人生の終盤を飾らせてくれない年だった:
つい先日、日本の会社時代に知り合った60年以上の付き合いがある、紙流通業界の仲間(業界用語では「同業者」を意味する)と偶然に近所のホテルのレストランで出会って「お互いにノンビリと余生を過ごしたかったのにも拘わらず、今年は非常に残念な時でしたね。こんなマスク姿で握手も出来ないとは」と慰め合ったのだった。極端なことを言えば「2020年の回顧」はこれだけで言い尽くせていると思えるほど、楽しいことが本当に少なかったのだ。
*新型コロナウイルス:
厳密に言えばその大流行は今年の春頃からだったのだが、実感としては「昨年の12月には既に武漢では海鮮市場で妙なウイルスの感染が」と報道されていたので、年明けから未だに続いており、それへの対応というか、政府が発表する対策に振り回されてきたとしか思えないのだ。不思議でならないことは「我が国での感染者の実数と,それが国民全体に占める比率、死者の数等々が全世界の各国と比較して一桁も二桁も低いにも拘わらず、世論調査をすれば『政府の対策を評価しない』という人が『評価する』を上回っている」点なのだ。
私は常に西村康稔大臣の責任回避の姿勢を非難し専門家会議を隠れ蓑にして逃げる姿勢、小池都知事のスタンドプレーと政府への反抗的な態度を酷評してきた。だが、現実には国民は政府の「要請」しか出来ない制約を良く理解して、マスク着用とソーシャルデイスタンスを忠実に守り、不要不急の外出を控えてきた。私は政府の対策の評価云々よりも「要請されただけでも、自らの安全の確保に徹していた民度の高さ」を誇りに思って良い年だったと考えている。
しかしながら、9月に安倍前総理の退陣があって菅内閣が誕生したのだが、新内閣の方針が「ウイルスの征圧に徹するのか、景気の振興に注力するのか」の何れか一方に専心するのではなく、両方を実行していこうと目指していると見える方針が、年末の時点では「二兎を追う者は一兎をも得ず」と評しても良いような形になっている点が問題ではないのかと見ている。私は菅首相は「誰が何と言おうと、私は両方を追って成功させてみせるので、ご安心を」というくらいの見得を切っても良いのではないかと考えている。期待しよう。
*景気回復未だし:
私は実務の第一線を離れて既に26年も過ぎたので景気変動の実感に乏しい。だが、安倍政権が標榜された「アベノミクス」の目玉の一つだった「デフレ脱却」と「2%のインフレ」が一向に現実のものとならなかったのは大いに残念であると思う。その原因を私なりに思い切り割り切って言えば「内部留保ばかりに逃避している嫌いがあり、昇給に踏み切れない大企業の経営者たちの質の劣化」と「金余りで不況の中で株式投資に資金が回り、日銀が買いまくる為に生じた株高」があると思っている。
更に体感論を言えば「1億2,600万人の人口の中に占める高齢者の比率が25%を超えてしまった21世紀にあっては、内需が盛り上がらないのは当然だ」という点だ。現に超後期高齢者である私は過去数年間には病院と薬代のみが主たる出費であり、その他に買う物と言えば非耐久消費財の下着程度で、最早新規に何か買わねばならないという消費への意欲は極めて希薄なのだ。そこに折角10万円の給付金を頂戴しても、何処かにウイルス感染の危険を冒してまでも、消費しに出掛けるかとは思えないのだ。菅首相、ウイルス収束こそが景気回復への王道でしょう。
*外交問題:
我が国では安倍晋三前首相が残念ながら持病が悪化して退陣され、その安倍氏の「政治と外交面における無二の親友・トランプ大統領がどうやら退陣されるようになったのは、菅政権にとっては後難を恐れずに言えば「非常に厄介な事態になった」と思うのだ。菅首相が何処までバイデン大統領と親密になられるかは、来年になってからのことだろう。思うに,バイデン氏も同様に「如何に対応すべきか」に悩む時が来るだろうと思う。敢えて我田引水式に言えば「外国人が何を考えているか」などは、通訳を介していれば余程慣れていても読み切れるものではないのだ。
