新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月31日 「ワードを使え」との指示が出たとか

2021-03-31 09:13:59 | コラム
良く解らない事:

当方は自慢じゃないが、パーソナルコンピュータのリテラシーが極めて低いと自覚している。そこに諸官庁が作成する法案に誤字脱字や変換ミスが多いと大問題になっていた。

そこに、昨30日だったかニュースで「法案にミスが多いのは、官庁で一太郎を使っている為なので、当分の間は一太郎ではなくワードにするよう指示が出た」と伝えていた。私はある程度は「なるほど」とは思って聞いていた。実は、私は近頃、一太郎(ATOK?)に余りに変換ミスというか、「何で勝手にこんなおかしな変換をするのか」と怒り狂うほど、妙な変換をするので参っていたのだった。余程落ち着いて読み直さないと、珍妙な文章を送信する結果になる危険性が高いのだ。

私はこれは「PCの寿命が尽きかけている為に、おかしな変換をするのだ」とばかり思い込んで、この期に及んでまた大きな設備投資をさせられるかと、一人で思い悩んでいたのだった。それは、どうやら私の低リテラシーによる思い違いであり、問題が一太郎の側にあるという報道だった。では、以前は屡々勝手にIMEに変更してくる事があった、MSのIMEでも使えという事なのかななども考え込んでいた。正直な所、どうすればワードで日本語が入力できるのか知らなかったと言う事なのだが。そして、英語の時はワードで書いていると信じていた。

何れにせよ、事は粗忽者の私はこれまで通りに一太郎でローマ字入力して、十分に読み返していれば何とかなるのだろうと思う事にした。だが、これで正解なのだろうかなどは全く解っていないのだ。何方かお助け下されば感謝申し上げます。


W杯サッカー予選でモンゴルに14対0で大勝

2021-03-31 08:21:17 | コラム
何と言って論評すべきか惑わせられた:

W杯予選の新記録とかいう大勝利は大変結構だったとは思うが、マスコミ報道のように「良かった良かった」と手放しで喜ぶ気にはなれない勝ち方だった。それは確かに取らねばならない相手から如何にも手を抜かなかったような試合振りで、取れるだけの点を取ったのは良い事だとは思う。私にはそれが褒め称えるべきかという疑問が、どうしても残ってしまうのだった。どうしても、何処かに「弱い者虐め」のように思わせられる感が脱ぎきれなかったのだった。こっちが強すぎて尚且つ上手いのか、相手が弱すぎたのか、あるいは両方かが、最後まで解らなかったのだった。

思い起こせば、昭和20年から神奈川県では最強を誇った湘南中学の蹴球部に入って、大量得点をする試合を数々見せて貰えたし、経験もしてきた。だが、記憶が正しければ、当時の60分間の試合での最多得点は12だった。即ち、5分毎に得点していた事になる。だが、昨夜は90分で14点では6分半程で1点だったのだから、それほど大したことではないなどと言いたくもなってしまう。「当時とは技術を始めとして全てが劣っているではないか、比較対象にはならないだろう」と言われるだろうが、12点は確か昭和23年の記録だった。

記録云々はこれくらいにしておこう。矢張り冷静なる評論家としては論評に入って行く。韓国に圧勝した試合を含めて、招集した選手たちの中で試合に出されなかったのは補欠のGK一人だけだったそうだ。数分間でも試合に出して貰えた者たちは皆良くやっていたと言って良いだろう、川平某が何を思ったか「スピードスター」(=speedster)と呼んだ伊藤純也を除いては。テイーム全体として非常に不満だった事があった。

それは、あの弱敵に対して余りにも横から横と、後方へのパスが多過ぎる点だった。慎重に組み立てているのだというかも知れない。だが、まるで練習のような試合だったのだから、もっと強気で積極的にドリブルでもして単身ででも行って見ろと言いたかった。歯痒かった。何か勘違いしているのかと疑った。

そこで、伊藤純也だが、私の永年の経験から言える事は「足が速い事を特徴(売り物?)にしている人は不器用である」との傾向があるのだ。その点から見ると伊藤君は確かに走るのは速いのだが、その特徴を活かして抜いて出た後のクロス(昔は「センタリング」と言っていた)が非常に不正確で、上げるべき時にゴロを蹴るとか、中で上がってきた者に合わせていないとか、クロスなのかシュートなのか意図が不明な蹴り方をするのだ。解りやすく言えば「雑」なのだ。

