新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月21日 その2 トランプ大統領の問題点

2025-03-21 14:23:19 | コラム
アリカ合衆国教育省廃止の大統領令に署名:

見出しのようなニュースが流れていた。トランプ大統領はアメリカ国民の中で識字率や基本的計算能力(numeracy=一桁の足し算と引き算が出来ること)が欠けているとの報告を聞いて激怒して教育省廃止を指令したことのようだ。だが、廃止は国会の議決を経なければならないのだそうだ。後難を怖れて言えば「ここにもトランプ氏の不勉強さが現れている」のである。

私が再三取り上げて論じたことで、1994年7月にNHKと読売新聞共催のパネルディスカッションが開催され、当時のUSTRの長だったカーラ・ヒルズ大使が参加された。大使は「アメリカが対日輸出を増やして貿易赤字を削減する為には、労働者階層の初等教育の充実と識字率の向上が必須である」と述べられた。聴衆の一人だった私は「何だ。大使は問題点を的確に把握しておられるじゃないか」と感心した。

ところが、数日後に柏木雄介東京銀行会長(ウエアーハウザー顧問)が上記の2点に加えて、numeracyの向上も必須であると指摘されたのだった。再度言うが、重要な点は「1994年のことであり、USTRの責任者がアメリカ側の問題点を東京の公開の席で表明された」という事。因みに、このディスカションには当時の宮沢喜一総理も出席しておられた。

私自身は職責上で、何度も事業部の工場で三直四交替勤務の組合員を集めて「君らの仕事の質をもう一息上げて、製品の品質向上に励んで同業他社の水準を抜いてくれれば、我が事業部の市場価値が世界最高の地位を確保するので、君らの職も限りなく安定するのでより一層の努力を」と激励していた。しかし、この経験から彼等の中には英語の読み・書きが満足に出来ない者たちがいるとも承知するようになった。

ご注意願いたいことは、私の経験とても40年近くも前の出来事なのである。また、カーラ・ヒルズ大使の指摘は31年前のことだった。それにも拘わらず、2025年の今日、この種の問題の存在がトランプ大統領に上がって激怒されたとは、どういう不手際なのだろうか。30年間も放置されていたか、それとも為す術を知らずにいたとでも言うのだろうか。

私がもっと問題だと思うことは「トランプ氏は2017年から2021年まで大統領の職におられた」という事実なのだ。「その4年間にここまで指摘してきた三項目の問題点を知らなかったとはどういうことか」と言いたいのだ。それでは、大統領はブレット・スティーブンスがNY Times上で指摘したように「歴史から何も学んでいなかった」ことになりはしないのかという事。

マスメディアはこの教育省廃止の大統領令を報じるのであれば、これくらいの背景の情報を流せないのかと言いたくなる。「君らもブレット・スティーブンスに歴史に学んでいないと誹られるのではないか」と言って終わる。

W杯出場を決めた20日夜のサッカー

2025-03-21 07:32:11 | コラム
久保建英を最後まで使ったのが良かった:

FIFAのランキングでは我が方が18位であるのに対してバーレーンは81位なのだそうで、格上が格下にどのようなサッカーで勝つのかを見ようとばかりに観戦した。だが、81位だって然る者で、前半を早い寄せと長めの足を活かしたディフェンスで、無失点で終わらせて見せた。特に、我が方が誇る海外で大活躍の三笘薫に殆ど何もさせなかったのが効いたと思っていた。

古きWMフォーメイションの時代のサッカー選手の当方には、代表選手たちは世界の舞台で通用している程上手くなったにも拘わらず「横一線で並んでいるバーレーンのディフェンスラインの頭を越して裏側にバックスピンの効いた縦パスを落とさないのか」と「何故吉田麻也がいなくなっても後陣で、ディフェンダー間で無意味なパス交換を続けるのか」が不可解だった。

バーレーンの監督は日本を充分に研究してきたと言ったそうだが、その成果でホームでは5対0で負けたと聞いたほどの差が見られなかったと言うよりも、我が方が攻めあぐんでいただけという前半のサッカーだった。三苫が機能させて貰えず、上田綺世は不発で点が取れる型を作れていなかった。

後半になっても「攻めあぐね」が続いていたが、そこでスペインで大活躍の久保建英が、私に言わせれば、持てる力を発揮してくれた。縦へのパスの発信元は上田だったそうだが、受けた久保が途中交代で入ってきた鎌田が並んで上がってきて、前が空いたのを見るや、体を回転させてディフェンスの裏を通す絶好且つ絶妙のパスを通し、鎌田が難なく決めてやっと1点取れたので「勝負あった」と安心した。

