新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

安倍総理とオバマ大統領の記者会見

2015-04-30 08:47:57 | コラム
内側からアメリカを見てきた経験から言えば:

この度のワシントンDCでの安倍総理とオバマ大統領の記者会見を聞いて(恐らく一部分だけが流れたと思うが)つくづく民主党政権下でと言うか、オバマ大統領の着任後にアメリカは弱くなったものだと、今更ながら痛感させられた。同時に情けないと嘆きたい思いもあった。昨29日夜のBSフジのPrime Newsでは藤崎一郎元駐米大使が、この度の総理の訪米を「嘗てない厚遇」と評していたが、私はそこにもアメリカの弱体化を見る思いがあった。

私は1972年夏から1994年1月末までアメリカの大手紙パルプ林産物メーカーの事業部の一員として日本に駐在し、アメリカのビジネスの精神と思想と哲学の下に、アメリカを内側から我が国を見てきたのだった。その立場から見るアメリカの企業の実態は、失礼を顧みずに言えば、「アメリカに駐在乃至は留学された方々が見てこられたものとはかなり異なったものである」と言えると信じている。

同時に私は我が国の会社では課長の端くれまでしか経験していなかったが、それなりに我が国の企業社会の文化を心得ていたので、アメリカ側の一員として活動する上に大いに役立ったと思っている。その約22年の経験と子供の頃から英語に慣れ親しんできたことから言えば、当時のアメリカは我が国を指導するべきたちがにあると思っているのか、あるいは相当程度意のままに動かせる系列会社の如くに見なしていたかの如き風潮があったと言える。

93年一杯の実質的な在職時に良く言ってきたことは「この世の流れを創り出しているのはアメリカであって、未だ残念ながら我が国はそこまでの地位を確立していない。しかも、アメリカで始まった新たな波は好むと好まざるとに拘わらず必ず我が国に及んできて、大きな影響を与えてしまうものだ」だった。換言すれば、アメリカ世界最大の経済大国であり、技術的にも最先端を行っていた国だったということになる

私がこれを言いながら何時も危惧していたことは「我が国には何時まで経っても米欧崇拝精神から離れられない人が多く、多少以上無批判に新しい流れに飛びついてしまう傾向が残っていること」だった。そのアメリカもクリントン政権が誕生した頃には、徐々にスーパーパワー的な要素が薄くなり、ジャパン・アズ・ナンバーワン等と煽てられるようになった反面「ジャパン・バッシング」だの「ジャパン・ナッシング」等とも言われ始めていた。

このアメリカの弱体化は”Yes, we can.”と”Change!”で売り出したオバマ大統領が出現してからリーマン・ショック等も影響して徐々に加速し、今日のような世界の警察官の役目を放棄した、中国に軽視され、ロシアを扱いかねて、中近東を一層混乱させ、挙げ句の果てにISILの如き無法集団を出現させてしまった弱いアメリカになってしまったのであると、私は見ている。

藤崎元大使が「厚遇」と形容されたことが表しているのがこの「弱くなったアメリカ」に他ならないと思う。現在の世界の情勢でオバマ大統領は何処か他国の指導者を肝胆相照らした間柄を確立されているだろうか。いや、ないだろう。私はこれまでに繰り返してオバマ大統領を批判してきたので、ここではそこに言及は避ける。だが、アメリカとオバマ大統領は真の意味の同盟国を必要とする重大な時に直面している。

それだからこその「厚遇であろう。私はあの記者会見でのオバマ大統領の語りを聞いていたが、演説が上手いとの俗説とは全く異なってほとんど顔を上げることなく原稿を読んでいたし、質問に答えた際の何を言いたいのかサッパリ解釈できない回りくどい表現を聞いて非常に失望させられた。後に出た安倍総理が明解に(日本語で)語られただけに対照的だった。

一般論だが、人は自信がない時ほど沢山言葉を使って長い時間しゃべって、何とか意志を伝えたがるものだが、それがかえって逆効果で焦点がぼけてしまうものだ。オバマ大統領はその典型的な例を示してしまっていた。しかも、彼が語った内容は言わば我が国と安倍総理を持ち上げるが如き感が濃厚で、私にはアメリカと民主党政権の弱体化をまざまざと見る思いだった。

