新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月31日 その3 相模さま

2019-07-31 14:33:40 | コラム
相模様

お見舞い下さいまして、有り難う御座いました。

お懐かしゅう御座います。私もこの年齢に達しますと老化も手伝ってから方々が弱って参りました。実は昨年の第4四半期に知らぬ間に蓄膿症にかかって臭覚を失った世界に落ちておりました。ここで解った事は臭いが解らないと食べ物が不味くて食欲が落ちて体調も崩れるという事でした。

この蓄膿症が1月半ばで耳鼻咽喉科の医師に「治療終わり」と宣告された翌週から「顎関節症」が始まって苦しめられ、それが体重を落とす原因となって「耳管開放症」を誘発したのです。だが、体力そのものは衰えておらず、何とか過ごしてこられましたが、噛めない為に食べられなかった事が胃を小さくした模様で、悪循環に陥っておりました。その間にあっては自分が心筋梗塞を3度も経験した事など忘れてしまっておりました。現に心不全の度合いを示すBNPの数値などは未だに正常値の数十倍の100~200の間を彷徨っている状態です。それでも言わば鬱憤晴らしでブログの毎日更新に励んでおります。

今度とも宜しくご指導・ご鞭撻の程をお願い申し上げます。

真一文字拝

7月31日 その2 大和 勇様

2019-07-31 14:31:12 | コラム
大和 勇様

ご丁寧にお見舞い下さいまして、誠に有り難う御座いました。添付頂きました英語教育論も興味深く拝読親しました。そこで、何度かお読み頂いたかと思います、私の英語教育論をなるべく手短かに振り返ってみます。

私は物書きの真似事を始めましたのは1990年の春からでしたが、その頃の紙パルプ業界の専門誌に4年間連載致しましたエッセーが拙著「アメリカ人は英語がうまい」に掲載されておりました。その頃には「我が国の英語教育はあれでも良いのだ」としており、現在のように批判し改革すべしなどと余計な事は論じておりませんでした。それが1994年1月末でリタイアしてからは大っぴらに批判もするし改善すべしと言うように変わりました。

私の改革論の原点とも言うべき出来事は、何処で聞いたか今となっては記憶はありませんが、ある英語教育の討論会で「中学から大学までを含めれば8年も勉強しても話せるようにならないのは何故か」という質問に対して立ち上がった勇敢な女性の先生が「何を仰いますか。我々は英語を話せるようにしようとの目的で教えているのではありません。教科の一つとして生徒たちに5段階での優劣を付ける為に教えているのです」と答えたのには唸らされました、「全くその通りだろう」と。

私は「英語が良く解る事」や「英語をnative speakerのように話せる事」や「外国に行って働いても不自由しないで“I know how to express myself in English very well.”となる事」はごく一部の限られた人にとって必要なだけであると信じております。かく申す私は偶然の積み重ねでアメリカの会社に転進しました。そこでは英語が出来ることなどは査定の対象にはならない事で、そういう所を目指す人には最低限の必須の能力だと思っております。

何年前したか、政府の教育審議会だったかの委員の通産省のOBだった方が「小学校から英語を教えて国際人を云々」という発表をされたのを聞いた事がありました。終わった後で帰路が途中まで一緒だった元の新日鐵副社長のK氏が「万人に強制すべきことではないでしょう」と吐き出すように言われたので賛成した記憶があります。問題は「誰が何処を目指した何の為に英語を勉強するのか」だと思っております。私は我が国では英語を介在させずとも如何なる事でも学べる環境にある先進国だと思っております。

ここで告白しますと、アメリカ人の中に入ってあらためて「これは大変だ」と思い知った事がありました。それはアメリカのように厳然たる階級制度と言うかマスコミ的に言う「差別がある社会」では、国を支配するごく少数で構成された階層では言葉に対して極めて厳格であった事でした。我が国でも一部上場企業でもそういう点では厳格なものがあると承知しておりましたが、アメリカの厳しさというか煩さはそんなものではありませんでした。彼らアッパーミドル以上に属する人たちの厳格さはUKを凌ぐものがあると聞かされました。

私が転進した2社はそういう格式高い会社でしたので、それはそれは厳しいものがありました。それには何とか付いていけましたが、私は万人がそこを目指すような英語が出来るようになる必要などないとは思いますが、そうかと言って文法を無視し、綴りを間違え、“you know”を多発してしまうような語り方をしてしまっては、私がアメリカの全人口の5%もいないだろうと思う支配階層には相手にされないでしょう。だが、普通の日本人がそういう階層の人たちと膝つき合わせて語り合う機会が訪れる確率は限りなくゼロに近いでしょう。

