新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

カラオケ嫌いの弁

2016-03-31 07:43:11 | コラム
昔の名前で出ています:

私はジャズ好きであると、主宰者も書いておられた。確かにその通りであるが、自分では何一つ楽器をいじれる訳でもなく、ただ単にアナログ時代はLPを、デイジタル化された現代ではCDを聞くだけで、ましてや自分が歌うカラオケなどには全く興味も関心もないのである。自分から自費で飲みに行くことがないのと同様に、在職中でもお客様にお付き合いした以外にはカラオケに手を出したことは皆無だった。正直なところ「何でこんなものが流行るのか」と恨んでいた。

だが、営業上はそうとばかりも言っていられないことが多々あったので、止むを得ずに歌うことがあった局面で渋々歌っていたのが、何と冒頭の小林旭が歌う「昔の名前で出ています」だったので、その意外性でほとんどの方を驚かせていたものだった。別に営業上で「ジャズファン」を名乗っていた訳ではなかったが、アメリカの会社の者が、事もあろうに小林旭の歌を歌うとはいう辺りに意外性があったようだった。

その「昔の名前で出ています」を昨夜所在なく見ていた何処かの局のBSで、小林旭ではない聞いたこともない歌手が情緒たっぷりに歌っていた場面に出会ったのだ。そう言えば、「そういう営業上のこともあってこんな歌を覚えていたのは我ながら不思議だったな」と感じて、今や22年以上も以前のことになった現職時代を思い出して一人静かに感傷にふけっていた。自分でも何故この歌の歌詞を覚えていたのかが不思議だったし、何故カラオケについて行けたのかも良く解らなかった。

多くの顧客の方には私がカラオケを得手としていないことはご理解願っていたが、時にはどうしてもということもあってこれを持ち歌にしていたのだったが、これ以外には何を歌っているかをごまかせるので、英語の歌を古くは「テネシーワルツ」から「ユーアーマイサンシャイン」や名曲「スターダスト」等でお茶を濁すようにしていた。だが、時には歌っている自分の下手さ加減に自己嫌悪に陥ることさえあった。そんな「昔」を思い出せてくれた「昔の名前で出ています」の一時だった。

桜が咲いていた、知らなかった

2016-03-31 07:41:06 | コラム
3月30日はとても悪い日だった:

所属するジムの定休日でもあったので、直ぐ近所の病院に家内の様子を見に午前中に行ってみた。既に早朝に採血が終わっていて、後は結果が出るのを待つのみだった。問題のCRPの数値が”1”に下がっていれば退院が見えてくる希望に溢れた朝だった。そこで前夜のW杯サッカーの二次予選の最終戦の観戦記を纏めてから一休みした。この辺まではごく普通の日だったのだ。

午後は2時過ぎに再度病院に行ってみたが、主治医の先生が手術中で未だ結果が聞けていないと言う家内の顔に赤みがさしていて熱っぽいというので計らせると、何と38.4度。直ちにナースコールで看護師さんに来て貰い血圧を測定するが特に異常がなく、私がそこにいても仕方がないので不安を抱えたと同時にイヤな予感もあって退散。夕刻は6時前にもう結果が聞けたかと行ってみると起き上がって夕食をとっていて熱もさがったと言う。そこで結果が分かり次第電話をと言って帰宅。

ところが、我が家に戻った瞬間に家内の携帯から電話があり、CRPは再度上昇し、主治医から状況の説明があるので明31日の午後6時半に来院するようにとの伝言があったというではないか。悪い予感の的中に「何で当たるのか」と自分を恨んでいた。何故CRPが上下に変動するかは、素人なりに検索すれば色々と出てくるが、つまらないことを考えても無意味かと11時過ぎまでテレビを見て眠気を感じて寝ては見たが、結局は今朝の午前4時まで一睡も出来ず現在に至っている。

そこで此処は何とか割り切って考えようと自らに言い聞かせて見たが、病院の帰り道に直ぐ近所の桜の古木が開花していたのに漸く気付いた。テレビの天気予報では開花情報などと騒いでくれていたが、全く関心を持つ暇もなくなくこのように桜も咲いていたことなど気付かなかった次第だ。私にとっては桜が咲くよりも、家内の体に花が咲いてくれる方が余程有り難いのだ。今夜は良い話を聞かせて頂けることを期待して、午前中にはジムの大きな風呂にでも入って寛いでこようと考えている。

何とか低い山を越えて

2016-03-30 07:49:11 | コラム
W杯サッカー二次予選でシリアに勝って最終予選に:

我が方はFIFAのランクは56位で、良くサッカーなどやっている余裕があったなと感心するシリアは123位。ランクだけではないかの国の内外に存在する条件をも考えれば、勝って当然の相手。アウエーでは3点取ってあった。昨夜は外出から戻って試合開始12~13分辺りから観戦。恐らくあの監督でもこの試合にはまともな者を使うだろうと思っていたから、勝敗の帰趨には閃くものはなかった。出ていた顔ぶれには不満はなかった。特にGKに折角呼んだ川島を使っていなかったのが気に入った。