中国との関係はもっと厄介だと思う。特に「習近平の国賓待遇の招待」が有耶無耶な形になってしまったことなどは,その処理は極めて難しい案件だと思う。私は習近平政権になってからの中国の露骨な我が国を思うがままに操ろうというか、属国化まで企んでいると聞かされては、余程しっかりと腹を決めて付き合っていかないことには、我が国をアメリカから切り離して行こうという策略に翻弄される気がしてならない。そこで気懸かりなことは、バイデン政権が何処まで我が国を支える手を打ってくれるかだ。民主党政権の誕生がこのような懸念材料になってしまった。
*スポーツの世界に変化の兆し:
この件は後難を恐れて広義に考えれば「人種」ということが絡んでくる事かと思う。これでは何のことが不明だが、解りやすく言おうと思えば「我が国の世界的水準にある、世界で通用する選手たちには昨年辺りからアフリカ系日本人選手たちの台頭が著しい」という点である。アメリカのプロバスケットボール界のNBAでは八村塁君が目覚ましい活躍を見せてくれたし、テニス界で世界の2大タイトルを大坂なおみさんが獲得した。100 mの日本記録を樹立したのはサニブラウン・ハキーム君だった。
オリンピックが延期となったので、未だ世界の舞台にその存在を見せていない選手たちは他にも数多く出番を待っている。例えば、先日仙台大学附属明成高校が優勝したバスケットボールには優れた将来有望なアフリカ系の選手が2名いた。女子の日本選手権で惜しくもENEOSに敗れたトヨタ自動車には、姉妹のアフリカ系の親を持つ凄い選手がいた。
*結び:
思うに、2020年という年は新型コロナウイルスの広範囲での感染によって、我が国も世界も大きく変わらざるを得ないような方向に舵を切らされた時だったと思うのだ。しかも、その切り替える方向をどちらに採るかで、一国の将来が大きく変えられてしまうと危惧するのだ。近頃「断捨離」などと言う言葉が流行っているが「何を採り、何を捨てるか、または何に将来を託するべきか」の判断を迫られると予告した年だった思っている。
つい先日、日本の会社時代に知り合った60年以上の付き合いがある、紙流通業界の仲間(業界用語では「同業者」を意味する)と偶然に近所のホテルのレストランで出会って「お互いにノンビリと余生を過ごしたかったのにも拘わらず、今年は非常に残念な時でしたね。こんなマスク姿で握手も出来ないとは」と慰め合ったのだった。極端なことを言えば「2020年の回顧」はこれだけで言い尽くせていると思えるほど、楽しいことが本当に少なかったのだ。
*新型コロナウイルス:
厳密に言えばその大流行は今年の春頃からだったのだが、実感としては「昨年の12月には既に武漢では海鮮市場で妙なウイルスの感染が」と報道されていたので、年明けから未だに続いており、それへの対応というか、政府が発表する対策に振り回されてきたとしか思えないのだ。不思議でならないことは「我が国での感染者の実数と,それが国民全体に占める比率、死者の数等々が全世界の各国と比較して一桁も二桁も低いにも拘わらず、世論調査をすれば『政府の対策を評価しない』という人が『評価する』を上回っている」点なのだ。
私は常に西村康稔大臣の責任回避の姿勢を非難し専門家会議を隠れ蓑にして逃げる姿勢、小池都知事のスタンドプレーと政府への反抗的な態度を酷評してきた。だが、現実には国民は政府の「要請」しか出来ない制約を良く理解して、マスク着用とソーシャルデイスタンスを忠実に守り、不要不急の外出を控えてきた。私は政府の対策の評価云々よりも「要請されただけでも、自らの安全の確保に徹していた民度の高さ」を誇りに思って良い年だったと考えている。
しかしながら、9月に安倍前総理の退陣があって菅内閣が誕生したのだが、新内閣の方針が「ウイルスの征圧に徹するのか、景気の振興に注力するのか」の何れか一方に専心するのではなく、両方を実行していこうと目指していると見える方針が、年末の時点では「二兎を追う者は一兎をも得ず」と評しても良いような形になっている点が問題ではないのかと見ている。私は菅首相は「誰が何と言おうと、私は両方を追って成功させてみせるので、ご安心を」というくらいの見得を切っても良いのではないかと考えている。期待しよう。