私は以前からアメリカの民主党政権はクリントン大統領以来我が国に対して極めて冷淡で冷たい仕打ちが多かったと指摘してきたし、オバマ大統領の就任は我が国にとっては「悪いお知らせ」だと言ってきた。だが、事ここに至って今回の「厚遇」である。私はここで我が国はアメリカを見くびる必要など毛頭なく、同盟関係を一層強化して蔓延り続ける中国に真正面と裏面から対応していくべき時だと考えている。

だが、我が国には左寄りな反日的な勢力のみならず、彼等の回し者であるかの如きマスコミがいる。彼等は何かといえば「中国は世界第二の経済大国で、遠からずアメリカを抜いて最大の云々」などとほざく。だが、彼等は仮令中国の政治・経済とうの実態を承知していても、本当のことは言わないし言えないのだろう。

私は長い間紙パルプ産業界にいて、環境保護と維持の投資がどれほど巨額になるものか、環境問題論者の主張通りにすれば幾ら投資し改善してもそれは「帰ってこない投資」(リターンがない投資)に終わると承知している。中国はこれから紙パのみならずあらゆる産業界でこういう投資(インフラストラクチャーとでも言うか)をするべき状態である。

現時点で、中国経済にそれだけの負担に耐える力が備わっているのかは疑問ではないのか。しかも、その一方であれだけの予算を軍備に割いているのでは無理があるのではないのか。これは所謂有識者が挙って指摘されているではないか。

話しが本題から外れた。私は今こそアメリカの関係を強化しておくべき時だし、必要に応じてアメリカを陰に陽に支えて置かねばならないと思う。だが、1970年代に我が国のある大手メーカーに一家言ある取締役がこう言われた「アメリカそもそも我が国には及びもつかない力を持っている。一時期彼らが弱ったかに見えても無償で何らかの技術などを提供してまで援助するべきではない。我が国は何時までもお人好しでいるべきではない」を思い出す。

私は「止まない雨はないし、明けない夜はない」と信じている。アメリカが何時まで弱っている訳がないだろう。大統領が交替すれば華々しく復活してくるのではないだろうか。その時に備える手を安倍総理は着々と打っておられるものと考えている。

逆さの文化を克服せよ

2015-04-29 09:05:19 | コラム
ポールって誰のこと?:

好い加減に欧米人の氏名を表記する場合には、失礼に当たらないように名字だけにするかフル・ネームにするかを決めて、罪なきおかしな英語教育を受けた一部の国民皆様を惑わさないようにして貰いたいものだ。誰が惑わすのかって、マスコミにだ。必要とあれば、何れを表記したかを何処かで述べておけば事足りるのではないか。何れにせよ、”first name”での表記か呼称は願い下げたが。

昨日?ポール・マッカートニーの日本での最終公演があったと報じられている。しかし、私が気に入らないことがある。それはテレビ局と新聞によってこのUKの歌手の氏名の表記がバラバラという点だ。テレビでは圧倒的に「ポール」で、時に「ポールさん」というのがある。ごく偶にポール・マッカートニーと呼ぶことがあるがね。新聞でもポールとする方が多く、ポール・マッカートニーの方が少ない。

余談に近いがビートルズはUKでその功績を認められて”sir”の称号が与えられており、本来ならばマカートニー卿と呼ぶのが礼儀だと思う。また彼のフルネームは”Sir James Paul McCartney”であって、彼はミドル・ネームをニック・ネームに使っているのだ。故に、固いことを言えば、彼を「ポール呼ばわり」するのは私は余り褒めたことではないと危惧するのだ。失礼ではないかと言っているのだ。

こういう文化の違いを私がW社内で正式語り始めたのが1990年だった。そのプリゼンテーションの最初の1ページ目は「逆さの文化」=”Reversed culture”だった。そこに数多ある日米間の「逆さの文化」の一例として挙げたのが”First name first”対”Last name first” basisの違いだった。総理を例に採れば「安倍晋三」は英語表記では”Shinzo Abe”となるようなことだ。