この試合の前にはFIFAが150位台の評価を得ていたアフガニスタンに、いくら格落ちの二軍級を使ったとしても前半43分まで点が取れなかった醜態を演じた上で、5点も取れたのだから、一線級を並べた以上格下には少なくとも6点以上は取るかなと薄い希望を持って観戦していた。昨夜は前半の17分に香川がパスなのかシュートなのか判断出来なかった中途半端な左サイドからの折り返しが運良くオウンゴールとなって早めに点が取れたまでは良かった。

だがそれから後か何とも様にならなかった。アナウンサーが「惜しい」と喚くシュートなど何本蹴っても何にもならない。ボクシングとは違うのだから、ジャッジによる判定勝利などないのだから。彼ら、特に酒井高徳などは点を取るべきポジションの者ではないにしても、あれだけのフリーな立場を与えられて外してしまう技術には呆れる他なかった。丁度観戦前にフットボール出身の愚息が「我が代表のシュートの下手さ加減に呆れる」と言っていた通りになったのが前半の1:0の結果だった。

誰かが外す度に、ハリルホジッチ監督が大げさな身振り手振りで嘆いて見せていたが、その気持ちも分かるし、余りの情けなさに腹を立てるのすら忘れて見ていた。シリアは必ずしも引き気味に守っていた訳ではなかったので、フリーになった場面が多かったが本田も岡崎も香川も外し続けていたのは納得出来なかった。先頃NHK御用達の解説者・山本昌邦が何処だったかの弱敵に勝った後で「こんな低い山を越えただけでは何にもならない。最終予選や本番に行けばもっと鋭い強敵が待っているのだ」と言ってのけて「良いことを言う」と愚息と評価したものだった。

その山本も前回のアフガニスタン戦の解説を務めた時には、スタジオを早野とともに言わば「おべんちゃら解説」で、シュートを外しまくった金崎を「意欲的で評価出来る」と褒めちぎる有様で名実ともに御用解説者に成り上がって、言うなれば”job security”を揺るぎなきものにしたようだ。昨夜の福西も嘗ては往年の慶応の主将を務め80歳を超えた今でも本気でサッカーをやっているS君が褒めた解説振りから、昨夜は立派に御用解説者に昇格していたのは大いに遺憾だった。

「御用解説者」で何を言いたいかを此処で詳細に述べる必要はないだろうし、kazkさんにもご納得頂けると思う。私がウンザリだったのはあの監督は弱敵相手にあれだけ不正確なシュートを連発した金崎をまたぞろ昨夜使ったことだった。それに替えるに事欠いてあの顔ぶれの中で数少ない進歩し続けている岡崎を代わりに出したのだ。それだけではない、ちょこまかするだけの清武まで出してしまったし、不運な負傷で交代せざるを得なかった山口の代役が役立たずの原口とはどういう訳だと尋ねたくなる人事だった。

後半に余分につけられた3分の間も含めて4点を取ったのでテレビも新聞も褒めそやすが、私に言わせて貰えば10点取ってもおかしくない試合だった。貶してばかりいたが、GKの西川は良く守っていたと思う。かなり危なっかしい場面をバックス間の無用なパス交換からも出てきたし、シリアはペナルテイーエリア中には入れないこともあって思い切った中距離シュートなどで攻めてきたが、西川のポジション取りが良かったので何とか防ぎ切れたと見た。

香川も本田も岡崎も長谷部も長友もそれなりの力を出していたと言えるが、彼らは矢張りUKやドイツなりイタリアなりにいてこその選手であって、周りが上手いから彼らが持てるものを巧みに引き出して使っているのだ。ところが代表に来れば、彼らの持てるもの以上の力を引き出せる実力者などいる訳がないので、昨夜のように「チャンスの形は出来るのだが・・・・」という煮え切らない試合運びになってしまうのだ。監督さんもお解りだと思うが、それならば何故原口だの金崎だの清武などをお使いになるのか、お伺いしてみたい衝動に駆られる。金崎が岡崎の代わりが務まると思うこと自体が不可解ではないのか。でも、低い山を越えて良かったが、この先には本当に高い山が待っているのだ。

やや余談になるが、相手とヘデイングで競り合った際に顔を打たれて鼻から出血して退場した山口の処理は誠に不適切だった。何度も言ってきたことで、21世紀の今日、負傷者を人力で担架で運ぶのは時代遅れも甚だしい。「アメリカに行けば」などと今更言わない。また、頭を打たれて倒れ込んでいる山口を直ぐに動かした処置も良く解らない。アナウンサーはドクターが行ったようなことを言ったが、救急車が来た様子もなく、テレ朝では沢登の中山も試合終了後のインタビューでニュースがないと言ったのも不可解。局側もちゃんと追跡すべき案件だ。サッカー協会は何時までこんな前時代的なことを続ける気か。


私は甲子園の野球排斥論者である #2

2016-03-29 16:23:39 | コラム
我が国における野球に対する批判:

去る26日の甲子園野球批判について「頂門の一針」3937号誌上で読者の方から「敗退した高校の生徒の砂かき集めの儀式」について極めて適切なご意見を賜ったのでご紹介すると同時に、あらためて私の我が国における野球と野球界批判の考えを述べてみたくなりました。

引用開始
<もし主催者に心があるなら、選手たちの惨めさを庇って予め記念に持ち帰り用の砂を用意して、希望によりそれとなく渡す配慮があってよいのでないか。>
引用終わる

とのご指摘というか、適切なご提案には、優れたお考えであると心から敬意を表します。そういう考えが出てこない辺りに、甲子園の野球を主催する朝日新聞と高野連という極めて特殊な存在の思い上がりがあるなどと言いたくなります。彼らは高体連にも所属していない野球界だけの団体です。しかも、野球は我が国では何かあらゆる運動競技の中心にあるが如き扱いをする一部のマスコミがあるので、何か勘違いしているとしか思えない面が多々あります。

その尊大さの悪い例が、この度NPBが産経の取材拒否に出たような姿勢にあると思えてなりません。「マスコミ」とは言いましたが、何しろプロ野球は読売(巨人)、甲子園は朝日という具合に天下の二大新聞が盛り立てていると同時に、盟主然として振る舞うのですから堪りません。いえ、そういう盟主を頂いていることが羨ましいとさえ感じる時があります。

何年も前から言ってきたことですが、何年も前に複数のトレーナーが「事、近代的なトレーニングという面から見れば、野球界が最も遅れている」と言っているほど、あの伝統がある業界には古色蒼然たるところがあるのです。いや、私は古き仕来りが多過ぎるとも言いました。そのトレーナーたちは「我が国でトレーニングの方法が最も進んでいるのは未だにマイナー・スポーツの域を脱しきれないアメリカンフットボールである」と言うのですから、皮肉です。

私独特の「嫉妬」に発する表現ですが、そのような野球が「プロになるのが子供夢」などと平気で言うマスコミがあるのは恐ろしいことです。その野球界の頂点に立っているのが甲子園野球で、大学もプロもその延長線上にある野球をやっている辺りがおかしいから、ついつい「砂かき集め」まで批判したくもなるのです。MLBでは「1回、ノーアウト、ランナー一塁」という状況で送りバントなどしません、それが我が野球界では当然の儀式であり日本の野球であっても、”baseball”ではないのです。

その大本山である高野連には何処も口出ししません。その本部が(今は知りませんが)朝日新聞の大阪本社内にあっては迂闊なことが言えないくらいはマスコミ界の常識でしょうか?だから、あの砂かき集めの儀礼にも何処からも批判が出ないのでしょう。高校サッカーの全国大会で敗退した高校の生徒が(今はなくなった)国立競技場の芝生を持って帰ったら何と言われるでしょうか?

此処でも異論や反論が出るだろう事を承知で申し上げています。

アメリカを支配する階層

2016-03-28 13:20:58 | コラム
ワシントンDCから大手企業に転身しさらに環境庁長官として復帰:

昨日アメリカでは政府高官が実業界に転身するとの例で、FBI副長官がW社に転身したと述べました。これは、実は12年9月10日の「頂門の一針」第2722号に詳細に採り上げていたWilliam (Bill) Ruckelshaus(ウイリアム・ラッケルスハウス)のことでした。以下にその記事を引用してみます。

>引用開始
1973年にNixon大統領のWatergate問題が厳しく追及されていた際に、初代環境庁長官で当時のFBIの長官代理だったWilliam Ruckelshausは当時では有名になった“Saturday Night Massacre”(=土曜日の晩の虐殺)の人事でニクソン大統領の反撃にあって解任されました。

ラッケルスハウスはPrinceton大学からHarvardの法科大学院に進んだ弁護士。彼は解任されて間もなくWeyerhaeuserにスカウトされて法務担当上席副社長に就任し、数年後に環境庁長官としてワシントンDCに復帰していました。
>引用終わる

インデイアナ州出身のラッケルスハウス(1932年生まれだとか)は環境庁長官を退任後は、シアトルに再度弁護士事務所を開業したとか風の便りに聞いております。

以上は、アメリカではほんの一部も者たちが富を握っていると言いますが、実はアメリカを支配する階層ではほんの一部の連中が政府・経済界・法曹界の重要な地位も占めていることを示す格好の例かと思うのです。私はそのことが良いとか羨ましいというのではなく、単なる文化の違いであると片付けたいのです。だが、そこに辿り着く為には、家柄や資産の状況(Ivy League等の大学に子弟を送り込める富裕層を指す)に大きく左右されているのは間違いないことでしょう。

これを別な角度から見れば、我が国のように何処の地方の如何なる家柄の出身者であろうと、努力次第では政・官・財界で主要な地位を占める事が可能である国との大きな違いでしょう。私は我が国の方がアメリカよりも遙かに平等で民主的だと思うのです。それにアメリカに見られるような途方もない「格差」はないのです。それにも拘わらず、何かというと「格差が拡大」とほざく野党は余りにも視野狭窄でしょう。