1月は記念日が多かった:
先ずは、本31日はWeyerhaeuser Japan Ltd.(アメリカのWeyerhaeuser Companyの日本法人)を1994年にリタイアーして満25年の記念日だ。あれから四半世紀を経たとは俗っぽい言い方で恐縮だが、長いようで本当に短い日々だったようにも感じられる。因みに、Weyerhaeuserに転進したのが1975年だったから、あれからは44年にもなっていたことになる。これまでの人生の半分以上だ。
月の若い方に話を戻せば、16日は2006年に第1回目の心筋梗塞を発症した記念日だった。あの日からは13年目になっている。生存率25%と病棟の主治医に教えられた時には「良くそんな難しい病気をしながら生き長らえたものだ」と、国立国際医療センターに感謝したものだった。だが、その後に2013年8月、2014年12月30日と3回も発症しているのだから、生存率は約6%だったことになる。湘南中学の級友は「お前は運が良いのじゃなくて強かったのだ」と言ったが、それが当たっているように思える。
実は、同じ1月16日でも2007年には、同じ病院の皮膚科で右目の下に発生していた皮膚ガンを切除する手術を受けていた。これが今年で12年目の記念日になる。その時に主治医ではない先生に言われたことは「皮膚ガンを侮ってはいけない。直ぐには生命の危機には至らないが放置しておくと、体内に拡がって骨に転移して更に骨髄にまで達すると救う手段がなくなるのだから」と教えられた。
次は22日。これは何と戸籍上で86回目の誕生日なのだ。2006年以降病気ばかりしていながら善くぞここまで漕ぎ着けたものだと、近代医学と国立国際医療研究センター病院(NCGM)に感謝せねばならないと自分に言い聞かせている。2006年の発症の際には自分の意志でNCGMに行った訳ではなく、救急隊が連れて行って下さったのだった。当日は日曜日の朝6時45分に倒れたのだが、幸運にも循環器内科の医長先生が当直明けでおられたので、緊急にカテーテルで処置して頂いて命を救われたのだった。
経験された方はお解りかも知れないが、心筋梗塞は暫くすると脳に血液が回らなくなって痛覚を失ってしまうらしく、苦しくも何となくなるのだ。だから、私はストレッチャーで処置室に運ばれてる時に窓から見えた青い空を「もう一度見られると良いな」などと考えている余裕?があったのだ。だが、自分が何の病気かも知らずにいたのだから恥ずかしい極みだった。処置が終わってICUに入れられてから男性の看護師に「私は何の病気ですか」と尋ねて、初めて心筋梗塞と知らされたほどの間抜けだった。
あれから早くも13年かと思うと有り難さと驚きにとらわれている。だが、未だ安心は出来ない。昨年11月に発見された臭覚を失わせられていた蓄膿症からは今月で何とか脱出出来たが、今月の第3週からは難病らしい「顎関節症」に捉まり、目下ろくに食べることが出来なくなって悩まされている。でも「心筋梗塞だって3度も切り抜けた強運で、今回も何とかなるだろう」と気楽に考えている。一寸甘いかな?
先ずは、本31日はWeyerhaeuser Japan Ltd.(アメリカのWeyerhaeuser Companyの日本法人)を1994年にリタイアーして満25年の記念日だ。あれから四半世紀を経たとは俗っぽい言い方で恐縮だが、長いようで本当に短い日々だったようにも感じられる。因みに、Weyerhaeuserに転進したのが1975年だったから、あれからは44年にもなっていたことになる。これまでの人生の半分以上だ。
月の若い方に話を戻せば、16日は2006年に第1回目の心筋梗塞を発症した記念日だった。あの日からは13年目になっている。生存率25%と病棟の主治医に教えられた時には「良くそんな難しい病気をしながら生き長らえたものだ」と、国立国際医療センターに感謝したものだった。だが、その後に2013年8月、2014年12月30日と3回も発症しているのだから、生存率は約6%だったことになる。湘南中学の級友は「お前は運が良いのじゃなくて強かったのだ」と言ったが、それが当たっているように思える。
実は、同じ1月16日でも2007年には、同じ病院の皮膚科で右目の下に発生していた皮膚ガンを切除する手術を受けていた。これが今年で12年目の記念日になる。その時に主治医ではない先生に言われたことは「皮膚ガンを侮ってはいけない。直ぐには生命の危機には至らないが放置しておくと、体内に拡がって骨に転移して更に骨髄にまで達すると救う手段がなくなるのだから」と教えられた。
次は22日。これは何と戸籍上で86回目の誕生日なのだ。2006年以降病気ばかりしていながら善くぞここまで漕ぎ着けたものだと、近代医学と国立国際医療研究センター病院(NCGM)に感謝せねばならないと自分に言い聞かせている。2006年の発症の際には自分の意志でNCGMに行った訳ではなく、救急隊が連れて行って下さったのだった。当日は日曜日の朝6時45分に倒れたのだが、幸運にも循環器内科の医長先生が当直明けでおられたので、緊急にカテーテルで処置して頂いて命を救われたのだった。
経験された方はお解りかも知れないが、心筋梗塞は暫くすると脳に血液が回らなくなって痛覚を失ってしまうらしく、苦しくも何となくなるのだ。だから、私はストレッチャーで処置室に運ばれてる時に窓から見えた青い空を「もう一度見られると良いな」などと考えている余裕?があったのだ。だが、自分が何の病気かも知らずにいたのだから恥ずかしい極みだった。処置が終わってICUに入れられてから男性の看護師に「私は何の病気ですか」と尋ねて、初めて心筋梗塞と知らされたほどの間抜けだった。
あれから早くも13年かと思うと有り難さと驚きにとらわれている。だが、未だ安心は出来ない。昨年11月に発見された臭覚を失わせられていた蓄膿症からは今月で何とか脱出出来たが、今月の第3週からは難病らしい「顎関節症」に捉まり、目下ろくに食べることが出来なくなって悩まされている。でも「心筋梗塞だって3度も切り抜けた強運で、今回も何とかなるだろう」と気楽に考えている。一寸甘いかな?