彼がもう少しだけ落ち着いてと言うか、折角デイフェンスを抜いたのだから、クロスを蹴る時に慌てないようにしていれば、もう5点くらい取れたかも知れないと思った。前置きが長すぎた。伊藤君はキックの正確さを身につければ、無敵の快足選手になれるだろうと言う事。因みに、川平某は英語に精通しているはずなのに“speedster”とは「スピード狂」乃至は「自動車を猛スピードで走らせる者」を意味すると知らなかったようで、サッカーとは離れた所で呆れた。あれは「スピード」の“star”ではないのだ。余談だが、このカタカナ語を誤用する者は極めて多い。

話をサッカーに戻そう。29日のU-24の代表たちの真摯敢闘振りと、彼らフル代表が韓国との試合で見せた気力が溢れ、全力でサッカーをやっていた緊張感が昨夜はまるで見られず、浮かれていたような試合振りが気になった。1点目を取った後の南野の照れ笑いのようでもあり苦笑いのようでもあった顔付きには、相手を舐めているかのように見えたのが気になったのだった。相手が、余り当てにならないFIFAのランキングで190位であっても、もっと真剣な引き締まった表情で試合をしていて欲しかった。要するに「慢心していないだろうな」と言う事。でも、勝って良かった。


3月30日 その2 毎度お馴染みのカタカナ語批判

2021-03-30 14:03:56 | コラム
止むに止まれぬ思いで言っているのだ:

私がカタカナ語を批判し排斥するのには、十分な動機もあれば理由もある。先ず何と言っても腹立たし事は「カタカナ語を嬉々として使っておられる方々は、その行為が如何に国語を破壊し、且つまともな英語を学びそして覚える事にも障害になっている事に気が付いていない点」なのである。我が国では文科省を始め所謂識者の方々が「国際人を養成する為には国民の英語力を高めるべき」などと戯けた事を主張して、小学校から英語教育を開始している始末だ。それが役に立っている例を見た事も聞いた事もないのが残念だ。

しかも、困った事にその英語教育たるや誠に不行き届きで、大学まで6年も8年も教え込んでも自分の意志を思うように表現する事等まるで出来ない惨状である。それにも拘わらず「何となく格好が良いとでも錯覚しているのか、殆ど全部が間違っているカタカナ語を多用するのが、知性と教養を示すのだと勘違いしている何処かの知事を真似て、猫も杓子もテレビに登場する芸人たちも、無闇矢鱈にカタカナ語を使ってみせるのだ。テレビ局に至っては新語まで創造する体たらくだ。この有様を見て雄々しくも30年以上も前に立ち上がったのが、かく申す私である。

昨日も、聖火リレーとやらで栃木県を走った勝俣州和なるタレントは「スタートします」と言った。私は「ウンザリだ」と言ったが、彼のみならず多くの人々は「出発」という漢字の熟語を忘れて何が何でもカタカナ語なのだ。これはほんの一例だが、テレビ局とそこに出てくる連中は、殆ど漢字の熟語を学校で教えられていなかったようで、全てカタカナ語で済ましてしまう。思うに、彼らは漢字を使った表現は文語であり、カタカナ語が口語だとでも錯覚を起こしているのだろう。かくして、テレビ局などは怪しからん事に、国語の破壊に努めているのだ。

そこで、思いつくままに主にテレビから聞こえてくるカタカナ語と、それに相当する漢字の熟語を探してみる事にする。私は仮令熟語の漢字が難しすぎて書けなくとも、テレビで音声だけ流すのであれば問題ないと思うのだが、彼らはカタカナ語しか使わないのだ。

彼らは「オープン」と言うが、それは「開店」であり「開業」であり「開始」の意味だと思うが、最早漢字の熟語は彼らの辞書から落ちてしまったようだ。しかも、このオープンは「リニューアルオープン」などと言う文法的誤りの造語にもなってしまっている。何処が文法的誤りであるか、悔しかったら指摘して見よ。「ノミネート」も酷いと思う。漢字にすれば「推薦」なのだが、思うにこの漢字は難しすぎて読めないか、または書けないので敬遠したのだろうと疑っている。「アイテム」はOxfordには「買うか、行動するか、語る為にリストに載せてあるもの」が先ず出てくるよ。

