新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

岸田総理「不祥事と不始末が多すぎませんか」

2024-07-31 07:18:23 | コラム
我が国の緩んだ箍を締め直すのが喫緊の課題なのだ:

問題は「箍を緩めたのは誰だ」なのではないか。それでなくても、自由民主党には不始末が多すぎないか。収支報告書不記載問題(マスコミ風に言えば「裏金問題」)だけでも「恥ずかしくないのか」と口を極めて非難攻撃したいほどの不祥事であり不始末なのだが、先頃は堀井学衆議院議員の裏金を資金源とする地元での香典問題が摘発されてマスコミを賑わしてしまった。

それだけでも充分過ぎるほどの醜態なのに、それに加えるに、一見「小悪」の如き藤尾参議院議員の公設秘書給与詐取の容疑での検察による事務所と家宅捜索である。藤尾氏は離党で事態を糊塗しようとする根性も余りにも姑息で自民党の議員たちに「貴方たちには倫理観も道徳観もないのか」と問いかけたくなった。

ここまでは自由民主党内部の問題だが、目下閉会中審査となっている自衛隊の不始末/不祥事に見える、隊員としての自覚と常識の欠如はもっと深刻ではないのか。「文民統制の問題だ」という自民党内部からの批判があったと報じられていたが、それではまるで余所事ではないか。立憲民主党の渡辺周が木原大臣に「辞職せよ」と責め立てていたが、それで済むような問題かと思わざるを得ない。

産業界においても、わが国を代表するトヨタ自動車を筆頭に自動車産業界では試験データ違反や虚偽報告という「恥を知れ」と叱咤したくなったほどの不誠実な事件を起こしていたのには落胆させられた。伊藤忠商事が買収して立て直しに乗り出したビッグモーターの数々の不祥事にしても、我が国の実業界の質を疑いたくなってしまった。円安と上がり続ける物価に対策を講じきれず、給与を上げ切れていないのも経営者の質の問題かと疑っている。

酷暑が続く見通しで電力の供給事情が危険水域に入っているだけではなく、政府もマスコミも依然として「世界の潮流に乗り遅れないように」とEVの推進云々を唱えている。それが正しくて、目指すべき方向なのだろうか。そこに原子力規制委員会とやらが敦賀原発の2号機だったかの停止を指令した。委員会としての使命があることは私にだって解るが「何でこの時期に」と思う。

この委員会は三条委員会なるが故に、政府が従わざるを得ない(という理解で良いのかどうか知らないが)のは解る。だが、国益も兎も角として、国民の生活の不自由になるかも知れない事態が生じないようにする対応策を、岸田内閣は準備しておられるのかと伺いたくなるのだ。

攻撃的で批判的であると言われているA型の悲観論者である当方には、上記のような負の面だけが浮かび上がって見えてくる。何とかして貰いたいと思わざるを得ないのだ。そんな時に、やれ「トランプかハリスか」という問題も、国家としては重大事だろうしマスコミの関心事だろう。しかし、最優先で取り扱うことなのかなと思ってみている。

私にも自由民主党の岸田文雄総理総裁が政権維持の為に懸命の努力されることも解らないでもないが、先ずは党内の弛みきった箍を締め直し(綱紀粛?)、内外の喫緊の課題に対処出来るように、キチンと体勢を立て直す事を優先していただきたい気がしてならないのだ。菅政権の時にも指摘したことで「内閣総理大臣は対処すべき事柄の優先順位の付け方を間違えていただきたくない」のである。

その為には、側近に良き人材を得ておく必要がありなしはしないか。と言っていることは「得ておられないのではないのか」という意味である。9月までの短期間にできる限りの対策を講じて欲しいと願っている。再選(マスコミの用語では珍奇な「続投」だが)されるか否かは、その辺りの対処が出来たか否かにかかっているのではないか。

7月30日 その2 「柔道の永山竜樹の準々決勝での敗戦について」の補足

2024-07-30 10:19:15 | コラム
オリンピックの柔道にはチャレンジ制度がないのか:

NPBの野球中継を見ておられる方は先刻ご承知だろうが、今や審判の判定に対する異議申し立て(チャレンジ=challenge)が頻繁に行われる時代になった。アナウンサーたちは「リクエスト」と称しているが、それは「ビデオ判定の要求」と言って欲しいのである。私は正しくは「判定に対する異議申し立てがありました」であるべきだと思っている。