「流石に久保だ」と堪能させて貰えたが、久保はこれだけでは終わらなかった。42分には左サイドでキープしてゴールラインギリギリまで上がったので、てっきりセンタリング(今では「クロスパス」と言うそうで)をするのかと思えば、角度が殆ど無い所からより角度がなくなるGKの右側を抜く目にも止まらないシュートで鮮やかな2点目を決めてくれた。「凄いし上手い」と感心するだけだった。

私は久保建英が代表選手たちの中では別格であるだけではなく、別種のサッカーの上手さがあると評価している。だが、昨夜のように攻守に真摯敢闘の動きを見せることが少なかった為か、森保監督は彼を起用しても途中交代させるか、最初からベンチに置いたままにする使い方をしていた。

監督には夫々主義主張があるだけではなく、選手の好き嫌いがあるので、私は森保監督が久保のサッカーが好みではないと判断してきた。だが、昨夜はその疑問を排除するかのように最後まで使い切り最高のアシストと、試合を決定づけるシュートとを決めさせる使い方をした。ヨーロッパ風に言えば「Man of the match」にしたのだった。

極論を述べて締めよう。それは「昨晩、森保監督が使った10数名の選手たちは皆揃ってヨーロッパのサッカー界で通用する水準に達しているのは疑いもない所だし、前田大然だったかは大量の点を取っている。だが、日本代表に招集されると、それほどの凄さも上手さも見せてくれない。何故なのだろうか。

私の結論は簡単明瞭で「彼等は周りが一流選手たちばかりのヨーロッパのリーグに行けば、周りの名手たちが日本の代表選手たちの長所を活かした使い方をしてくれるかではないのか。だが、日本代表ともなれば周囲に『使われてこそ特徴が出てくる』者たちばかりなので、容易に形を組み立てられないのでは」という事だと見ている。実は、この推理は嘗て香川や岡崎にも当て嵌まっていた。

現在の代表ティームの中心選手は遠藤航なのだろうが、私の目には彼は中盤で真摯敢闘しているが、ゲームメーカーのようには見えないのだ。私の見損ないだったらお詫びするが、遠藤から「鮮やかにディフェンスの裏を取ったパスが出た」というような場面を見た記憶が無いのが残念なのだ。尤も、森保監督の主義主張は「同程度の水準にある者を集めて、中心となる組み立て役は置かないサッカー」なのかもしれない。

3月20日 その2 訂正版=「国歌斉唱と国旗への尊敬の念」

2025-03-20 13:20:03 | コラム
LA Dodgers対Chicago Cubsの野球の番外編:

19日の試合開始前のアメリカ国歌の斉唱を、Little Glee Monsterなる女性のコーラスグループが担当した。前夜にはLAに住んでいるとかのヨシキなるピアニストソロだったのは主催者の好みだったのかしれないが、私は感興を削がれる思いだったし「誰か本格的な発声ができる歌手に歌って欲しかった」と嘆いていた。

実は、彼女らが整列しているのを見て「この人たちで大丈夫かな?」と心配になっていた。と言うのも「歌詞が難しい英語であり、かなり歌いにくいのだと承知していたし、発音が上手くできるのか」という事。だが、かなり正確な発音であの難しい国家を歌いこなしていたのを聴くと、不覚にも懐かしさで危うく落涙しそうになったのだ。
と言うのは、在職中には何度も現地でフットボールやベイスボールやバスケットボールのプロと大学生(NCAA)の試合開始前に国歌斉唱がありあの“Oh can you see ~“で始まる国歌を聴いていたので、当時は(1972年から1993年まで)我が国の国歌よりも聴く頻度が高くなっていたのだった。

そこで、満員の観客たち、即ちアメリカ国民たちが、本当に楽しそうに声高らかに自分たちの国歌を歌うのを聴いて「羨ましいな」と何度も感じていた。何が羨ましいのかは後で触れるが、あれほど何度もアメリカ合衆国の国歌を聴けば、馴染んでくるのは当然だっただろう。但し、あの歌詞の意味は容易に覚えられなかったし、歌うのはもっと難しかった。

40年ほど前のことだったか、本部の幹部の一人、Bobにワシントン大学のフットボールの試合に連れて行ってもらったことがあった。このHuskiesはアメリカの全大学の中でも最上位にランクされている強豪で、大学の敷地内にあるハスキー・スタジアムの収容能力は何と7万人なのだ。州立大学でもこのような凄い設備を持っているのがアメリカである。

やがて観客全員が立ち上がって(英語を講釈すれば、“Will you please rise?“と言うが)国歌の斉唱が始まった。皆が声高らかに嬉しそうに歌うのだった。立ち上がっていた私は「何故、我が国ではこうならないのだろうか。残念なことだ」と思った瞬間に涙が出てきた。

