新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月30日 その2 浦和対鹿島のJリーグ年間王者決定戦

2016-11-30 15:40:29 | コラム
遺恨試合かと思った感情的な試合運び:

昨夜は久しぶりにJリーグのサッカーをある程度の関心と興味を持って、浦和対鹿島の決勝戦の第1戦を観戦した。だが、途中で屡々BSフジのPrime Newsも見てしまった。これは決して詰まらない試合だったと言っているのではなく、浦和が幸運に近い判定によるPKを貰って先に点を取ってしまい勝負あったと判断したからである。

試合開始と同時に白いヴィジターのユニフォームを着た方が明らかに優勢であると見え、これで試合は決まりと閃いたので、後は白い方即ち浦和がどうやって勝ちに持っていくかに関心があったのだった。実は、さしたる具体的な根拠もなく、この両テイームが私の好みではないし、浦和のエースのような金崎夢生が先ず嫌いな部類だし、鹿島のキャプテンマークをつけていた小笠原満男という何処にやる気があるのか思わせる感じが好みではないように、好きな選手がいないのである。

結局両テイームともに決定力不足で上記のPK以外には決めきれずに、徒に時間ばかり経ってしまう試合だった。試合を見ていて感じた事は1年間の優勝テイームを決める大事な対戦だったので、双方ともに十分に気合いを込めてやっていたのは良かった。だが、私が常に例に取る昨年のアジア選手権のオーストラリア対韓国の一戦のように、両方がその気になって倒してやろうとばかりに真っ向から当たり合い潰し合うのではなく「勝ちたい一心で、何とかしよう」という心意気で無理矢理に感情的とすら見える当たり合いと、イエローカード覚悟の反則で止めに行くという、言わば「遺恨試合か」と疑うほどだったのは、少し残念だった。

確かに両方とも良く動きよく走って何とか攻めて行こう、身を挺しても守ろうという意欲と闘志は感じさせてくれたし、相手の裏を取る縦パス(現在では「スルーパス」と呼ばれている)を繰り返して蹴り込んではいたが、結局は一度も実らなかった。この辺りは寄せ集めの代表テイームよりも多少以上全員が良く合わせていたし、受け手の動きを止めてしまうパスも代表よりも少なかった。だがそこまでのことで、流れの中で1点も取れなかったのでは、代表の欠陥の元がここにあるのだと思わせてくれた。

昨夜の浦和の動き方とパス回しであれば、仮にあの単独テイームを代表と戦わせてみれば、何れが勝つのかは解らないのではないかという気がしてみていた。より厳しく批判すれば、先頃代表テイームを批判したように欧州勢と両テイームを比較すれば、動きながらのパス回しが少ないしスピード感にも未だ未だ乏しいのだった。

しかしながら、両テイームには遠藤航や柴崎や永木のような未だ伸びしろが残っている若手がいることでもあり、彼らが世代交代を目指して一層の研鑽を積んでくれれば、少しは先行きが明るくなるかも知れないのかと思っている。これが単なる希望的観測に終わらないで欲しいのだが。


我が国にも二分化の傾向が

2016-11-30 07:34:33 | コラム
YM氏と磯丸水産で語り合ったこと:

去る27日(日)にはYM氏と語り合った後に、彼が「夕食には一寸早いが」と断って向かったのが道玄坂の雑居ビル内にある磯丸水産だった。ここは基本的には魚料理店だと思うが、言わば大衆酒場のような趣で既に100店舗を展開している東証一部上場企業だと、帰宅後にWikipediaから教えて貰った。世の中も変わったもので、昭和一桁の私は上場会社と聞けば製造業、銀行証券会社、総合商社等を思い浮かべるが、現代にあっては「何でもありなんだ」と、あらためて痛感させられた。

この渋谷の店は中に入って見れば、かなり広い店内には日暮れ前にも拘わらず座敷もカウンターも大勢の若者で満席状態で大いに盛り上がっており、超後期高齢者の我々は掘りごたつ形式の座敷に漸く空席を見つけて座り込めたのは寧ろ幸運だったのではと語り合った。兎に角、見渡せば周囲は全て若者で溢れかえっており、その賑やかさには圧倒される思いだった。

そこで彼と語り合ったことは「二分化」であり、「近頃の若者は鋭敏な嗅覚でこのように廉価で飲食を楽しめる場所を捜し出しては大いに楽しむようだ。察するに比較的に低収入の層と、「こんな高級店に善くぞ若者が入ってくるものだ」と半ば感心し半ば呆れさせてくれるような余裕がある層に分かれているのではないのか」だった。更に、YM氏は「このような傾向は何も若者だけに限定されているのではなく、中年層にも認められるのではないのか」と言うのだった。

