創業者の意地と同族経営を考える:
本筋を離れて一寸迂遠なところから入っていくので、暫くお付き合いのほどを。ここを言っておかないと、大塚会長のあれほどの執着振りの説明がつかないので。彼は時代に置いて行かれたのかと少しは思っているだろうが、それを認めてしまうと自分の歴史が崩壊するとでも危惧しているのではないのかな。
私の出発点は1955年から我が国の紙流通機構、即ち、当時の名称が府県商で現在の卸商であり、具体的に言えば紙と板紙の二次販売店を一販売店(=代理店)で担当することから始まった。これでも未だ話しの具体性がないだろうから、もう少し解りやすくすれば、街に今でも見かける「~洋紙店」か「~紙商事」というような看板を掲げている販売店のことである。
これらの卸商さんたちは紙類の末端(即ち、印刷や加工等の需要者)にメーカーの代理店(=一次販売店)から仕入れて小口で販売していくのであって、言うなれば商事行為を担当する機構の最終需要家に隣接する組織である。
これらの卸商さんたちの多くは「個人経営」、「同族経営」、「丁稚奉公から初めて独立を果たしたオヤジの店」、「立志伝中のやり手の店」であり、悪い表現かも知れないが所謂「お店」が多く、創業者、即ち「オヤジ」が絶対の権限を持って、彼が今日自らの店をここまで育ててきた手法での経営を、努力を、我慢を、辛さに耐えることを社員(店員)に求めて、昼夜を分かたず懸命に働かせるような傾向するあった。
そして、こういう辛さや苦しさに耐えて、一人前の営業マン(古き業界用語では「外交」などと呼ばれた)に育っていくし、その先には暖簾分けもあれば長年好い関係を維持した得意先の支持を得て独立していく者なども出てきた。こういう風習が戦前は言うにも及ばず、大正時代からの歴史がある世界だったのである。その伝統は昭和までは残っていた。
かく申す私が、そういう世界を1972年に離れてアメリカの会社(何度もお断りしたが所謂外資系ではない)に転身し、1994年1月末でリタイヤーした後は、その日米両方の仕事の世界で過ごした経験を踏まえて、各方面から色々な仕事をさせて頂いてきた。有り難いことだったと未だに感謝あるのみだ。「日米企業社会における文化と思考体系の違い」などは何度も繰り返し語る場を与えられただけではなく、書いて発表の機会も得た。
それと大塚家具と何の関係があるのかとお尋ねか。私は大いにあると思っているから導入部にしたのだ。私はこれまでに何度も「ICT化が進みたいだけ進んだこの世の変化は、余りにも大きくて早い。我々如き高齢者がついていけない時代だ」と指摘してしてきた。今や「何でもありの時代」で「如何なるもので作ろうと思えば出来る時代」なのだ。昭和一桁の常識では計りきれない時代だと知るべき時なのだ。
だが、高齢化すればするほど「そういう世の中の大きくて早い変化見えなくなるし、また理解する幅がなくなってくるもの」なのだ。さらに、自分の経験からも言えるのだが、自分が唱えている理論(とは言っても大半は時代遅れの経験談か経験した例に過ぎないのだが)を「俺は時代を超越する何と言う素晴らしいことを言っているのだろう」という、現代人から見れば単なる時代遅れの自己陶酔に過ぎないことを「金科玉条」の如くに言いたくなるものなのだ。
一旦この老化現象の迷路に踏み込むと、余程の何か驚天動地のような出来事に出会って自分の時代遅れに気付かない限り、「自己陶酔」が続き「今時の若者に何が解る」という頑迷さから抜けきれなくなるのだ。自分がこれまでに70年以上もかけて築いてきたものが40歳やそこらの若者に否定されてなるものかと思い込むのは普通だろう。だが、そこから「時代に負けた」と悟れるまでには大変な苦労が必要だろう。必要だったがね。
私はPCを玩具のように使い回す愚息たちの様子を見て「そんなことまで出来るのか」と知った時に「時代の変化に敗れ去った」と痛感した。時代は明らかに彼等とそれ以下の世代に移ったのだと知った。私には家具業界のことを語る知識はない。だが、長年の経験に固執する大塚会長の気持ちは解る。また、長女の大塚社長の主張もそうだろうかなとは思わせてくれる。だが、「関係ないよ。どうぞご勝手に」と言いたい。
問題は例によってマスコミにあり、内紛を面白かしく報じているだけで、時代とこの世の変化と同族会社とはそも如何なるものかであるとか、創業者の信じる経験が絶対という心理状態と、時代と客観情勢の変化を受け入れたくないかのように固まってしまっている考え方の分析の一つも出来ていないのでは、単なる騒がしいゴシップ報道である。もう好い加減にして欲しいと言ってやりたい。
