはないし、「部下」はおらず、秘書だけが助けてくれる世界であると認識しておいて良いだろう。換言すれば、実務経験十分の者たちが中途入社というか、必要に応じて採用されてくる世界であるから、「同期入社」も「先輩」も「後輩」もいない世界なのである。従って全員の年俸等の待遇も転入してくるまでの経歴と能力で異なってくるので、年俸の多寡を同僚と比較することなどに意味ないのだ。

文化の違いの一例も挙げて置こう。「英語の世界では個人的なことを訊き出そうとすることは非礼に当たる」という我が国と大いに異なる習慣というか文化があること」なのだ。簡単に言えば他人に“Where are you going?“であるとか”Why did you come to Japan?“とか“Are you married?”のような質問をするのは失礼になるのだ。そのようなことを尋ねる場合には“May I ask you a question?“などから入らなければならない。


アメリカ人や外国人には日本人がEnglishの如何なる点に悩むかは解らない:
普通のアメリカ人が「日本の人が英語(English)を学ぶ時にどういうことを理解出来ずに悩んでいるか」などは解るはずもないこと。大体からして、我が国でどういう風に英語を教えているかなどを承知している人などには、ついぞ出会ったことなどなかった。また、「普通に我が国で英語の教育を受けた人が、アメリカ人たちが日常会話の中では口語体や俗語をふんだんに使っていると承知していること」もまたあり得ないのだ。


拙著「アメリカ人は英語がうまい」で採り上げたように、1972年8月に私は生まれて初めてサンフランシスコ空港に降り立って、機内で知り合ったアメリカ人に乗り継ぎ便を待つ間に“Are you still hanging around? I will buy you a drink.”と誘われて当惑した。私にはそれがアメリカ人の間ではごく普通に使われている「未だウロウロしているのか。一杯おごるよ」という意味だとは知らなかったのだから。

アメリカに行って現地の者たちと語り合うとか、アメリカの会社に入って一緒に仕事をするとか、彼等と寝食を共にする機会があれば、日常茶飯事でこういう種類の口語体に慣用句、俗語等が出てくるのである。それに馴れるまでは、何を言われているかが解らずに、大いに苦労させられると思っていて良いだろう。また、ある程度以上の上流の人たちの中に入れば、軽蔑されないように「言葉遣い」には厳重な注意が必要になる。

また、アメリカに初めて入った数日後にMeadの本社でコーヒーを持ってきてくれる秘書さんに “How do you take it?” と、尋ねられて「コーヒーカップから飲むに決まっているじゃないか」と一瞬悩んだのだった。だが、「砂糖とクリームは要るのか」と尋ねていると思って正解だった。アメリカ人たちは我々がこんな事で悩むとは想像もしていないだろうと思う。ある程度Englishの世界に慣れていたはずの私でも、初めて経験した表現だった。

これも何度か採り上げた翻訳家の誤訳した、アメリカ人たちが仲間内でごく普通に使う口語的表現の“baby“がある。これを知らずに“That’s a corporation’s baby.”を「本社の赤ん坊である」と訳してあった。 ここでは“baby”は「仕事、責任で処理すること」という意味で使われている。彼らの中で日常的に過ごしていないと、出会うことがない表現なのだ。こういう言葉遣いや“idiomatic expressions” 等は良く覚えておかないと苦しめられるのである。

私が常に強調してきたことは「アメリカ人乃至はnative speakerに英語を教えられることには余り意味がない」という点なのだ。それは、我々日本人に英語を教えようとするアメリカ人を始めとする外国人たちがどのような階層で育ち、どのような教育を受けていたかが重要なのだ。悪い言い方になることを厭わずに言えば「何処の馬の骨か」も解らない者に教えさせてはならないという事なのである。


その辺りをキチンと仕分けしておかないと、“you know“のように自分から「私は知識階級には属していません」と告白してしまうような言葉遣いが身についてしまう恐れがあるのだ。何度も取り上げた例に、沢尻エリカさんのように「語学留学」して帰国した成田空港で報道陣に追いかけられ、バッグを落として“Oh, shit!”と、いきなり禁句であるswearwordの知識を披露したのだった。


それも私が好んで用いる表現の「支配階層」にある人たちと意思の疎通を図れるような正調のEnglishを教えられるような外国人がどれほどいるかという問題だ。そういう高い能力がある者やハーバードでMBAを取得した者がわざわざ我が国まで英語教師になろうと志して我が国までやってくるのか。来る訳がないだろう。

発声法が違う:
少し異なった角度から英語の本葉の難しさを考察してみよう。ここまでのことに気が付いておられる英語の先生がどれだけおられるのかと私は危惧するのだ。私は「英語と日本語の大きな違いの一つに発声法がある」と経験から認識している。日本語は大きく口を開けて話す言語ではないが「英語は口先と言うよりも『腹の底から』の発声をする言語である」と言えば解りやすいかと思う。

私はアメリカに出張してその英語式の発声になるまでに、余程アメリカに馴れてからは半日もあれば十分だったが、当初は違いを把握できずに何故あのような音吐朗々たる声で話せるのかと悩まされた。この発声は表現とは異なって真似が出来る性質ではなかったのである。簡単に言えば日本語では大きく口を開けないが、英語は口の開け方も大きいし、感覚的に捉えれば「腹の底から声を出している」と感じていた。

この点については何時か機会があれば詳しく述べようと思うが、英語の発音は日本語とは使う顔の筋肉が、例えば“w”などがあるのも大いなる相違点の一つだと指摘しておこう。

この発声の違いだが、私は電車の中などで英語圏の者が乗っていれば直ぐに解る。それは、当初は日本語とは波長が違うのかと思っていたが、音域が日本語よりも高いのだとの結論に達した。因みに、中国人同士が話し合っていると騒がしく聞こえるのだが、中国語の音域も同様に高いようだ。その違いは発声法にあると考えている。

私も何時の間にか彼らの中で過ごす時間が長くなったお陰で、筋肉の使い方を「習うよりは馴れろ」で覚えたというか真似ができるようになってはいた。その結果として戦後間もなく言われていた「二世面」になってしまったようだった。即ち、筋肉の使い方の違いがもたらした変貌だった。だが、その顔付きは獲得形質に過ぎないので、英語での生活から離れてしまえば、元の顔付きに戻ったし、英語で話しても元の日本語式発声に戻ってしまったようで、一寸だけ残念だった。

結び:

私は重要なことは「そのアメリカ人並みの発声法を目指すことも必要であるが、文法的にも正しく且つ品格が備わった何処に行っても恥ずかしくない支配階層の人たちの中に入っても通用するEnglishで、自分の思うところを表現出来るように勉強することが肝心である。さらに、既に取り上げたことでEnglishとは異文化の国の言語である事を忘れてはならない」という重要な点をあらためて主張し強調して終わる。



1 コメント

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はじめまして (やあよ)
2024-06-11 11:04:05
興味深く拝見しました。

親戚がカリフォニア州にいまして、遊びに行ったとき、
こちらが日本人なので、ゆっくりとしたわかりやすいEnglishで話してくれたのですが、
話すことより、話している内容をじっくり聞いて答えるようにしていました。
日本でTOEICの高得点の家族より、わたしのほうが聞き取って、それに答えられました。
英語力に自信がある人は、ペラペラとよく話すんですが、発音はいまひとつだし、相手の話が聞き取れていない傾向があると思うんです。
非礼にならないためにも、わたしはまず相手のEnglishに慎重に耳を傾けています。
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