そこで、この英語では“challenge”を意味する「異議申し立て」について考えてみよう。どうやら、オリンピックの柔道では永山竜樹の例を見ても「ビデオ判定」または「意義申して」の制度は採用されていなかったとしか思えないのだ。国内では既にCARE(=computer aided replay)が採用されているかのようだが。

オリンピックの柔道では、あのシドニーオリンピックでの100kg級の篠原信一に対する誤審があってから、我が国では採用されたと聞くが、国際柔道連盟(IJF)は未だ採用していないらしい。だが、(アメリカン)フットボールでは監督が3回までのチャレンジが認められているし、ヴァリーボールでもバスケットボールでもテニス等々以外でも、異議申し立てをしてビデオ判定が要求できるようになっている。

私は「IJFは我が国が柔道の国際化を願ったのを良いことにして、我が国が発祥の地である柔道をスポーツの如くに恣意的に変えて、諸々の国際的なルールを創造して恰もボクシングのようにジャブで牽制し合う事を許し、制限時間などを設けてしまった。だが、不思議なことに欧米が発祥の地だと思っていたビデオ判定の導入は消極的である」のが残念である。

既に「過度にビデオ判定に依存する試合態度には疑問の声が上がっている」が、あのWBCの野球においてのアメリカの審判の誤審後の酷すぎる態度などもあったことだし、異議申し立て制度は正当な権利であると認められている。私は「試合の進行を阻害せず、観客の興味を削がない程度には行使して良いだろう」と考えている。

「チャレンジ制度」から議論が逸れてしまうが、柔道の伝説的王者・山下泰裕氏はJOC会長でIOCの委員なのだから、我が国全体の為もさる事ながら、柔道のルールや試合の運び方等について、IJF会長マリウス・ビゼール氏(オーストリア人)に正当に言うべき事を言って行かれても良いのではないのかと考えるのは誤りか。

パリ2024の柔道における永山竜樹の準々決勝での敗戦について

2024-07-30 08:00:09 | コラム
元レスリング・アジア選手権者に訊くと:

あのパリ2024における柔道の永山竜樹の準々決勝での不可解な判定による負け方は、同じ日本人としても非常に不愉快だったと同時に「審判」という職務における技術の難しさを、あらためて認識し痛感させられた。あの判定が覆せるのならば、何とか覆してあげたかった。

そこで、競技として種目は異なるが同じ個人種目の格闘技(と言って良いのだろう)のアジア選手権者に、色々と尋ねてみる機会があった。彼女が最初にズバリと言ったことは「あの判定をした審判は誤審と認めることはしないでしょう。だが、一生あの判定をしたこと悔やむでしょう。でも誤審ではなかったと主張する以外の選択肢はなかったでしょう」だった。納得できる指摘で、立派な意見だと聞いた。

さらに、あのウズベキスタンの選手は「あの判定で勝利になったのでは、審判の『待て』の声がたとえ聞こえていたとしても、聞こえなかったと言うしかないでしょう。場内の騒音で聞こえなかったと弁解したのは解らないでもないが、それほど夢中で集中していたから聞こえなかったことはあるかも知れない」との見解を示してくれた。「個人種目では試合中はそれほど全神経を集中して『機会』が訪れる瞬間を狙って技をかけているのだ」と教えて貰った。

審判という仕事の難しさについても語り合った。「資格も持っているし、それなりの権威と自信を持って判定しているのだから、判定を変えるという事は絶対と言って良いほどしたくないし、またしないでしょう。また、変えてはならないと思っているでしょう。変えてしまえば審判の権威が失われるから」と言われた。非常に尤もな見解だと尊敬しつつ聞いた。

実は、かく申す私も在学中にサッカーの関東大学リーグ4部の試合で、止むを得ず自分たちの試合が終わった後に、何と公式な審判員が来なかったので我が方、しかも私が我が校を代表してやれということになってしまった事があった。中学から高校の間では部内の紅白戦などでは笛を吹く経験があったが、大学の公式戦では話が違うと緊張もした。

その時に、私の位置から見えない遠くで「ハンド」の反則があったと訴えかけられた。今でも覚えている事は「左サイドで、左手に当たったようだったが見えなかった。義務観念で立っていた臨時の仲間の線審も右側にいたので、見えていなかった。そこで、そのまま試合を進行させる以外選択肢がなかった。抗議は更に猛烈になったが、審判としては一度取らなかったので認めることはしなかった。後味は悪かったが、それで良いと思っていた。

