新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月30日 その3 見事にシカト

2017-11-30 19:53:56 | コラム
週刊新潮があれほどハッキリと書いたのに:

「シカト」などと下品な言葉を使って失礼。本30日の各テレビ局の報道姿勢は見事とでもしか言いようがないものだった。いや、それよりも遙かに役者だったのが協会の理事会とやらで、未だに日馬富士が貴の岩の姿勢を正そうとしたなどと言っていた。

痩せたりと雖も週刊新潮はABC発表の17年度上半期の発行部数が24万7千部を超えていた。ということは、少なくともあの理事会が始まる頃には、何万人かはあの「貴乃花一門のガチンコ拒否」くらいは承知していたはずだ。それには彼らは触れようともせずに無視したのだった。

貴乃花が現役当時からそういう生真面目な力士だったということくらい、如何に相撲に無関心な私だって承知していた。その信念を弟子にも課していたと週刊新潮が言っているのだ。相撲協会には敬意すら表したくもなるし、そこを知ってか知らずにか、協会の顔を立てるマスコミも偉いと思うよ。

11月30日 その2 相撲を巡るマスコミの空騒ぎ

2017-11-30 13:02:04 | コラム
週刊誌しか書けない実態:

今週の週刊新潮が、遂に誰でもが一寸想像を逞しゅうすれば見えてくるだろうような事の実態で「モンゴル人力士たちが何をやっていたか」を、遂に記事にしました。これなどは、百も承知しているはずの新聞は書けないし、テレビ局だって真相を流せば大事になったでしょう。それを何も知らないような顔で、朝から晩まで大騒ぎ。マスコミは誠にお気楽でご苦労様な事です。これ以上を知りたければ、週刊新潮の12月7日号をお買い求め下さい。文責は新潮社ですが。

その首魁と言うべきか張本人の白鵬が千秋楽で「膿を出そう」と演説し、間抜けな八角(「発覚」という字も出てきますが)は関係がない力士を集めて暴力を止めようと説教。それを垂れ流すテレビ局です。これでは、何時まで経っても私の自律神経失調症が治らない訳です。


空騒ぎ

2017-11-30 09:12:38 | コラム
この騒動の間に静養していた不運を嘆く:

昨日の日馬富士の精一杯自己を正当化する引退記者会見でこのマスコミが盛り上げて来た大騒ぎが、野球にでも喩えれば1回の裏表が終わった程度だと思っている。と言うことは、この空騒ぎがこれから先もしたり顔で所謂「コメント」をする専門家だの元NHKアナウンサー(中でも抜群に偉そうなのが杉山某で、顔を見ただけでテレビを切るが)や協会べったりの元記者たちの顔をも見せられるということだ。「イヤなら見なきゃ良いじゃないか」と言われそうだが、その通りで見る気など更々ない。本稿にしたところで、そのウンザリに対する「鬱憤晴らし」なのだ。

彼らはこれ以外に時間をかけて採り上げるべき重要な時事問題があるだろう。この空騒ぎとDPRKが発射したICBMとどちらが大事なのかなどは論を待たないではないか。矢張り視聴者を愚弄しているのかと思ってしまう

何度か指摘してきたことだが、あれを報じている連中は「あの事件(なのだろう)の背景に何があって、何が貴乃花親方をしてあそこまで頑なであるかくらいは百も承知、いや「一万も承知」のはずであろうと私は信じている。しかしながら、彼らは「それを言っては、お仕舞いだ」なのだから、知らんふりをして連日連夜愚にもつかないことを連呼して移動中の日馬富士や貴乃花親方等の関係者を追い回しているだけで、時間と労力の浪費を繰り返す様だ。極言すれば、お国の恥にも等しいといわざるを得ない。

協会の無知と無力というか、一般社会の常識が余りにも欠如しているので、八角とやらが懸命になればなるほど喜劇的になる有様を見れば、あの八角を批判するのは寧ろ不当で、同情してやるべきだとすら思えてくる。歴史と伝統を誇る相撲を「興業」であるにも拘わらずスポーツであると錯覚している為に、スポーツ庁の鈴木大地長官に謝りに行ったところなどは将に漫画だった。いきなり長官に謝罪から入っていったが、長官はその台詞には全く無反応だったではないか。