本筋を離れて一寸迂遠なところから入っていくので、暫くお付き合いのほどを。ここを言っておかないと、大塚会長のあれほどの執着振りの説明がつかないので。彼は時代に置いて行かれたのかと少しは思っているだろうが、それを認めてしまうと自分の歴史が崩壊するとでも危惧しているのではないのかな。
私の出発点は1955年から我が国の紙流通機構、即ち、当時の名称が府県商で現在の卸商であり、具体的に言えば紙と板紙の二次販売店を一販売店(=代理店)で担当することから始まった。これでも未だ話しの具体性がないだろうから、もう少し解りやすくすれば、街に今でも見かける「~洋紙店」か「~紙商事」というような看板を掲げている販売店のことである。
これらの卸商さんたちは紙類の末端(即ち、印刷や加工等の需要者)にメーカーの代理店(=一次販売店)から仕入れて小口で販売していくのであって、言うなれば商事行為を担当する機構の最終需要家に隣接する組織である。
これらの卸商さんたちの多くは「個人経営」、「同族経営」、「丁稚奉公から初めて独立を果たしたオヤジの店」、「立志伝中のやり手の店」であり、悪い表現かも知れないが所謂「お店」が多く、創業者、即ち「オヤジ」が絶対の権限を持って、彼が今日自らの店をここまで育ててきた手法での経営を、努力を、我慢を、辛さに耐えることを社員(店員)に求めて、昼夜を分かたず懸命に働かせるような傾向するあった。
そして、こういう辛さや苦しさに耐えて、一人前の営業マン(古き業界用語では「外交」などと呼ばれた)に育っていくし、その先には暖簾分けもあれば長年好い関係を維持した得意先の支持を得て独立していく者なども出てきた。こういう風習が戦前は言うにも及ばず、大正時代からの歴史がある世界だったのである。その伝統は昭和までは残っていた。
かく申す私が、そういう世界を1972年に離れてアメリカの会社(何度もお断りしたが所謂外資系ではない)に転身し、1994年1月末でリタイヤーした後は、その日米両方の仕事の世界で過ごした経験を踏まえて、各方面から色々な仕事をさせて頂いてきた。有り難いことだったと未だに感謝あるのみだ。「日米企業社会における文化と思考体系の違い」などは何度も繰り返し語る場を与えられただけではなく、書いて発表の機会も得た。
それと大塚家具と何の関係があるのかとお尋ねか。私は大いにあると思っているから導入部にしたのだ。私はこれまでに何度も「ICT化が進みたいだけ進んだこの世の変化は、余りにも大きくて早い。我々如き高齢者がついていけない時代だ」と指摘してしてきた。今や「何でもありの時代」で「如何なるもので作ろうと思えば出来る時代」なのだ。昭和一桁の常識では計りきれない時代だと知るべき時なのだ。
だが、高齢化すればするほど「そういう世の中の大きくて早い変化見えなくなるし、また理解する幅がなくなってくるもの」なのだ。さらに、自分の経験からも言えるのだが、自分が唱えている理論(とは言っても大半は時代遅れの経験談か経験した例に過ぎないのだが)を「俺は時代を超越する何と言う素晴らしいことを言っているのだろう」という、現代人から見れば単なる時代遅れの自己陶酔に過ぎないことを「金科玉条」の如くに言いたくなるものなのだ。
一旦この老化現象の迷路に踏み込むと、余程の何か驚天動地のような出来事に出会って自分の時代遅れに気付かない限り、「自己陶酔」が続き「今時の若者に何が解る」という頑迷さから抜けきれなくなるのだ。自分がこれまでに70年以上もかけて築いてきたものが40歳やそこらの若者に否定されてなるものかと思い込むのは普通だろう。だが、そこから「時代に負けた」と悟れるまでには大変な苦労が必要だろう。必要だったがね。
私はPCを玩具のように使い回す愚息たちの様子を見て「そんなことまで出来るのか」と知った時に「時代の変化に敗れ去った」と痛感した。時代は明らかに彼等とそれ以下の世代に移ったのだと知った。私には家具業界のことを語る知識はない。だが、長年の経験に固執する大塚会長の気持ちは解る。また、長女の大塚社長の主張もそうだろうかなとは思わせてくれる。だが、「関係ないよ。どうぞご勝手に」と言いたい。
問題は例によってマスコミにあり、内紛を面白かしく報じているだけで、時代とこの世の変化と同族会社とはそも如何なるものかであるとか、創業者の信じる経験が絶対という心理状態と、時代と客観情勢の変化を受け入れたくないかのように固まってしまっている考え方の分析の一つも出来ていないのでは、単なる騒がしいゴシップ報道である。もう好い加減にして欲しいと言ってやりたい。