この名字を先に表示する我が国の文化で育ってきた多くの方々は戦後70年後とでも言っておけば良いのだろうが、未だに欧米人の名前(誤った日本語では「下の名前」だが、今は横書きの時代だと言うことを忘れている)を先に表示し、名字(surname, family name, last name)を後にする文化に馴れていないようなのが残念だ。思うに学校教育での英語に至らざる点があるのだろうか。

解りやすく言えば、欧米人の名刺などにアルファベットで表記されている氏名で、先に出てくるのは名字(the last name)ではなく名前(first name)だということ。それだけではない、人によっては、そこにミドル・ネームかニック・ネームから始めている場合があると承知して置いて貰いたい。

余談になるが、私も「英会話」等というものをご指導申し上げたことがあったが、その際に名刺を交換した後にファースト・ネームが”Bill Clinton” 等とニック・ネームが表示されていたならば、確認のために”How may I call you, Bill or Mr. Clinton?”と尋ねておくと良いといっていたものだった。

しかし、我が国、特にマスコミの間では未だにこの”first name first basis”の文化に不馴れというか、我が国の文化と混同したままなのか、欧米人の氏名を記事にするか放送する時に混乱している。卑近な例を挙げれば故人となったマイケル・ジャクソンが適切だろう。ほとんどの場合彼は「マイケル」か「マイケルさん」で、「ジャクソン」か「ジャクソンさん」、「マイケル・ジャクソン」とされたのを見聞した記憶は1~2度ほどしかない。

私何度も「マイケル」としただけでは何処の誰とも特定しないと、ブログ上でも講演の際などに指摘して理由を解説したが、一向に効果はなかったようだ。即ち、アメリカだけでも「マイケル・ジョーダン」や「マイケル・ジョンソン」(=オリンピックで金メダルを取った陸上の走者)がいるではないか。尤も、この件を在米40年の人と語り合った際に「大体からしてマイケルが誤記だ。あれはマイクルだ」と言われたのには参った。正確にはその通りだから。

面白い混同の例を挙げておこう。我が国のレコード屋(今やCD屋でもなくなるかも知れないが?)では外国人アーティストをアルファベットで分類する際に”first name”になっていることだ。Jazzを例に挙げれば、往年の大名手”Miles Davis”は”M”に、”Winton Marsalis”は”W”に入っているのだ。ところが、嘗てロンドンでTower Recordに入って見ると、全部が”Last name basis”になっていた。当たり前か!

もう一つ「悲しき勘違い」という例を。エンジニアの”George Smith”(仮名)は我が国で配る名刺のカタカナ表記を何の迷いもなく「ジョージ・スミス」として置いた。彼は何年も日本に来ていたが、何処に行っても他人行儀に「ミスター・スミス」と呼びかけられ続け、ファースト・ネームで呼びかけてくれる打ち解けた関係が築けていないと不安だった。

ところが、馴染みの工場の新任の課長さんが彼の名刺を矯めつ眇めつ眺めた後で、何と喜ばしいことに「ジョージさん」と呼びかけてくれたのだった。彼は心秘かに喜んだ「やっと彼等の仲間とし認められたのだ」と。だが、私は課長さんの単なるカン違いだと思っていたが、敢えて折角喜んでいるジョージにはそうは言わないでおいた。後刻、課長さんに確認すると「えっつ、あの人はジョージが名字じゃなかったのですか」だった。

このような一見簡単なことが70年も経っても未だに理解出来ていないようでは、真の日米相互理解等は「大志」(ambitiousがこう訳されているので、引用しただけ)どころか、何時まで経っても「夢のまた夢」になりはしないかと、心中密かに危惧している。しかし、勿論「杞憂」に終わることを切望している。

4月28日(火)の冒険

2015-04-28 16:56:48 | コラム
3ヶ月と11日振りに理髪店に:

実は、この新宿住友ビル内の床屋さんに行くのは、去る25日に巣鴨まで墓参に行った以上に冒険だったかも知れない。色々と思案したあげくに11時に予約して、JR新大久保駅まで歩いてから新宿住友ビルまでも歩く経路を選択した。代替案にはバスでエレベータもエスカレータも完備している高田馬場駅に行くというのもあったが、敢えて南下して沢山陽に当たれる新大久保駅からに決めたのだった。10時15分に出発。

