私の英語とその教育論:
私の英語論は余り大方の賛同を得ないのが一寸残念だが、ここでは週刊新潮の9月4日号には中々良い英語論があったのでその力を借りて論じる次第だ。
元の日本マイクロソフト社長・成毛真氏の連載のコラム「逆張りの思考」の書き出しは「日本人の9割には英語は要らないというのが私の持論だ。どれだけ一生懸命に英会話を身に付けても、ほとんどの人にとっては外国人と話すことはないからだ」となっている。私は9割以上賛成である。10割としないのは我が国の学校教育の英語では異常なほど高い読解力を付けているので、その点を不承不承評価しているからだ。
私は以前にも「日本人に英語力を身に付けることは不要であるし、意味不明な英会話の勉強などは全く無意味だ」と主張してきた。そして「W社リタイヤー後15年も経ったが、その間に有り余る英語力を抱えていても、街で外国人に道を尋ねられたことは3回だけ。私は外国人たちからは英語能力無しと見えるらしい」とも書いて、有り難いことに賛成して下さった方すらあった。因みに、今年でリタイヤー後20年を経たが「3回」は変わっていないのだ。
これまでに何度か「外国人に道を訊かれて答えられずに恥ずかしい思いをした。何とかして英会話の力を付けたい」というご意見を読み且つ聞いたことがあった。旧知の某有名私立大学のN教授はUKに出張された後に「道を尋ねたり買い物が出来ることが英語力ではないと痛感した」と述懐された。その通りである。
週刊新潮は48頁に“小学校3年からの「英語教育」で英語も国語もダメになる”との特集を掲載しているが、この内容も私の年来の主張とほぼ同じで、気分爽快な思いで一気に読み終えた。英語教育改革の少数派である私の「英語勉強法」をお読み頂いた方もおられると希望的な思いはあるが、私は中学校1年からと言うか、ある程度以上の国語の力がついてから、英語を勉強し始めても決して遅くないと主張し続けて来た。
音読と暗記の必要性も論じてきた。単語帳無用論も、英文和訳無用論も指摘してきた。Native speakerを有り難がる誤りも言い続けてきた。TOEIC重用も批判し続けた。ここまでに対して大方の不賛同を得てきたことを誇りにすら思っている。週刊新潮の特集記事もこれらの主張とほぼ同じだと都合良く?解釈している。まして「社内の公用語を英語に」などは論評にも値しないと思っている。
私は寧ろ今回の週刊新潮の記事などは遅きに失したとすら思っている。これまでの我が国の英語教育の輝かしくない成果を実際のビジネスの世界で20年以上も見聞というか経験してきたことから言っているのである。私の周囲におられる改革論者の先生方が、この記事で少しでも勢いをつけて下されば良いのだがとすら願っている。
その先生方の1人が私の英語を「支配階層の英語だ」と評された。その通りだと思う。W社とはそういう世界だったのだ。このご意見の意味は深いものがある。日本語でも育ちというか所属する集団によっても異なってくるものがあれば、方言も訛もある。そういう違いが英語にも当然のようにあるのだ。即ち、どの階層というか集団の英語を以て標準とするかが解らない方が「教えるべき、学ぶべき英語」を決めてはならないのだと思う。
より解りやすく言えば、UKにも階層があれば好ましくない訛も方言もある。英連邦を尊敬の余りにオーストラリアやニュージーランドの訛を真似て良いとは言えまい。アメリカでも南部訛を貶す人たちもいるのは確かだが、どれが南部訛かを聞き分けることを我が国の学校教えてくれるのだろうか。あり得ないのではないか。
私は一度ここ新宿の路上で英会話学校の教師になるために来たと嬉しそうに言った若いアメリカ人に「貴方は外国人に英語を教える資格を持ってきたのか。何処かでその方法を学んできたのか」と尋ねたことがあった。彼は「資格もなく経験もない」と言うので「それではほとんど犯罪的である。直ちに荷物を再度纏めて帰国せよ」と決め付けたら目を白黒させていた。手柄話をしているのではない。Native speaker何てこの程度だということだ。
彼には「日本人が英語を学ぶ際に何処でどの辺りで最も悩み苦しむのか承知しているか」とも質問したが、答えられなかった。私は39歳で初めてアメリカの本社に行った際に、コーヒーを出してくれる秘書に "How do you take it?" と尋ねられて「カップから飲むに決まっているではないか。何という質問か」と悩んだ。こんな事もろくにかも解らない者たちは多いだろう。その人たちにどうやって会話を教えるのかも知らないのがnative speakerだと認識していた方が良いかも知れない。
話が本題を逸れたが、英語とは何であるかの基礎を固めてから、各人の希望や目的によって進むべき方向を目指せるように英語を教えるべきであり、万人がペラペラになって道を教えられるようにしても、成毛氏が指摘されたように使い道がないだろう。週刊新潮が指摘したように、小学校から教えては英語嫌いをその段階から養成するような結果に終わるのではないかと真剣に危惧する次第だ。