その理由は「当時我が国では国歌を嫌う左側の集団の影響で、学校の行事などでは斉唱を拒否するような事案が多発していた」事を嘆いたのである。自分自身がそれほどの愛国者だという自覚などなかったが、全員が朗らかに誇り高く国歌を歌っているのが「我が国でもかくあるべきだ」と痛感していたのだった。

ところが、私の落涙を見て感動したのかBobは「アメリカ国歌の為に泣いてくれたのか。有り難う」と、握手を求めてきた。「違うんです」とは言えなかった。

アメリカという国では行く先々で国旗が掲揚されているし、我が本社にはアメリカ中で最も大きいと誇りにしている星条旗が掲揚されている。アメリカという国では、如何なる行事でも開始前の国歌斉唱は当たり前のことである。

私の解釈は「アメリカ合衆国は白人を中心にして(現在は変化しつつあるかのようだが)多くの民族で構成されているので、何か全員の心の支えとなる存在が必要であり、その前に全員で忠誠を誓おうというのが国歌と国旗である」なのだ。即ち、それによって国家と国民としての統一感を出そうという事ではないのか。その意味では、我が国の在り方とは異なるのだが、見習っても良い事ではないのかと考えていた。

今や、我が国でも国歌斉唱はごく普通の行事になっているし、総理大臣以下閣僚が登壇する際には備え付けられている国旗に向かって一礼することから始まるようになってきた。敢えて、特別に褒め称えようとは思わないが、国家として普通のことが出来るようになってきたのだと評価している。自分の国の国旗と国歌を敬うのは普通のことになってきたと認識している。

話を私のことに戻せば、昨夜のリトグリのアメリカ国歌斉唱を聴いて感動したのは「そう言えば、俺は30年までは22年以上もあの国の中で働き仕事をして、あの国歌を度々聴いて過ごしてきたのだと、無性に懐かしくなったのだという思い出に耽っていた」のである。因みに、あの国家の最終節は

⁠And the star-spangled Banner in triumph shall wave,
O'er the land of the free and the home of the brave.

となっていて、「自由の地であり勇者の故郷(ふるさと)である」
となっている。

国歌斉唱と国旗への尊敬の念

2025-03-20 07:25:09 | コラム
LA Dodgers対Chicago Cubsの野球の番外編:

19日の試合開始前のアメリカ国歌の斉唱を、Little Glee Monsterなる女性のコーラスグループが担当した。前夜にはLAに住んでいるとかのヨシキなるピアニストソロだったのは主催者の好みだったのかしれないが、私は感興を削がれる思いだったし「誰か本格的な発声ができる歌手に歌って欲しかった」と嘆いていた。

実は、彼女らが整列しているのを見て「この人たちで大丈夫かな?」と心配になっていた。と言うのも「歌詞が難しい英語であり、かなり歌いにくいのだと承知していたし、発音が上手くできるのか」という事。だが、かなり正確な発音であの難しい国家を歌いこなしていたのを聴くと、不覚にも懐かしさで危うく落涙しそうになったのだ。

と言うのは、在職中には何度も現地でフットボールやベイスボールやバスケットボールのプロと大学生(NCAA)の試合開始前に国歌斉唱がありあの“Oh can you see ~“で始まる国歌を聴いていたので、当時は(1972年から1993年まで)我が国の国歌よりも聴く頻度が高くなっていたのだった。

そこで、満員の観客たち、即ちアメリカ国民たちが、本当に楽しそうに声高らかに自分たちの国歌を歌うのを聴いて「羨ましいな」と何度も感じていた。何が羨ましいのかは後で触れるが、あれほど何度もアメリカ合衆国の国歌を聴けば、馴染んでくるのは当然だっただろう。但し、あの歌詞の意味は容易に覚えられなかったし、歌うのはもっと難しかった。

40年ほど前のことだったか、本部の幹部の一人、Bobにワシントン大学のフットボールの試合に連れて行ってもらったことがあった。このHuskiesはアメリカの全大学の中でも最上位にランクされている強豪で、大学の敷地内にあるハスキー・スタジアムの収容能力は何と7万人なのだ。州立大学でもこのような凄い設備を持っているのがアメリカである。

やがて観客全員が立ち上がって(英語を講釈すれば、“Will you please rise?“と言うが)国歌の斉唱が始まった。皆が声高らかに嬉しそうに歌うのだった。立ち上がっていた私は「何故、我が国ではこうならないのだろうか。残念なことだ」と思った瞬間に涙が出てきた。

その理由は「当時我が国では国歌を嫌う左側の集団の影響で、学校の行事などでは斉唱を拒否するような事案が多発していた」事を嘆いたのである。自分自身がそれほどの愛国者だという自覚などなかったが、全員が朗らかに誇り高く国歌を歌っているのが「我が国でもかくあるべきだ」と痛感していたのだった。