余り個人の批判するのは本稿の趣旨ではないが、私はテレ朝が重用する池坊保子さんは疑問な点が多すぎると思う。女性らしき単純明快な論法でただひたすら貴乃花親方を批判し続けるのは聞き苦しい。あれでは協会の意図を帯しての事としか聞こえないのだが、案外に協会の本音だったのかも知れない。兎に角無意味で空疎な騒ぎで、テレビを見る時間を減らせるのが唯一の取り柄だ。


日本語のカタカナ語化批判

2017-11-29 18:29:42 | コラム
和製英語(=造語)とカタカナ語の恐ろしさ:

私は歴としたカタカナ語を排斥する論者であり、日本語を破壊する危険性が高いと思っている。それ故に、最早20年以上もの間あらゆる機会を捉えて英語もどきの造語も含めてカタカナ語の濫用と後から後から現れてくる新語とその使用というか濫用を戒めてきた。その言わば中間点として、2008年6月には21世紀パラダイム研究会では約100語を集めたプリゼンテーションを行っていた。そして渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」にはその時の発表を何回かに分けて投稿したし、現在のGooのブログにも何年か前に矢張り分割で掲載してきた。この作業は未完成で、今後とも継続していく所存である。

本稿はその辺りを昨年の11月28日に採り上げたものを加筆・訂正・一部削除して、更にその好ましからざる点を訴えていこうとするものだ。

排斥論者の弁:
私はカタカナ語が余りにも数多く日常的に日本語に登場するのが理解出来なかった。だが、よく観察してみると漢字・平仮名・片仮名・ローマ字とともに和製英語やカタカナ語が使われている日本語の表現が融通無碍であるという素晴らしさをあらためて見出した。それだけに止まらず、英語を主とした外国語を基にして新たな言葉を創造してきた先人と現代人の優れた知恵と我が国独特の展開能力を見る思いがするのだ。

このような言葉を「外来語」と呼んだり「和製英語」と称したりするようだが、その多くは既に日本語として戸籍を得てしまい、今更外国人登録をせよと迫るのは遅すぎるのである。「頂門の一針」誌上でこの問題を論じる機会を与えられた時にも、一部の読者からかなり厳しい反論および反対に出会ったものだった。即ち、「今更それを否定することはない。このまま日本語として使い続けよう」と主張する方が多かったのだ。

だが、しかし、私の論旨は「これらのカタカナ語を使うのは各人の好みと自由であり勝手であり、日常会話の中で使っても一向に構わないと思う。だが、その実態は純粋な日本製の言葉であり、英語とは全く無関係であるという認識だけは持っていて欲しい。それだけではなく、この種の言葉が英語ではそれと同じ意味で使われているなどと、誤解または誤認識なさらないように」という点にあるのだ。

私はこれらの言葉を英語(English)として見れば、全く別な事を意味する例が非常に多いことを知って貰いたかっただけである。迂闊に使ってしまえば意味が通じなくなる(カタカナ語にすれば「コミュニケーションがとれなくなる」とでも成るだろうか?)と弁えていて欲しいのだ。何故このような主張をするかと言えば、「言葉は耳から入った場合の影響が強いので、テレビなどに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に認知されるかあるいは尊敬されている人たちが、無意識に使うかあるいは誤用すると、一般人はそれを素直に受け止めて英語かと思って使ってしまう結果になる点を好ましくない」と考えているからである。

更にこの機会に、「何も知らずに使っているアナウンサーやスポーツ番組の解説者や、無知で無学な(失礼)テレビ・タレント(これも造語だが)たちの悪影響が最早無視できない段階に至っていることも言っておきたい」であった。その手っ取り早い例をいくつか挙げてみれば、サッカーなどで「降雨の後などでピッチが滑りやすくなってしまった状態」を「スリッピー」と言っているのは「スリッパリー→“slippery”」の誤りであるとか、“award”(=賞)を「アワード」と言っているようなものである。