山手線内では新宿までたった一駅でも空席を見付けて座って周りを見渡すと、スマートフォンに向かっていないのは私だけで、少なくとも10人は下俯いて指を動かしていた。因みに、私の両脇の若者はゲームの如きものをやっていたようだった。私にはこの現象は亡国の兆しにしか見えないが、彼等にそう説いても歯牙にもかけて貰えないだろう。

新宿駅で階段を降りることになって、私の選択が誤っていたのに気付いた。即ち、駅まで10分も歩いてから階段を上って直ぐ電車に乗り、降りたかと思えばまた階段を下って西口の改札まで歩かねばならなかったのだ。これは未だ負担だったのだ。息は上がらないだろうが、足への負担が大きいのである。最近漸く解ってきたことだが、歩き始めると鳩尾辺りが痛むのは、胃ではなく腹筋が痛むらしいという点。

即ち、25日間の入院とその後の自宅療養中に腹筋が衰えて、一寸歩くだけでも痛んでしまうらしいのだ。確かに歩行の速度は退院後間もなくの頃よりは大分早くはなってきたが、従来と比べれば未だ60~70%程度であっても、腹筋は受け付けてくれる準備が整っていないらしいのだ。この衰えに気が付いて何となく悲しい気分になっているのだ。

そこで、住友ビルまでは反対側の地下道を走る都庁行きの循環バスを選択した。ところが、西口のロータリーのところに路上駐車したトラックのために、空のバスが曲がり切れずに不届きなトラックの運転者が走ってくるまで待たされてしまった。このバスに都庁第一庁舎まで乗って腹筋と足の痛みを癒やしていた次第。住友ビル到着が10時40分頃だったか。

前回散髪したのが1月17日。その時既に状態が思わしくなく翌日に入院したほどだったので、長年馴染みの理容師さんに「今日は大丈夫?」と確認されてしまった。そこで今日までの惨憺たる事情を説明している間に伸び放題だった髪も適当な長さに切られ、カミソリも宛てて貰ってどうやら少しは健康を取り戻したかに見える顔になっていた。

そこから先は綺麗にレノベィト(リニューアルではない、念のため)された西口までの地下道の動く歩道を利用してゆっくりとJRの駅の方向に。だが、途中で気が変わって小田急ハルクの地下の食品街に行くことにした。デパートに行くのも今年初めてで一寸だけ興奮する。このデパートも食品売り場だけは何時も混雑している。

そこを一回りして久闊を叙してから地上に出て、想定していなかった小滝橋通りを大久保駅前を通るバスに乗ることにした。この経路だとバスを降りてから我が家まで20分以上歩かねばならないが、その時間が絶好の日光浴だと考えた次第だ。天気も良く爽快な気分で歩ききって12時30分に帰宅。そうそう、途中で週刊新潮と文春のゴールデンウイーク特大号を購入していた。

結局2時間と15分の外出だったが、床屋さんにいた約40分ほどの間と電車とバスに乗って座っていた時間があったので、歩いた距離はそれほど変わらないと思うが、先日の墓参よりも疲労度は低かった。墓参の時もそうだったように外にいた間は飲まず食わずだったが、もうそろそろ外出時には脱水を防止するためにポカリスエットでも持参せねばなるまい。これはリハビリを監督する医師からも警告されていることだ。

さて、次は何処に行って足と腹筋を鍛えるべきかを思案中だ。これは絶対に必要なことだと信じている。唐突だが、一度だけ見て感心した根津神社の躑躅などは今月中は見頃だと聞いたが、家内にも見せて上げたい気もする。しかし、何となく私には似つかわしくないような感がある。矢張り新大久保駅前から新橋駅行きのバスを利用して昔から馴染んでいた銀座辺りが私にはあっているかなとも考えている・・・。


首相官邸の屋上にdroneが

2015-04-27 08:56:15 | コラム
不愉快極まりない事件だ:

私は戦後の総理大臣の中でも菅直人が群を抜いて最悪だと思っているし、個人的にも大嫌いな人物だ。彼が在任中に残した実績の中でも福島原発の破壊と要らざる「線量の恐怖」を振りまいたことが、我が国に思いもよらない悪影響を及ぼし、未だに後を引いている。即ち、「原発反対」を唱えることが善であり格好も良く、そのためには何をしても良い」というような流れを作りだしてしまったのだ。

私は「故に、その菅直人の悪影響がこの不愉快なdrone事件となって現れてしまった」と、些か極論的に解釈するのだ。痛恨の極みだ。

私は偉そうに菅直人を批判して見せたが、内心は忸怩たるものがある。それは「俺は民主党に入れて等いない」と言ってみても、あの政党を選び菅如きを首相にしてしまったのは、結果的には我々国民だったし自分もその国民であるのだと自覚はしている。

今回自ら名乗り出た独りよがりの山本泰雄なる者もその流れの中の一人で、英雄気取りで原発反対を唱えてdrone等を購入して、首相官邸を計画的に狙う等という暴挙に出たのだった。目下のところ彼山本が如何なる経歴で如何なる思想の持ち主かは解っていないが、左寄りの連中が唱える原発即廃止論に乗っかっているのは確かなところだろう。

しかしながら、私はテレビの画面で見たあの男のあの目つきには、同じ原発反対の山本でも、あの太郎よりも何らかの自前の信念を持っているかを感じさせる。その辺りに何となく無形の不気味さを感じた。

私は以前から唱えてきたことで、2030年までに原発を廃止するとの政策には取り立てて反対しないが、現在のように火力発電一本に依存してその為の化石燃料を輸入に依存し全国的に電気代というかエネルギーコストを上げて、貿易収支を悪化させる方針は到底支持できないのだ。しかも、何処かの裁判所には調子が狂った判事がいて原子力規制委員会の基準までを批判(否定?)してみせるにいったっては、菅直人の悪影響ここに極まれりとの絶望感すら味合わせてくれる。

私が指摘したいことは、「一見というか一聴格好が良い原発反対と廃止論の結果で、産業がコスト増に苦しめられ、国民が電気代の高騰に悩まされている現状が誠に芳しくない」という点である。だからこそ、原発反対論者は自ら届け出て、賛成論乃至は当面の原発支持者よりも高額の電気代を負担せよと言いたいほどの思いがある。

山本某の暴挙は如何なる点から考えても許されるものではないが、政府も与党もdroneを言わば野放しにしていた責任は取るべきであり、早急に制約するか制限する対策を講ずるべきである。しかしながら、既に産業面では建設的な用途が開発されている以上、産業界の意見も十分に採り入れる必要があるだろう。

総理にとっては色々と気を配らねばならない課題が山積しているだろうが、生活に与える影響が大きい電気代と直結する電力の問題には、自衛隊の海外派遣の法制化とは違って国民の生活に密着することなので、drone対策のみの案件と捉えることなく、粛々と進めて頂きたいものだ。

努力って何?

2015-04-26 09:30:52 | コラム
「努力できるのも運のうち」:

週刊新潮4月30日号の連載コラム「生き抜くヒント」で五木寛之氏が「努力できるのもうんのうち」と題して論じておられる中で、”ある世界的アスリートが「人生で成功する為に大事なことはなんだと思われますか」と問われて「99パーセントの努力と1パーセントの幸運」”と答えたとあった。如何にも尤もらしい答えのようだが、私には衒いが感じられた。

それは、私は「一定以上の水準にあるスポーツ選手ならば一所懸命にきつい練習や厳しい試合に励むのは当たり前のことであって、殊更に他人様に向かって言うことではない」と思っているから。「運」等というものは一所懸命にやった者が恵まれる性質であり、ただ座して待っていても運が向こうから流れてくることはないと信じている。努力してあれば、90%以上の確率で運が向いてくるものだとも考えている。