ところが、私の落涙を見て感動したのかBobは「アメリカ国歌の為に泣いてくれたのか。有り難う」と、握手を求めてきた。「違うんです」とは言えなかった。

アメリカという国では行く先々で国旗が掲揚されているし、我が本社にはアメリカ中で最も大きいと誇りにしている星条旗が掲揚されている。アメリカという国では、如何なる行事でも開始前の国歌斉唱は当たり前のことである。

私の解釈は「アメリカ合衆国は白人を中心にして(現在は変化しつつあるかのようだが)多くの民族で構成されているので、何か全員の心の支えとなる存在が必要であり、その前に全員で忠誠を誓おうというのが国歌と国旗である」なのだ。即ち、それによって国家と国民としての統一感を出そうという事ではないのか。その意味では、我が国の在り方とは異なるのだが、見習っても良い事ではないのかと考えていた。

今や、我が国でも国歌斉唱はごく普通の行事になっているし、総理大臣以下閣僚が登壇する際には備え付けられている国旗に向かって一礼することから始まるようになってきた。敢えて、特別に褒め称えようとは思わないが、国家として普通のことが出来るようになってきたのだと評価している。自分の国の国旗と国歌を敬うのは普通のことになってきたと認識している。

話を私のことに戻せば、昨夜のリトグリのアメリカ国歌斉唱を聴いて感動したのは「そう言えば、俺は30年までは22年以上もあの国の中で働いて私語し、あの国歌を度々聴いて過ごしてきたのだと、無性に懐かしくなったのだという思い出に耽っていた」のである。因みに、あの国家の最終節は

⁠And the star-spangled Banner in triumph shall wave,
O'er the land of the free and the home of the brave.

となっていて、「自由の地であり勇者の故郷である」

となっている。

3月19日 その2 LA Dodgers対Chicago Cubsの野球

2025-03-19 15:23:10 | コラム
冷静なる評論家としての論評:

少しだけ目立った点を挙げて置こうと思うと思う。

今永の4回69球での交替:
アメリカの評論家の間でも「早すぎる」との批判が出ているとかだが、私は3回でも早くはないと見ていたほど、今永は目一杯だった。特に四球を4回も与えた後の表情の頼りない表情が物語っていたと思う。確かに、ノーヒットだったし1点も取られてはいなかったが、4回まででopening game starterの責任は果たしていたと思う。

今永を交代させたことを云々するよりも、ベン・ブラウンを出して失点したベンチの投手交代の誤りを責めるべきではないか。今永は確か通算7打席大谷翔平にヒットを打たせていなかったことを褒めるべきではないか。MLBで2年目の投手としては立派な出来だったと評価しても良いと思う。

カブスのキャッチャーのリード:
既に指摘してあったことで、大谷に対して徹底的にアウトサイド(「アウトコース」という野球用語は出鱈目だ)の高めに速球を投げさせていたのは当然と言えば当然の策。何故ならば、大谷君の目にも止まらない高速スゥイングでは、下からアッパー気味にバットが出てくるように見えるのだから、高めのストライクは一寸だけ対応が厳しいようだ。大谷が不満そうな表情を見せるストライクの判定は高めが多いと思うのは僻目か。

カブス側はデータを揃えてあったのだろう。だから今永がセカンドゴロに仕留めた時には、大谷は思いきり球の上っ面を叩いていた。

今永がボールになる落ちる球で三振を取ったのも、良く考えた配球。しかし、ブラウンはボール1個分低く投げてしまったので、痛烈なヒットを打たれた。言うなれば「流石大谷」と「流石今永」とでも言うべき所か。

アメリカ人たちの社交辞令の鮮やかさ巧みさ:
昨夜の試合とは直接に関係していないが、報道機関の連中がMLBのヘッドコーチ(監督と訳されている場合が多い)やコーチたちが日本の選手を「凄い」とか「直ぐにMLBに来ても通用する」というように褒めるのをそのまま記事にするのは結構だろうが、余り額面通りに受け止めた記事にはしない方が良いように思えてならない。一つだけ例を挙げれば「ロバーツ監督の阪神の才木の高評価」辺りか。

そういう理由はそこにはある種の「文化の相違」があるからだ。勿論、礼儀正しく奥床しい我が国にも「お世辞」を言う文化はある。だが、西欧人たちは社交性が高いというか、極端に言えば「巧言令色鮮し仁」に近いとすら感じる「幼いことろから躾けられた社交性の高さが備わっていて社交辞令(お世辞)が非常に巧みなのである。

私の彼等の中で過ごした得た感覚では、我々は彼等の社交性にはとても対抗できないのである。賞賛して貰ったと報道するのは良いが、褒められた方は「幾らか割引して受け止める方が無難である」と経験上から言える。