そこで、先ずは「和製英語(=造語)とカタカナ語」の生い立ちを論ずることにする。そこには英語のように「表音文字」を使っている言語と、我が日本語のように漢字のような「表意文字」と「表音文字」のひらがなとカタカナも使っている日本語との間には歴とした違いがある点だ。そこに文法の違いが加わるので益々ややこしくなるある。さらに日本の学校教育で英語を科学として取り扱い、単語を覚えさせたがる教え方をすることもカタカナ語を産む原因の一つであると指摘しておきたい。それだけではない、「生徒を5段階で評価するために教えて、話せるようにすることはその目的ではない」とする教育方針もあることを申し添えておきたい。

私が現在と未来を通じて絶対避けたいこと、あってはならないことと考えているのが「カタカナ語の多用による日本語の表音文字化」なのである。しかし、現実には英語の単語をカタカナ表記あるいはローマ字式に発音して語り且つ使う人は増える一方なのだ。こういう言葉の使い方に依存する所謂有識者や文化人が多く、彼らはこういう語法に頼ることを衒っているとしか思えないので困る。簡単に言えば「日本式学校教育の英語の欠陥が現れて、難しい単語の知識が豊富であることのひけらかし」にしか見えないし、私にはいやみにしか聞こえないのだ。

私は表音文字の世界で読み書きせざるを得ない生活を続けたので解ったことは「英語とは困ったことに表音文字であり、一目見ただけでは直ちに完全に理解出来ないということ」だった。スペリングを目で追って、何を意味する言葉(単語?)か熟語か慣用句等であるかが解って、更に黙読を進めて文章全体を読んで初めて何を言っているかが解るという面倒な言葉なのだ。漢字がどれほど便利なのかはこうして再認識したものだった。

そうなのである。英語は表音文字の羅列である以上、文字の並び方を読み切って如何なる意味かを読み取っていかなければならないのであると同じことで、カタカナ語はその表音文字の言葉を便宜的にカタカナに置き換えたのであるから、そのカタカナ語をまた即座に元の英語に焼き直して考えるだけの英語力(能力?)を備えておかねば、日本語すら分からなくなって仕舞いかねない事態が何時かは生じるかも知れないと危惧しているのだ。

例えば、私は既に槍玉に挙げたが「コラボ」という言葉に先ず耳から接して「???」という思いにとらわれた。間もなく、それが“collaboration”=「合作、共同制作品」という単語の前半だけを取ったものだろうと察しがついた。しかし、Oxfordには先ず“the act of working with another person or group of people to create or produce ~”とある。これはかなり文語的な言葉で、恥ずかしながら私は使った記憶はないが聞いたことはある程度で、日常会話などには出てこない。それにも拘わらず、手もなくカタカナ語として使ってしまう制作者の語彙には敬意をすら表したくなる。

他にも、テレビ局が濫用するカタカナ語を挙げておくと、如何なる故障、事故、揉め事でも「トラブル」で括ってしまう使い方、「思い描くこと」なく「イメージ」とするだけに飽き足らず「イメージアップまたはダウン」としてしまうし、「アップ」と「ダウン」は英語の up も down も前置詞か副詞でありそういう使い方がないのも拘わらず「レベルアップまたはダウン」などと言ってしまう無神経さがある。こういう使い方をすると、表音文字かを推進するのみならず英語の勉強にも悪影響を与えているとは一向に気が付いていない辺りが怖い。

ここに指摘したように、偉そうに言えば私でさえ(?)如何なる意味だったかを思い出す必要があるようなカタカナ語化された英語を日常的に使うことが、英語を学ぼうとする人たちに対してどれほど貢献するのだろうか。カタカナ語化に「合作」か「共同制作」という漢字を使った熟語を排除するだけの意義や意味があるのだろうかと、テレビ局や新聞社に問いかけてみたいのだ。国語の破壊には成らないのだろうかともお伺いしてみたい。

主張したかったことは「表音文字の世界に居続ける為に必要なことは、与えられた文書を瞬間的に如何なる単語が使われているかを知って、前後の流れを把握し理解せよ」ということだったのだ。換言すれば、「表音文字の世界に馴れるのは容易ではなかった」のだった。しかも、表音文字でありながら、同じ単語でも前後の流れ次第では全く異なる使われ方をするので、ウッカリしていると意味を取り違える危険性もある。