私の英語論は余り大方の賛同を得ないのが一寸残念だが、ここでは週刊新潮の9月4日号には中々良い英語論があったのでその力を借りて論じる次第だ。
元の日本マイクロソフト社長・成毛真氏の連載のコラム「逆張りの思考」の書き出しは「日本人の9割には英語は要らないというのが私の持論だ。どれだけ一生懸命に英会話を身に付けても、ほとんどの人にとっては外国人と話すことはないからだ」となっている。私は9割以上賛成である。10割としないのは我が国の学校教育の英語では異常なほど高い読解力を付けているので、その点を不承不承評価しているからだ。
私は以前にも「日本人に英語力を身に付けることは不要であるし、意味不明な英会話の勉強などは全く無意味だ」と主張してきた。そして「W社リタイヤー後15年も経ったが、その間に有り余る英語力を抱えていても、街で外国人に道を尋ねられたことは3回だけ。私は外国人たちからは英語能力無しと見えるらしい」とも書いて、有り難いことに賛成して下さった方すらあった。因みに、今年でリタイヤー後20年を経たが「3回」は変わっていないのだ。
これまでに何度か「外国人に道を訊かれて答えられずに恥ずかしい思いをした。何とかして英会話の力を付けたい」というご意見を読み且つ聞いたことがあった。旧知の某有名私立大学のN教授はUKに出張された後に「道を尋ねたり買い物が出来ることが英語力ではないと痛感した」と述懐された。その通りである。
週刊新潮は48頁に“小学校3年からの「英語教育」で英語も国語もダメになる”との特集を掲載しているが、この内容も私の年来の主張とほぼ同じで、気分爽快な思いで一気に読み終えた。英語教育改革の少数派である私の「英語勉強法」をお読み頂いた方もおられると希望的な思いはあるが、私は中学校1年からと言うか、ある程度以上の国語の力がついてから、英語を勉強し始めても決して遅くないと主張し続けて来た。
音読と暗記の必要性も論じてきた。単語帳無用論も、英文和訳無用論も指摘してきた。Native speakerを有り難がる誤りも言い続けてきた。TOEIC重用も批判し続けた。ここまでに対して大方の不賛同を得てきたことを誇りにすら思っている。週刊新潮の特集記事もこれらの主張とほぼ同じだと都合良く?解釈している。まして「社内の公用語を英語に」などは論評にも値しないと思っている。
私は寧ろ今回の週刊新潮の記事などは遅きに失したとすら思っている。これまでの我が国の英語教育の輝かしくない成果を実際のビジネスの世界で20年以上も見聞というか経験してきたことから言っているのである。私の周囲におられる改革論者の先生方が、この記事で少しでも勢いをつけて下されば良いのだがとすら願っている。
その先生方の1人が私の英語を「支配階層の英語だ」と評された。その通りだと思う。W社とはそういう世界だったのだ。このご意見の意味は深いものがある。日本語でも育ちというか所属する集団によっても異なってくるものがあれば、方言も訛もある。そういう違いが英語にも当然のようにあるのだ。即ち、どの階層というか集団の英語を以て標準とするかが解らない方が「教えるべき、学ぶべき英語」を決めてはならないのだと思う。
より解りやすく言えば、UKにも階層があれば好ましくない訛も方言もある。英連邦を尊敬の余りにオーストラリアやニュージーランドの訛を真似て良いとは言えまい。アメリカでも南部訛を貶す人たちもいるのは確かだが、どれが南部訛かを聞き分けることを我が国の学校教えてくれるのだろうか。あり得ないのではないか。
私は一度ここ新宿の路上で英会話学校の教師になるために来たと嬉しそうに言った若いアメリカ人に「貴方は外国人に英語を教える資格を持ってきたのか。何処かでその方法を学んできたのか」と尋ねたことがあった。彼は「資格もなく経験もない」と言うので「それではほとんど犯罪的である。直ちに荷物を再度纏めて帰国せよ」と決め付けたら目を白黒させていた。手柄話をしているのではない。Native speaker何てこの程度だということだ。
彼には「日本人が英語を学ぶ際に何処でどの辺りで最も悩み苦しむのか承知しているか」とも質問したが、答えられなかった。私は39歳で初めてアメリカの本社に行った際に、コーヒーを出してくれる秘書に "How do you take it?" と尋ねられて「カップから飲むに決まっているではないか。何という質問か」と悩んだ。こんな事もろくにかも解らない者たちは多いだろう。その人たちにどうやって会話を教えるのかも知らないのがnative speakerだと認識していた方が良いかも知れない。
話が本題を逸れたが、英語とは何であるかの基礎を固めてから、各人の希望や目的によって進むべき方向を目指せるように英語を教えるべきであり、万人がペラペラになって道を教えられるようにしても、成毛氏が指摘されたように使い道がないだろう。週刊新潮が指摘したように、小学校から教えては英語嫌いをその段階から養成するような結果に終わるのではないかと真剣に危惧する次第だ。