遺憾ながら、私は最早二分化の上層部の範疇に入るような店に行く機会が激減しているが、3年ほど前に訪れる機会があった銀座の高級寿司店にも上記のような見るからにブランド品で着飾った若い男女がいちゃつきながら寿司を楽しんだ後で、事も無げにAMEXのプラチナカードで支払っていったのを見せつけられ、家内とともに「こういう時代なのか」と感心させられたのだった。他には、以前から高級ホテルのレストランで豪遊する若い年齢層の者が増えてきたのを見てきていた。

また、高田馬場駅前通り(と言うのかな?)には11:30の開店前の10:30には若者が既に並んでいる東京都内の人気第1位と聞くとんかつ料理店がある。検索すれば、値段もその人気に相応しく高めだが、その時刻からも並ぶことを厭わない若者がいるというのも、高齢者である私にはどことなく違和感を覚えさせてくれる。彼らは既にして美食家であり、金に糸目をつけないで良いものを追う余裕を見せているのかと思ったものだった。

更に、つい先日新宿駅西口近くに最近進出してきた人気店と聞く京都の「牛カツ」料理店を家内とともに話のタネにと試してみた。牛カツは決して安くはない。驚いたことに店内は若い男女で満席に近く、我々夫婦はかなり場違いな存在として際立ってしまった。ここでの印象も「若い者たちは案外に余裕があり、スマートフォン以外にも出費出来るらしい」ということになった。思うに、彼らは二分化の上位に入る連中なのかも知れない

一方では、テレビの夕方のニュース番組の特集では屡々“ワンコイン”(=500円のことらしい)だの何のという低価格の昼食に群がる中年の会社員の様子を見せてくれる。若者が余裕たっぷりであるにも拘わらず、その資金源の親御さんたちかも知れない連中が低価格に惹かれているとは・・・・という感じもある。野党やマスコミが批判し続けるようにアベノミクスの成功も道半ばで企業は給与増額の余裕もなく可処分所得が増えない為に苦しんでいる層と、500円ランチなど見向きもしない層があると見える。

ここまでは経済的な二分化だが、安倍内閣の支持率が50%を超えていることが示すように、保守派と何かと言えば「強行採決」と内閣を批判することしか能がない民進党以下のリベラル派も言うなれば二分化の低層の範疇に入れて誤りではないだろうと思いたくなる。アメリカでもトランプ次期大統領の出現で明らかに二分化の傾向が顕著になってしまった。

安倍さんこのような二分化傾向を是として突き進まれるのか、それとも非として景気回復に一層の努力を集中されるのかに大いに関心がある。我が国にもアメリカほどではないが、比較的に少数の者たちに富が集中し始めている様子が見えて来つつあるのだが。

11月29日 その2 YM氏と語り合った #2

2016-11-29 13:20:56 | コラム
アメリカが心配だ:

昨日掲載したこの会談記が余り受けていなかったようだったので、かくてはならじとばかりに少しだけ手を加えて興味を持って頂けるようにして再度ご覧に入れますので、宜しくご一読賜りたく。

久し振りにYM氏と語り合った。彼の交際範囲にあるアメリカの人たちの多くはトランプ氏の当選を予測していなかったので、彼が正式に大統領に就任した後の展開が読みにくいと困惑している模様だとか。彼が見るアメリカ経済の現状は

「未だ未だ不安定で非正規雇用が増大する一方であり、既に40%にも達しているだけではなく、正規に職を得ている人たちも先行きの不安感に悩まされていると言える状態にある」

由。

彼は「アメリカでは当然の展開であるが、ICT化の普及というか進展はAIの類いの進歩を招き、結果的に人減らしの方向に進んで行ってしまった」と見ている。それでは雇用を減少させるICT化を推し進めAI等の研究開発を何故一層進めるのかとの疑問が生じるだろうが、それは企業としてはR&Dの部門を強化していかないことには、時代に遅れるだけだとの危機感があるからだと考えれば納得出来るのではないかと、彼は言うのだ。

また、雇用の問題では一般の企業が容易に増員に踏み切れない状況下では、州立等の四大卒とそれ以下の人たちが何処を目指せば良いのかということになる。そこには、これまでは軍隊があったが、そこにも今や安直に増員出来ないような国際情勢があると見られるのだそうだ。それに、3億2,000万人にまで膨れ上がった人口の中にはトランプ次期大統領が目の敵にしてきたヒスパニック系の他にも、アジアからの流入人口が多く、その連中が低層の白人たちの職を脅かしているという問題もある。(この点は同感だった)