私は我が国では教訓的にも、学問の世界でも、企業の世界でも、学校の勉強でも、運動競技の分野でも、マスコミ論調でも「努力」は常に高い評価を受け、何かを志す者は努力するのが当然であると認識されていると思っている。それは五木氏が文中に引用されている「天賦の才」に恵まれていても、それだけでは如何なる分野に於いても真の意味での成功は容易に為し得ないものであると認識されているからだ。

私は「努力」の意義と価値を認めている方である。だが、努力とは「何かを目指して一所懸命に集中することであるが、それが人並みであれば多くの対抗者から抜け出すことはできないこと」だという風に解釈していた。そこで、ここで初めて広辞苑には何と出ているかを調べてみた。それは意外にもあっさりとしたもので「目標実現のため、身心を労してつとめること。ほねをおること」とあった。

そこで英語に目を転じて”effort”をOxfordで見ると”the physical or mental energy that you need to do ~. ~ that takes a lot of energy”とあった。”endeavour”(アメリカ式ではendeavor)にも似たような感覚があるのでWebsterを見ると、”a serious determined act”とあった。Oxfordは”an attempt to do ~, especially new or difficult”となっていた。ジーニアスには”effort”は「努力すること「しばしば~しようとすること;(精神的・肉体的な)努力」とある。前後したがWebsterの”effort”は”conscious exertion of power”とあって単純明快的だった。

何でここまで辞書の解釈を長々と論じてきたかといえば、私自身がここまでに並べててきたような努力をした記憶がないのだからいうのだ。高校までの勉強は「やらねばならないことである以上何とか人並みにはやっておかないと落後してしまう」との危機感があって好きでもないことをやっていただけで、それと同等程度の努力をサッカーの全国制覇を目指した練習に傾けていたとの事実があった。

1975年にW社に転じた後は事業部の高い目標として対日供給の弱小メーカーに過ぎなかった我が事業部を「対日供給の市場占有率(シェアーと言えばカタカナ語だ!)#1の座に持って行く」を掲げていたので、10年以上は大・中・小の規模の営業面と製品面(=品質問題と特化しても良いだろう)の艱難辛苦を与えられて、四苦八苦の日が続いた。

結局はこれらの全てを乗り越え、切り抜けて念願の#1サプライヤーの地位にのし上がったのだが、その間に数多くの困難な局面を乗り越えるために努力したという記憶は一切なかった。私を含めた事業部の副社長兼本部長以下は「ここを乗り越えれば必ずその先には我らの世界が待っている」との信念で事に当たっていただけだった。即ち事業部員として出来る限りのことを、その担当分野は言うに及ばず、時には同僚の担当を犯しても「何とかせねば」との思いだけで動いてきたのだった。

「努力をした」等と後になって他人に聞かせる為か、聞かせたいだけの台詞が言いたくて行動していた訳ではないと言えると思う。私は「自分の身(職)を守るためにも、ここでは出来る限りことを全てやっておこう、この難局にあっても何とかしてトンネルの先に灯りが見えるようにやっていこう」と考えていただけで、「努力しよう」という観念は全くなかった。「やる以外ないのだ」という思いだけだった。特別なことをするのではないのだ。

私は兎も角本社機構に中にいる連中は”Job security”が念頭を離れなかっただろう。それは個人としての職の安全も兎も角、自分がやるべきことをやっておかないでいれば、事業部そのものの存在の危機に発展しかねないこともあると認識しているのが、アメリカ式な”Job”の観念であると私は考えている。

五木寛之氏は「運」も採り上げておられたが、私は大恩ある日本の会社を辞めてアメリカの会社に転身するという「運」を受け止めて、その運を何とかしてでも活かして自分の道を切り開かねばならないと思って、馴れない環境と世界で懸命に行動しただけだった。その「運」を活かせるか活かせないかが「腕」であって、その「腕」は年月をかけて自分で養っていくしかなったのだと今でも考えている。

但し「運」は何時何処から如何なる形で向かって来るかは予測できないものであり、中には掴んではいけない運もある。そのどれを何時適確に掴むかは「運の良し悪し」もあるかと思うが、私の中学・高校の級友の1人は私が三度の心筋梗塞を乗り切れたのは「運が強いのだ」と言ってくれた。心筋梗塞から生き残れたのはお医者様のお陰だ。努力したためではない。