上記の件は70年以上も昔のことだった。現在では以前よりも審判員の資格を取る為の基準は厳格になっているだろうし、各種のテストもあるだろうから技術は格段に進歩しているだろう、何もサッカーだけに限らずに。それでも、柔道のような2人だけで進める競技でも、審判員が1人というのも一寸気になる。相撲だって行司の他に複数の検査役が土俵下に構えて「物言い」をつけているではないか。

「それだから柔道では」と言う前に、あの永山竜樹が不満の表現で畳から降りなかった事を不当な行為であると判定したのも、片手落ちだと思えてならない。柔道にはビデオ判定が導入されているのかどうかは知らないが、あの判定に何らの審議が出来ないほど審判の権威を保護しているのであれば、技術を厳格に審査する国際的な規定があってしかるべきでは。

参考までに、フットボール系ではどうなっているかを取り上げておこう。サッカーにはVARがあって、先日のアルゼンチンのようにゴールが後になって取り消されたし、ラグビーではTMOで再検討して10分間退場がレッドカードに格上げされたし、(アメリカン)フットボールでは7人の審判員がいて夫々の担当分野で反則を監視している。

ビデオ判定に頼りすぎる傾向が見えてきた傾向には「果たしてそれで良かったのか」という疑問も生じる。だが、あの永山竜樹に対する判定を見せられると、審判の権威と技術の在り方に再検討の余地があると思う。後難を怖れずに言えば「その競技種目の後進国乃至は弱小国からも平等に審判員を派遣させることが公平であっても、問題(禍根?)を残すのでは」なのである。

エッフェル塔に思う事

2024-07-29 07:18:33 | コラム
フランス語では「エフェル」だそうで:

パリオリンピックでは、この塔の存在が一層際立っている。我が国で「芸術の都」と尊敬されているパリの象徴的な塔である。私は余り関心がなかったので「エッフェル」とは建築家の名字からとった名称である程度の知識しかなかった。

だが、何時のことだったか、アメリカで偶然に綴りは“Eiffel”で、アメリカでは「アイフェルタワー」と発音されていると知った。それがカタカナでは「エッフェル」と表記されている事にも関心がなかった。

そこで現在進行中のオリンピックである。先週末に久方ぶりに懇談した仏文学者のTK博士に、フランス語についての知識が皆無と言っても良い私は「Eiffelのフランス語の発音は」と尋ねた。「エフェル」と教えられた。やや意外な感があった。それはカタカナ語の「エッフェル」はフランス語読みとも英語式の「アイフェル」とも違うのだから。

察するに、フランス語の発音が「エフェル」で、綴りでは“f”が重なっているので、先人は“i”は無視して、ローマ字の手法で「ッ」を入れた表記にしたのではないのかな。何れにせよ、原語とは異なる発音になってしまう表記にするという何時もの手法のようだ。

私的な回顧談を。私は世界の(僅か)20ヶ国しか訪れていなかった。アメリカは業務上でも50回以上も往復したが、ヨーロッパはついぞ縁がなかった。フランスには1991年に本部に出張した後で休暇を取って初めて出かけたのだった。シアトルを早朝にNorthwestの便で出発して、時差がどうなっているかも解らないままに、シャルル・ド・ゴール空港に到着したらまた早朝だった。

エッフェル塔には現地の商社の駐在の方に「この時間帯が最高に美しいと言われています」と、深夜に案内された。照明に照らし出された塔の何とも言えない美しさに圧倒されたのか「負けた」と叫んでしまった。自分でも何に負けたと感じたのか解らなかったが、言葉にならなかった。何が「芸術の都か」などと思っていたのを密かに恥じた。今にして思えば、トロカデロ広場(Place du Trocadero)に立っていたのではと思う。

「あの開会式のこりに凝った演出の華麗さと美しさが、何から、何処から来ているのか」と仏文学者のTK博士に尋ねてみると「教育の質とそこに発する教養の差では」という答えが返ってきた。フランスの文化/文明のほどを知らない私にも、何となく解るように思えた彼我の文化の相違点であると思う。

敢えて付記しておくが、ここで言いたいことは「優劣の差」ではなく「我が国の固有の文化とフランスの文化」では「質が違う」という点なのだ。

7月28日 その2 「選挙」のことを思う

2024-07-28 11:04:00 | コラム
日本でもアメリカでも重大な選挙がある:

先ほど何気なくNHKにチャンネルを合わせてみたら、アメリカ大統領選挙について、私にとってはジョセフ・クラフト氏以外は知名度が高い権威者が意見を述べておられるところに出くわした。そこで「あーそうだった。オリンピック以外にも我が国には重大な話題があったのだ」と気が付いた次第。この件とメダル獲得を心配するよりも、国内には他にもっともっと重大なことがあると思えてならない。