「挑戦」という熟語も消し去られて、今や「チャレンジ」しか残されていない。「指示」、「支援」も「サポート」に取って代わられた。だが、英語では“supporting document”などと言うと「添付書類」の意味になる。だから、部品だけ覚えるカタカナ語の知識は駄目だという訳だ。「解りやすい」、「簡単な」、「単純な」と言えば何を思い出すか。「シンプル」なのだが、Oxfordに最初に出てくるのは「複雑ではない(込み入っていない)と、解りやすい」なのだ。カタカナ語の意味する所とは違うと思わないか。邪推すれば「複雑」との熟語が難しかったのではないか。

複合語になっている「ベストを尽くす」というのも情けない。「最善を尽くす」であって欲しいのだが、悪く言えば「最善」が難しすぎたのかも知れない。理屈を言えば“best”はgoodかwellの最上級であって名詞としては余り使わない。しかも、最上級である以上、theから始めねばならないのだが。その意味では「ハプニング」も失格だ。即ち、英語では“happenings”のように通常は複数形で使うと決まっているのだから。笑えるのは「ハプニングが起きました」などと平然で言うアナウンサーがいる事だ。これは英語教育の情け無さの表れに他ならない。

もう、これくらい言えば十分だろう。何度も行って来た事で「カタカナ語をどう使われようと、君たちの勝手であり、私は阻止しようとも『お辞めなさい』などと介入する気もない」のだ。だが、言っておきたい事は「カタカナ語を創造するにせよ、使うにせよ、その前に一歩立ち止まって、最悪でも英和辞典で『おかしいかどうか』くらいは調べてからにして欲しい」のである。そして、締めくくりに「カタカナ語に過度に依存すれば、それでなくても不十分な英語力が益々低下するだけだ」と言っておこう。

「何、英語なんて出来なくても良いのだ」ってか。「単語を並べたら、アメリカに行っても通じたから」とでも言いたいのか。それだと車夫馬蹄であるとか、無教養な輩だと馬鹿にされるよ。


Uー24のサッカー代表がアルゼンチンを圧倒した

2021-03-30 07:52:39 | コラム
サッカー代表選手の方々失礼しました:

昨29日に北九州で開催された対アルゼンチンの2戦目を観戦して、我と我が身の不明を恥じて、あそこまで強敵アルゼンチンを圧倒して勝ってくれた選手たちと、サッカー協会にお詫びせねばならないと深く反省していた。この滅多に褒めない私が褒めるほどの立派な試合振りであり、勝ちっぷりだったのだ。感動さえしていた。何処にも批判したい所などなかった。つい先日まで「サッカーは見限っていた」などと妄言を吐いていたのを恥じた。彼らは進歩していた。

実は、第1戦ではアルゼンチンのサッカーの実態を掴みかねていた。言い訳になって心苦しいが、解説者もアナウンサーもアルゼンチンの強さばかりを強調するので、そうとは見えない彼らの寧ろ韓国風に当たり散らすだけのサッカーを見ていても、何時かは本当の力を出して我が方を圧倒するのかと思い込まされていた。我が方も点を取れそうな形にして貰えなかったが、彼らとてもあの強引に切り込んでのセンターリングがなければ、1点も取れなかった程度に攻める形を作れていなかった。あれもこれも準備期間が短かった為だと、好意的に解釈していたのだった。

ところが、前回から9人も入れ替えてきたという我が代表のサッカーは素晴らしかった。前線の寄せも早く相手を思うように動かせなかったし、パスのコースも消していたのでアルゼンチンは無用な後陣での繋ぎのパス交換か、縦一発に頼るしかなかった。私が褒めたいのがこの寄せの速さと、体格の差を怖れない当たりの強さで、殆ど負けていなかったので、倒されたアルゼンチンが感情的になって小突いたりしたのを何度も見て、我が代表を見損なっていたと反省させられたのだった。あれならば、乱暴な当たりの本家である韓国にも負けないと思ったほどだった。

兎に角寄せの速さ、相手のパスを巧みに横取り(インターセプションの意味で、アナウンサーが「カット」と言うのは誤りであると思う)、豊富な運動量、当たり負けしない強さ等々で、完全と言って良いほどアルゼンチンのお株を奪っていた。結果的にアルゼンチンはかなり苛立っていたというか焦りを見せて、パス回しの起点となってきていた久保建英に対する当たりが必要以上に乱暴になってきていた。解説の松木安太郎は「だから、安全の為に久保を後半の半ばで交代させたのだろう」と読んでいた。彼を起点として全体の息が良く合っていたのも素晴らしかった。