ではあっても、そこかそこに近いとことを目指して勉強しておかないと、志を立てて留学するか駐在員で出ていった場合などには。彼らアメリカ人が口に出して言わないだけで「軽蔑される事は必定だ」と危惧します。簡単な例を挙げれば、夫婦揃ってMBAで共にコンサルティング事務所をやっていた知人と夕食をした際に奥方が「今日会った何とか氏は“Me, too.”という表現を使ったので幻滅した」と言い、夫は「そうか、彼がそんな言葉を使うとは」と言って嘆きました。そういう階層に住んでいる人たちが支配している国だと知って貰いたいのです。

だが、我が国に「アメリカとはそういう点が極めて厳格で、言葉遣いは言うに及ばず、文法も綴りも間違えてはならない世界があるのだ」と言って教えられる英語教師がどれほどいるでしょか。Swearwordとslangの区別が解っているでしょうか。また、native speakerが語るのを聞いて「アッパーミドルか、トランプ様の支持層であるプーアホワイト級かの判断が出来るのでしょうか。それに英連邦には独特のLondon cockneyに代表されるような訛りがあります。それだけに止まらず、慣用句もあれば口語体もあると心得ているか」という問題でしょう。

それですから、私は単語を覚えるのではなく「言葉の使い方は流れの中で覚えよう」と言って「音読・暗記・暗唱」で勉強しようと唱えているのです。そこに加えて必要な事は「真似をしよう」であって、彼らが使う表現を聞いて「なるほど。こういう時にはこう言えば良いのか」と記憶しておいて、「これはこういう時にこそ使おう」と思って、しまっておいた引き出しから出して使ってみる事でしょう。私にとっては英語は「獲得形質」ですから、現場にあっては「真似する事」は重要な要素でした。

何だか、教育論ではなくなって「英語の学び方論」になってしまいました。要するに自分からこういう風にやっていこうとすることが必要なのですが、周囲に真似をしても良いお手本が沢山ある事が進歩の重要な要素になります。という事は「自分からその気にならない事には前に進まない」とも言えるでしょう。こういうことを教えてくれる教師が沢山現ると良いのです。だが、現在の教え方を小学校にまで降ろしたのでは改革にはならないと危惧します。

真一文字拝

新国立競技場のスタンド

2019-07-31 08:00:09 | コラム
「何だかなー」の思いを禁じ得ない再度の変更:

僅か実質的に2日間我が家を離れていただけで、こうやってPCに向かってみて「はて、27日までは何をやっていたのだったか」とボンヤリしている。ボンヤリする為に休養に出掛けたのだったが、その間にほとんど新聞も何もろくに読まなかったが、何となく何処かでこの新国立競技場関連の記事を読んだ記憶があるのだ。さらに、往路で新国立劇場の横を通る首都高を走って「こんな大きな物を作って後はどうする気なのかな」と勝手に不安に思ったのだった。

そこで、その新国立競技場に関連する記事である。それは一旦は陸上競技のトラックをオリンピック終了後には潰して、そこにスタンを延ばすという決定はしたが、変更の費用が100億円もかかると判明して方針を変更してトラックを残す事に変わったというものだった。その理由は費用だけではなく運動競技以外に音楽等の催し物を開催する際にはトラックがあった方が良いという考えがあったという。「何処の何方が決定された再度の変更か知らないが、何を間抜けな事を言っているのかな」と言わざるを得ない。

私は以前から指摘して来た事で、旧競技場(霞ヶ丘何とか言うのが正式名称らしいが)はトラックが設置されていた為に、サッカーやフットボールの観戦に行くと、スタンドの下の方というか球技を観戦する時にピッチに近い席に座ると、ほぼ同一平面で観戦する事になって全体の動きが見えなくなるし、上の方に席に座るとサッカーその他が遙か彼方で球技が行われていて極めて見にくいのだった。何も国立だけに限った事ではないが、我が国では何故か競技場を作ると陸上競技のトラックを付けたがるのだ。作る方は球技系の競技が見に難くなる事は一切気にしていない様子なのだ。困った事だと何時も同志たちと嘆いていた。

私は何も陸上競技を軽視せよと言っているのではなく、フットボール系の球技を見に来られる方々の見やすさに少しは関心を持てと主張したいだけの事だ。もしも陸上競技のトラック種目に関して何か言っても良いとなれば言える事は「オリンピック級の規模のトラックの種目の競技が開催される頻度がどれほどあるかを考えよ」という事と、「それほど陸上競技が大事ならば、それ専用の競技場を建設すれば良いないか。観戦者の為のスタンドとトラックが近い物を作れば良いじゃないか。つい先頃まではマイナーだったラグビーはチャンと秩父宮ラグビー場を持っているように」と主張したいのだ。