彼は

「トランプ次期大統領は案外に自分が当選するとまでは本気で考えていなかったのではないか」

とすら疑っていると言う。そうでもなければ、あれほど気楽に?所謂暴言を連発してしまう訳がないとすら考えていると言うのだ。不動産業の分野で成功を収めた経験があるだから、経済にはある程度以上の具体的な政策を打ち出せるだろうが、その他の面では未だ彼の正体というか、実際に何をするかを予想しがたいと見ていた。

マスコミ報道では「トランプ次期大統領の「政権移行テイーム」の結成が遅れており、未だに固まっていないかの如きだ。だが、それは考えられないことで、どんなに遅くとも7月の候補に選ばれていた時点で着手していたはずだし、そうするのが常識である」と指摘していた。しかし、トランプ氏の登場によって最近声高に言われているように、明らかにアメリカが分化(divisionという言葉が使われているようだが)してきたようで、その先行きが懸念されるとも指摘していた。

それは、私が見る限りでも「リベラル対保守」であり「一定以上の富裕層対低層乃至は嘗てのマイノリティー」でもあるのだろう。




「アワード」って何だ?

2016-11-29 07:42:30 | コラム
「日本語の表音文字化を嫌う」ので「アワード」は許しがたい:

昨日、掲題の一文の中で、

<更にこの機会に、「何も知らずに使っているアナウンサーやスポーツ番組の解説者や、無知で無学な(失礼)テレビ・タレント(これも造語だろうと思うが)たちの悪影響が最早無視できない段階に至っていることも言っておきたい」であった。その手っ取り早い例"いくつか挙げてみれば、サッカーなどで「降雨の後などでピッチが滑りやすくなってしまった状態を「スリッピー」と言っているのは「スリッパリー→“slippery”」の誤りであるとか、“award”を「アワード」と言っているようなものである。>

と論じたばかりなのに、昨日のNPBの今年度の表彰選手関連の報道で、テレビでは司会者だったか誰か知らないが“award”を例によって例の如くに「アワード」と言い、産経新聞も「アワード」と表記した記事を堂々と載せていた。どのようなカタカナ語を誰が使おうとご勝手にと言ってきた以上、どうにもしようがないとは思う。だが、新聞社にもテレビのアナウンサーやプロデユーサーやデイレクターには問いかけてみたい「貴方たちは大学までの学校教育で如何なる英語を学んできたのですか。英和や英英の辞書を持っていないのですか」と。

普通に英語が教えられ、それをチャンと学んでいれば、“award”と書いて「アワード」となることなどあり得ないのだ。この正しい発音は「アウオード」である。辞書を引いてみろ。何度でも言うが、テレビと新聞でこのような誤った言葉を使えば罪なき一般の方々は「それで良いのだ」と誤認識してしまうだろう。

私は彼らマスコミは某通信社が作成する「ハンドブック」にでも「アワード」とでも規定されているので、それに素直に従っているのかと疑う。何故「アワード」はおかしいとは感じないのか。それとも辞書で発音記号を見たことはないのか。単語として覚えれば発音などどうでも良いのだとしか思っていないのかな。乃至は「そう言わないと(書かないと)」上司に叱られるのだろうか。中学校か小学校では先生が「アワード」としか教えていないのか。彼らは恥ずかしくないのだろうか。

「アワード」などはおかしな発音をするカタカナ語のほんの一例に過ぎない。何が嬉しくて奇妙カタカナ語表記をしてそれを「本当の英語ではこうなっているのだ」と一々翻訳して考えねばならないような余計な手間をかけねばならないような事態に追い込むのか。それだけではない「リニューアルオープン」のような言葉の選択も誤りであるだけではなく、文法的にも誤っているカタカナ語を恥じることなく使わせているような教育をしたことを、世の英語教師たちは何とも思わないのか。とても正常な感覚とは思えないのだ。

昨夜からテレビ報道がウンザリだったし、非常に腹立たしかったところに、産経新聞の堂々たる見出しの「アワード」で堪忍袋の緒が切れる」状態に陥った。そこでその腹立ちをここに纏めた次第だ。




日本語の表音文字化を憂うの弁

2016-11-28 17:48:18 | コラム
和製英語(=造語)とカタカナ語:

私はカタカナ語を排斥する論者であり、最早20年以上もの間あらゆる機会を捉えて英語擬きの造語も含めてカタカナ語の濫用と後から後から現れてくる新語とその使用というか濫用を戒めてきた。その言わば中間点として、2008年6月には21世紀パラダイム研究会では約100語を集めたプリゼンテーションを行っていた。そして渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」にはその発表文を何回かに分けて投稿したし、現在のGooのブログにも何年か前に矢張り分割で掲載してきた。この作業は未完成であり、今後とも継続していく所存である。

有り難いことに、Gooが知らせて下さるところではその分割した「和製英語(=造語)とカタカナ語」の数編を未だにお読み頂いている方がいて下さるようなので、ここにあらためてその書き出しである「排斥論者の弁」を加筆訂正して、カタカナ語の害毒(?)と日本語の表音かを憂うの弁を述べてみたい。

排斥論者の弁:

私はカタカナ語が余りにも数多く日常的に日本語に登場するのが理解出来なかった。だが、よく観察してみると漢字・平仮名・片仮名・ローマ字とともに和製英語やカタカナ語が使われている日本語の表現が融通無碍であるという素晴らしさをあらためて見出した。それだけに止まらず、英語を主とした外国語を基にして新たな言葉を創造してきた先人と現代人の優れた知恵と我が国独特の展開能力を見る思いがするのだ。

このような言葉を「外来語」と呼んだり「和製英語」と称したりするようだが、その多くは既に日本語として戸籍を得てしまい、今更外国人登録をせよと迫るのは遅すぎるのである。「頂門の一針」誌上でこの問題を論じる機会を与えられた時にも、一部の読者からかなり厳しい反論および反対に出会ったものだった。即ち、「今更それを否定することはない。このまま日本語として使い続けよう」と主張する方が多かった。

だが、しかし、私の論旨は「これらのカタカナ語を使うのは各人の好みと自由裁量であるし、日常会話の中で使っても一向に構わないと思う。だが、その実態は純粋な日本製の言葉であり、英語とは全く無関係であるという認識だけは持っていて欲しい。それだけではなく、この種の言葉が英語ではそれと同じ意味で使われているなどと誤解または誤認識なさらないように」という点にあるのだ。

私はこれらの言葉を英語(English)として見れば、全く別な事を意味する例が非常に多いことを知って貰いたかっただけである。迂闊に使ってしまえば意味が通じなくなる(カタカナ語にすれば「コミュニケーションがとれなくなる」とでも成るだろうか?)と弁えていて欲しいのだ。何故このような主張をするかと言えば、「言葉は耳から入った場合の影響が強いので、テレビなどに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に認知されるかあるいは尊敬されている人たちが、無意識に使うかあるいは誤用すると、一般人はそれを素直に受け止めて英語かと思って使ってしまう結果になる点を好ましくない」と考えているからである。

更にこの機会に、「何も知らずに使っているアナウンサーやスポーツ番組の解説者や、無知で無学な(失礼)テレビ・タレント(これも造語だろうと思うが)たちの悪影響が最早無視できない段階に至っていることも言っておきたい」であった。その手っ取り早い例をいくつか挙げてみれば、サッカーなどで「降雨の後などでピッチが滑りやすくなってしまった状態を「スリッピー」と言っているのは「スリッパリー→”slippery”」の誤りであるとか、”award”を「アワード」と言っているようなものである。

そこで、先ずは「和製英語(=造語)とカタカナ語」の生い立ちを論ずることにする。そこには英語のように「表音文字」を使っている言語と、我らの日本語のように漢字のような「表意文字」と「表音文字」のひらがなとカタカナも使っている日本語との間には歴とした違いがある点だ。そこに文法の違いが加わるので益々ややこしくなるある。さらに日本の学校教育で英語を科学として取り扱い、単語を覚えさせたがる教え方をすることもカタカナ語を産む原因の一つであると指摘しておきたい。それだけではない、「生徒を5段階で評価するために教えて、話せるようにすることはその目的ではない」とする教育方針もあることを申し添えておきたい。

私が現在と未来を通じて絶対避けたいこと、あってはならないことと考えているのが「カタカナ語の多用による日本語の表音文字化」なのである。しかし、現実には英語の単語をカタカナ表記あるいはローマ字式に発音して語り且つ使う人は増える一方なのだ。こういう言葉の使い方に依存する所謂有識者や文化人が多く、彼らはこういう語法に頼ることを衒っているとしか思えないので困る。簡単に言えば「日本式学校教育の英語の欠陥が現れて、難しい単語の知識が豊富であることのひけらかし」にしか見えないし、私にはいやみにしか聞こえないのだ。