久保建英君のスペインでのサッカーは常にテレビのニュースで見せて貰っている。だが、テレビ局は「サッカーでは点を取る者が偉いのだ」的に報道するので、久保君の真価は分からないままに昨夜の試合となった。私の見る所では、上記のパスの起点となっている事、即ちゲームを組み立てて行く型の選手であって、ゴールゲッターではないと解った。また2度のCKから2点を追加する形になったFKの上手さと正確さも貴重だと見た。テレビ局には何度も言ってやった事で、サッカーでは点を取った者も良いが、組み立てた者を評価して上げないと浮かばれないのだ。

それにしても、体格と身長に優れたアルゼンチンを相手にしてあそこまでやってくれたと言う事は、「本当に」か「現実に」と敢えて言うが、オリンピックが開催されれば、サッカーは3位以内(私はオリンピックは世界のメダル獲得競技会ではないと思っているので、メダルという表現は使わない)には入れる確率は高くなってきたと思って見ていた。森保監督はあれだけやって見せた者たちの中から、15乃至は18名を選ぶ為には嬉しい悲鳴を上げるだろうと思わせてくれた勝利だった。一夜の出来事でない事を心から願っている。

お仕舞いに敢えて再度言うが、「見損なっていて失礼しました。お許しを」の立派な勝ち方だった。お陰様で楽しい一夜になって良く眠れた。


3月29日 その2 3月29日の産経抄より

2021-03-29 14:46:33 | コラム
京都国際高校と照ノ富士:

本29日にの産経抄は個人的にも面白い読み物でもあったので、それに触発されて以下のように言わば二題話に風にしてみた次第だ。

京都国際高校。
選抜高校野球大会に登場したこの学校については既に採り上げてあった。だが、まさかあのような前身があったとは露知らず、良くある「国際」を学校名に入れただけだと思って、何気なく観戦していた。それは、例えば、国際基督教大学や、我が家の直ぐ近所に日本語学校がある東京国際大学や、神戸国際大学附属高校等の亜流の学校名かと思っていたのだった。だが、試合終了後に演奏された校歌の歌詞がハングルだったので、色々な意味で驚愕だったのだ。

その驚きの為に折角NHKが日本語訳したという歌詞まで読む余裕などなかった。ラグビーでは既に大阪朝鮮学校が全国大会に出場しているので慣れっこになっていたが、遂に高校野球にも出てきたのかと思わせられた。この学校に着いては全く何の知識もなかったので、早速検索して詳細を知り得たのだった。この学校には日本の生徒も在籍しているようだが、韓国系の選手たちは通名だったようだった。私はこの一事を以てしても、矢張り我が国は平等であり公平だったと、あらためて痛感させられたのだった。

照ノ富士。
私は相撲をスポーツと看做すのは誤りであり、江戸時代からの歴史と伝統に輝く文化遺産的な興行だと思っているし、永年そう唱えてきた。故に、崇光が嫌いであるとかないとか言う視点では見ていないので、NHKの中継は夕方のニュースが最もだらけた時間帯では見ている。それは、高校の頃までは全国優勝を目指していたサッカー部で、勝負の恐ろしさを十分に味わっていたし、優勝する事が如何に大変かを知らしめられていたので、如何なる競技でも優勝者の喜ぶ顔を見るのが「どれほど嬉しいのか」と心中を察しながら見るのが楽しみなのだ。

そういう意味では勝負の恐ろしさと辛さを、高安が気の毒だと同情したほど見せてくれた。あの最後に来ての三連敗は、麻雀で良く言う「残った点棒の数を数えるような事をするな」のような心境になっていただろう高安の弱さと、点棒を数えただろう失敗を見た気がしていた。換言すれば「2敗の後で、あと幾つ勝てば優勝」と計算したのだろうと察するのだ。

高安はその絶対に数えてはならないものを。つい欲が出て数えてしまったたのではないか。無心になって勝負に向かっていけなかったのではないかと思う。勝負では、平常心で試合に臨むのは非常に難しいのだ。その無心の境地に至る為には余程の訓練が必要であるし、野球の千本ノックのようなただ単に身体的に絞り上げる練習量だけに頼っては容易に到達し得ない心の領域なのである。

古き言い慣わしに「勝敗は時の運」というのがある。照ノ富士はその「運」を自力(地力)で呼び込んだのだろうと思う。また、高安は「腕でツキを消した」のだろうし、良く言われている「勝ち方を知らない」かの如くに見えた。矢張り、故野村克也氏の至言「勝ちに不思議あり、負けに不思議なし」はその通りだと言う事を立証したのだと思っている。