今回は新国立競技場ではオリンピック終了後にトラックを廃止すると聞いたので、やれ嬉しやと思っていたところにこのニュースで、些か落胆させられたのだった。尤もこの歳になってあそこまで行って観戦する熱意も体力などもうないだろうが、陸上競技ようのトラックを残そうという方々の運動競技の観戦とは如何なるものかを知らない観戦者に配慮しない非常識振りが残念だと言いたいのだ。

またアメリカの話かと言われそうだが、アメリカに行って野球場でもフットボール専用の競技場にでも行って見たまえ。この急勾配のすランドでもしも足を踏み外したいすればそのままフィールドまで落ちていくかと怖くなるほどだ。あの新国立競技場の問題が起きた時に「設計者には一度でも良いからアメリカの競技場を見てきて欲しい」と言ったのは「アメリかでは観客の為の配慮が為されている」からである。尤も、DeNAが本拠地にしている横浜スタジアムのスタンドも上の方に上がれば、年老いた脚で上れば息が切れるほどの急勾配になっているがね。関係者が再検討されると良いのだがと願っている


7月28日 その2 休養の為休載します

2019-07-28 09:51:04 | コラム
静養します:

今朝ほどの「4位じゃ駄目なんですか」を以て30日まで休養します。理由は3度の心筋梗塞の後の2回の心不全による危機も入院治療で何とか生き延びましたが、未だ未だ新たな治療中の病もあってこの都内の猛暑を避けることにしました。治療中の病気とは1月からの「顎関節症」とそれの副産物である「耳管開放症」です。特に前者は確立された治療法がないとかで、毎日3度の顎と頬の筋肉の運動を続けねばなりません。細かいことは省きますが、前者の為に体重が10%減少したし耳がおかしくなりました。

これらには老化も負の貢献をしているかも知れないのも、辛いところです。先ずは取り急ぎお知らせまで。

4位じゃ駄目なんですか

2019-07-28 08:01:01 | コラム
マスコミよ、オリンピックの世界メダル獲得大会扱いを止めよ:

目下韓国の光州で開催されている世界水泳選手権で(記憶か観察が正しければ)我が国の代表選手が4位だった種目があった。だが、新聞テレビの扱いは「惜しかった」程度で世界で4番目になった立派な成績を称えようとはしなかったようだ。私は特にオリンピックとなると顕著になる報道機関の4位以下に終わった代表選手たちの扱いは極めて不適切であると思っている。特に酷いと思うのが選手団が帰国した際に空港か最寄りの場所で開催する「メダル獲得者」だけの記者会見だ。彼らは明確に「4位以下は駄目なんだ」という意思を表明している。

私は誠に無礼且つ非礼な扱いであると苦々しく思っている。代表選手たちは国内予選を勝ち抜く為に長い間懸命の努力を重ねて体力を鍛え、(きつく辛い)練習に耐えてきたのである。それでも世界は広く彼らの上回る実力の外国人選手が3人もいた為に4位乃至はそれ以下の成績に終わってしまったのだ。だが、それとても広い世界を相手にして堂々たる第4番目の成績に終わった実績は私は立派な成績であると評価すべきだと思っている。準決勝まで進出して敗れ、3位決定戦でも負けたら4位なのだが、準決勝まで出た事は偉業とまでは言わないが素晴らしいと褒めて然るべきだ。

私はそう考えているにも拘わらず、東京オリンピックまで後1年を切ったとなると、彼らは新JOC会長の柔道の山下泰裕氏に「金30個」と言わせてしまった。私はこのマスコミだけの傾向かどうか知らないが「オリンピックにおけるメダル獲得(=3以内の入賞)至上主義を甚だ好ましく思っていないのだ。興味がないので正確なことは言えないが、今や6位までを入賞として規定されていたと聞いた記憶がある。「広い世界でその種目で6位までに入っていたのは賞賛されて良い輝かしき成績だ」というのが持論である。

だが、我が国に各種の競技の上部団体とマスコミの間に蔓延している風潮では「メダルを獲らねば人に非ず」とでも言いたいのかと思わずにはいられない状況だ。「オリンピックには参加することに意義があると、ついこの間まで喧伝していたのは何処の何方か」と事改めて問いかけたくもなる。極論的かも知れないが「3位までに入賞しなければ人に非ず」というように思わせる風潮は好ましくないし、改める方が良いと思っている。

彼らはそう言いつつも世界的な大会で10以内に入れば代表に内定とか、マラソンのように常に「日本人1位」などという間抜けなことを言っている。ここに見せていることは、3位入賞が不可能だと承知していても「参加することに意義がある」という「メダル至上主義」との矛盾を隠そうともしない不可解というか、不統一なオリンピックに向けた姿勢である。愚かなことだと言いたくもなる。と、ここまで述べてきて、あらためて民主党政権下で「2番じゃ駄目なんですか」と曰った某大臣の迷言を思い出した。いや、あれはひょっとして至言だったのかも知れない。