*景気回復未だし:
私は実務の第一線を離れて既に26年も過ぎたので景気変動の実感に乏しい。だが、安倍政権が標榜された「アベノミクス」の目玉の一つだった「デフレ脱却」と「2%のインフレ」が一向に現実のものとならなかったのは大いに残念であると思う。その原因を私なりに思い切り割り切って言えば「内部留保ばかりに逃避している嫌いがあり、昇給に踏み切れない大企業の経営者たちの質の劣化」と「金余りで不況の中で株式投資に資金が回り、日銀が買いまくる為に生じた株高」があると思っている。
更に体感論を言えば「1億2,600万人の人口の中に占める高齢者の比率が25%を超えてしまった21世紀にあっては、内需が盛り上がらないのは当然だ」という点だ。現に超後期高齢者である私は過去数年間には病院と薬代のみが主たる出費であり、その他に買う物と言えば非耐久消費財の下着程度で、最早新規に何か買わねばならないという消費への意欲は極めて希薄なのだ。そこに折角10万円の給付金を頂戴しても、何処かにウイルス感染の危険を冒してまでも、消費しに出掛けるかとは思えないのだ。菅首相、ウイルス収束こそが景気回復への王道でしょう。
*外交問題:
我が国では安倍晋三前首相が残念ながら持病が悪化して退陣され、その安倍氏の「政治と外交面における無二の親友・トランプ大統領がどうやら退陣されるようになったのは、菅政権にとっては後難を恐れずに言えば「非常に厄介な事態になった」と思うのだ。菅首相が何処までバイデン大統領と親密になられるかは、来年になってからのことだろう。思うに,バイデン氏も同様に「如何に対応すべきか」に悩む時が来るだろうと思う。敢えて我田引水式に言えば「外国人が何を考えているか」などは、通訳を介していれば余程慣れていても読み切れるものではないのだ。
中国との関係はもっと厄介だと思う。特に「習近平の国賓待遇の招待」が有耶無耶な形になってしまったことなどは,その処理は極めて難しい案件だと思う。私は習近平政権になってからの中国の露骨な我が国を思うがままに操ろうというか、属国化まで企んでいると聞かされては、余程しっかりと腹を決めて付き合っていかないことには、我が国をアメリカから切り離して行こうという策略に翻弄される気がしてならない。そこで気懸かりなことは、バイデン政権が何処まで我が国を支える手を打ってくれるかだ。民主党政権の誕生がこのような懸念材料になってしまった。
*スポーツの世界に変化の兆し:
この件は後難を恐れて広義に考えれば「人種」ということが絡んでくる事かと思う。これでは何のことが不明だが、解りやすく言おうと思えば「我が国の世界的水準にある、世界で通用する選手たちには昨年辺りからアフリカ系日本人選手たちの台頭が著しい」という点である。アメリカのプロバスケットボール界のNBAでは八村塁君が目覚ましい活躍を見せてくれたし、テニス界で世界の2大タイトルを大坂なおみさんが獲得した。100 mの日本記録を樹立したのはサニブラウン・ハキーム君だった。
オリンピックが延期となったので、未だ世界の舞台にその存在を見せていない選手たちは他にも数多く出番を待っている。例えば、先日仙台大学附属明成高校が優勝したバスケットボールには優れた将来有望なアフリカ系の選手が2名いた。女子の日本選手権で惜しくもENEOSに敗れたトヨタ自動車には、姉妹のアフリカ系の親を持つ凄い選手がいた。
*結び:
思うに、2020年という年は新型コロナウイルスの広範囲での感染によって、我が国も世界も大きく変わらざるを得ないような方向に舵を切らされた時だったと思うのだ。しかも、その切り替える方向をどちらに採るかで、一国の将来が大きく変えられてしまうと危惧するのだ。近頃「断捨離」などと言う言葉が流行っているが「何を採り、何を捨てるか、または何に将来を託するべきか」の判断を迫られると予告した年だった思っている。