ハングルのように漢字の使用を排除してしまえば「金正恩」の「キム」と「キムチ」の「キム」が同じ形だというのは困ったものだと思うのだ。英語にはこのような危険性は極めて少ないとは思うが、カタカナ語には基になっていただろう英語の単語を見つけ出してその意味を考えねばならないという厄介な問題がありはしないか。それは日本語の表音文字化の第一歩ではないかと恐れているのだ。

時々、私はカタカナ語を使いたくない為に英語のままで書きたいと思うことすらある。その例には忌み嫌っている「セキュアラテイー」であるべきはずの“security”を「セキュリティー」のようにカタカナ語化してしまった愚かな例がある。だが、私が試みていることは、所詮は無駄な抵抗で、私が目指している「セキュリティー」のような「原語に不忠実なカタカナ表記」の改革には容易に進展していかないのだと思っている。

私がW社に転身したばかりの頃に東京事務所にいたワシントン大学のMBAだった日系人J氏はは「日本語で話している時に、英語を英語の発音のままで入れるのは最低で最悪。日本にいる以上、矢張り日本式のカタカナ表記の発音で言うべきだ」と教えられた。これには賛成だ。だが、私は例え殺されても「セキュリティー」とは言いたくはないし、“the Major League”は絶対に「メジャーリーグ」ではないし、「自己ベスト」のような漢字交じりの合成語も嫌悪するものだ。私は日本語に和製英語(造語)のようなカタカナ語をこれ以上増やして表音文字化を進めるのには絶対に反対なのだ。



11月28日 その2 「奇跡のコーチ」

2017-11-28 11:04:44 | コラム
エディ-・ジョーンズHD:

言わずと知れた(かな?)前回のラグビーW杯で、我が国の代表の存在を世界に知らしめた監督さんである。ラグビー界ではHD、即ちヘッド・コーチと呼んでいるようだが英語の感覚からすれば、正解だと思う。英語には「監督」に当たる表現は無いと思う。

このジョーンズ氏がNHKのBSで掲題のような番組で、何処か知らないが高校のラグビー部を基礎から指導する番組を途中だけ見て「なるほど」と感銘を受けたので採り上げておく次第だ。彼は両親のどちらかが日本人と聞いた記憶があるが、指導は概ね日本語の部分だけ流れていた気がする。

私はラグビーを基礎から指導する場面に接したことがなかったので極めて印象的だった。彼は日本代表には極めて厳しい長時間の練習を課したと報じられていたが、この番組ではそういう気配は一切なく、極めて合理的に解りやすく基礎を教え且つ諭していた。その内容は基本技というか基礎はかくあるべきだと口で言って聞かせてから実行させるのだ。それを見守って褒めるべき時は褒め、駄目な時は練習を中止して全員を集めて「何処が悪かったか」をじっくりと言って聞かせる方式だった。私にも解るような説明だった。

それでも二軍の連中にはその通りに行かない場合が多く、時には「やる気がなければ、帰れ」とまで、比較的穏やかな口調で叱責していた。良いやり方だと聞こえた。兎に角、基本技が言われた通りに出来るようになるまで反復させた。これは当然であり何ら新鮮味はない。だが、この高校ではその点が等閑にされていたようで、基本が出来ていなかった点をジョーンズ氏が是正されていたかに見えた。

何でこんな当たり前の話を引っ張ってきたかと言えば、球技だろうと何だろうと、練習を繰り返して積み上げていくべきなのは基礎であり基本技なのだ。それら以外に何かがあるかと言って誤りではないのだ。私はそれを高校生の段階まで行ってから作り上げるか、作り直していくのでは一寸遅いと思っている。

ではあっても、あの高校が今後あのジョーンズ氏の指導された通りの練習を積み重ねれば、何時かは強く且つ上手くなっていけると思っている。基礎を築き上げておけば、必ずその上に高度な技を組み立てることが可能になるのだ。

因みに、我が湘南高校が昭和23年の国体の決勝戦で負けた時には、その準備として基本技の練習をこれでもかとばかりに繰り返していたものだった。しかも、上級生とOBの方々からはジョーンズ氏と同様に「如何にして基本の技を身につけるか」を極めて理論的に繰り返し繰り返し指導されたのだった。何だ、結局はこれが言いたかったのかも知れない。でも、基礎と基本技が重要なのだと知らせる良い番組だったと、ジョーンズ氏を起用したNHKを褒めておきたい。