私は表音文字の世界で読み書きせざるを得ない生活を続けたので解ったことは「英語とは困ったことに表音文字であり、一目見ただけでは直ちに完全に理解出来ないということ」だった。スペリングを目で追って、何を意味する言葉(単語?)か熟語か慣用句等であるかが解って、更に黙読を進めて文章全体を読んで初めて何を言っているかが解るという面倒な言葉なのだ。漢字がどれほど便利なのかはこうして再認識したものだった。

より具体的に言えば、アメリカの会社などに勤務して本部で頻繁に開催される会議に参加して、配付された資料をその場で一読して瞬時に内容を把握せねば、討論にも参加できず座っている意義がないことになるのだ。換言すれば、私のような外国人はそういうハンデイキャップを背負っているのだ。また、日常の業務でも本部の副社長、customer services、工場等から送られてくる書類を即座に理解し反応できなければ、仕事にならず使い物にならないのだった。

そうなのである。英語は表音文字の羅列である以上、文字の並び方を読み切って如何なる意味かを読み取っていかなければならないのであると同じことで、カタカナ語はその表音文字の言葉を便宜的にカタカナに置き換えたのであるから、そのカタカナ語をまた即座に元の英語に焼き直して考えるだけの英語力(能力?)を備えておかねば、日本語すら分からなくなって仕舞いかねない事態が何時かは生じるかも知れないと危惧しているのだ。

例えば、私は既に槍玉に挙げたが「コラボ」という言葉に先ず耳から接して「???」という思いにとらわれた。間もなく、それが”collaboration”=「合作、共同制作品」という単語の前半だけを取ったものだろうと察しがついた。しかし、Oxfordには先ず”the act of working with another person or group of people to create or produce ~”とある。これはかなり文語的な言葉で、恥ずかしながら私は使った記憶はないが聞いたことはある程度で、日常会話などには出てこない。それにも拘わらず、手もなくカタカナ語として使ってしまう制作者の語彙には敬意をすら表したくなる。

しかし、ここに指摘したように、偉そうに言えば私でさえ(?)如何なる意味だったかを思い出す必要があるような言葉を日常的に使うことが、英語を学ぼうとする人たちに対してどれほど貢献するのだろうか。カタカナ語化に「合作」か「共同制作」という漢字を使った熟語を排除するだけの意義や意味があるのだろうかと、テレビ局や新聞社に問いかけてみたいのだ。国語の破壊には成らないのだろうかともお伺いしてみたい。

主張したかったことは「表音文字の世界に居続ける為に必要なことは、与えられた文書を瞬間的に如何なる単語が使われているかを知って、前後の流れを把握し理解せよ」ということだったのだ。換言すれば、「表音文字の世界に馴れるのは容易ではなかった」のだった。しかも、表音文字でありながら、同じ単語でも前後の流れ次第では全く異なる使われ方をするので、ウッカリしていると意味を取り違える危険性もある。

ハングルのように漢字の使用を排除してしまえば「金正恩」の「キム」と「キムチ」の「キム」が同じ形だというのは困ったものだと思うのだ。英語にはこのような危険性は極めて少ないとは思うが、カタカナ語には基になっていただろう英語の単語を見つけ出してその意味を考えねばならないという厄介な問題がありはしないか。それは日本語の表音文字化の第一歩ではないかと恐れているのだ。

時々、私はカタカナ語を使いたくない為に英語のままで書きたいと思うことすらある。その例には忌み嫌っている「セキュアラテイー」であるべきはずの”security”を「セキュリティー」のようにカタカナ語化してしまった愚かな例がある。だが、私が試みていることは所詮は無駄な抵抗で、私が目指している「セキュリティー」のような「原語に不忠実なカタカナ表記」の改革には容易に進展していかないのだと思っている。

私がW社に転身したばかりの頃に東京事務所にいたワシントン大学のMBAだった日系人BJ氏はは「日本語で話している時に、英語を英語の発音のままで入れるのは最低で最悪。日本にいる以上、矢張り日本式のカタカナ表記の発音で言うべきだ」と教えられた。これには賛成だ。だが、私は死んでも「セキュリティ」とは言いたくはないし、”the Major League”は絶対に「メジャーリーグ」ではないし、「自己ベスト」のような漢字交じりの合成語も嫌悪するものだ。私は日本語に和製英語(造語)のようなカタカナ語をこれ以上増やして表音文字化を進めるのには絶対に反対なのだ。