何処かで先頃回顧した気もするが、昭和30年(1955年)7月以来1994年1月にリタイアするまでの間に営業職以外に経験がなかったので、「営業というか取引の場では如何なる事があろうとも、政治に関する話題を持ち出してはならないのが鉄則である」と教えられたことを金科玉条として守り通してきた。この姿勢はアメリカの会社においても変えることはなかったし、アメリカ人たちとそういう事を論じあった記憶もない。

だが、リタイア後の20年も経ってしまった頃に、ドナルド・トランプ氏と言う私にとってはトランプタワーに住んでおられるとかいうこと以外には何らの予備知識もなかった人物が「泡沫候補」と誹られながらも出てきたのだった。私は選挙期間中から現実に大統領に就任されてからも、その経済・貿易等々の内外の政治についての不勉強というか基本的知識の欠如振りには呆れる前に「この人に大統領が務まるのか」と疑問に感じていた。

それよりも何よりも、20年以上もの間アメリカの企業社会を支配していたのだと思わせられていた経営者たちに接する機会があったので、トランプ大統領のswearwordまで使ってしまう言葉遣いの下品なことには、それこそ「あり得ないことだ」と驚愕させられていた。あれやこれやで、私はトランプ大統領の非常識なこと、実務について無知なことを、感じたままに批判した。

だが、トランプ大統領に在任中に、その粗野で品位を欠いている言葉遣いは、彼の岩盤の支持層である所謂プーアホワイトと彼自身がworking classと言われた労働組合員やそれに準ずる労働者たちに向けたものであると解ってからは、本来は民主党の支持基盤であった者たちを自陣に取り込む為の言うなれば斬新な手法だったと解った。

即ち、嘗てUSTRのカーラ・ヒルズ大使が認められた「初等教育を満足に受けていないか、識字率も低い」階層の者たちにも解りやすく語りかけていたのである。彼等支持者たちはトランプ氏を信じ、トランプ氏に示唆されれば(当人はしていないと否定されたが)バイデン氏の当選を認めさせないように国会議事堂にも乱入したのだと、私は見ていた。

そのトランプ氏は再選を目指して準備おさおさ怠りなく、一時は言葉遣いも穏やかにしたとすら見えた。そこにあの銃撃事件が起きて「不死身のトランプ」を印象づけて指名も獲得した。ところが罵倒してきたバイデン大統領の撤退という予想の範囲内だった事態が生じて、カマラ・ハリス副大統領が後継候補者に指名されるや、悪口雑言で暴言を吐くトランプ氏に戻ってしまった。

「下品な人と事」を嫌う私がもしアメリカの有権者だったならば、一も二もなくハリス副大統領を選択したかも知れない。だが、事はアメリカの大統領選挙であるから、私は何度か取り上げた表現の“It remains to be seen.”という「結果が出るまで待ちます」としか言いようがない。アメリカの有権者たちの中でもインテリ階級にトランプ支持者は少ないのだが、その数はトランプ支持者よりは遙かに少数派である。

先ほど、チラと見た討論会の中で何方かが「アメリカ大統領という地位に女性を選んだらどうなるのか」という意味のことを言っておられた。これをアメリカの女性たちが聞いたら何と言って怒るだろうか。この発言は確か「女性の支持がハリス副大統領に傾きつつある」というのを受けてからのことだったが、外国人である私がこれ以上に云々する必要はない話題だと思っている。

それよりも言いたい事は、我が国は11月のアメリカ大統領選挙よりも前の9月に自民党総裁選が予定されているので、こっちこそが焦眉の急の問題ではないのか。第一に、評判が悪くなる一方と言いたい岸田総理総裁は未だ撤退は表明されていないし、振付師の感が濃厚な木原誠二は「引くことはない」と明言したではないか。

罪なき一般人に聞けば、石破茂氏が常に次期総理(なって欲しい人)の第1位で、次が小泉進次郎氏である。その他には麻生副総裁と菅前総理が推される有力者も目白押し状態だ。現在の我が国が直面する国内外の重要な案件を思う時に、私は4ヶ月も先のアメリカ大統領選挙などどうでも良いとは言わないが、メデイアも我々国民も自民党総裁選に対してより重大な関心を持つべきだろう。「何とか色」のメダル獲得よりもこっちが大事ではないか。