1月1日は病院で迎えていた:
2015年は人生で二度目のことで入院で始まった。実際には前年の12月30日から入院中だったのだ。これは1960年の12月から急性肝炎で入院して以来のことで55年振りだった。この入院中に二度のカテーテルの処置を受けて命を救われ、1月14日に一度は退院したのだった。だが、18日には心不全で緊急入院となるなど、結果的には1月~8月間に約60日も入院していた。これが恐らく2015年を回顧すれば最大の出来事だっただろう。この間に最も苦しめられたのが、良かれと思って処方された胃腸薬の例外中の例外と多くの医師や看護師さんや薬剤師さんが言う副作用で、半年間も下痢が続いたことだった。
この長きにわたる下痢のために、2006年の第一回目の心筋梗塞発症時には62 kgあった体重が45 kgまで低下し、愚息などは生命の危機ではないと危惧したとまで言っていた。この問題は消化器内科で大腸の組織を取って病理検査に回して胃腸薬の副作用だったと結論が出て、その薬をやめることで何とか解決したのは不幸中の幸いだった。その激減した体重も、愚息が勧めたプラセンタ・エキスの注射を7月以降週に一度受ける事と、家内の協力で減塩食を励行した等の努力もあってここ数日は52 kgにまで増加してきた。しかし、まだまだ油断はならないと常に自戒するようにはしている。幸いに今月の国際医療研究センター(NCGM)での定期検査でも、Sクリニックでの心電図とエコーの検査でも何とか合格点がとれているので、ホッと一安心なのである。
しかし、世の中には「禍福は糾える縄の如し」と言う言い習わしがあるが、私の体調がどうやら安定してきたかと思えば、家内の椎間板ヘルニアが悪化して来年の2月には手術をせねばならぬところまできてしまい、我が家には悩みの種が尽きない状態に追い込まれてしまった。この手術には支持する方と絶対にやるなと言う強硬派の二手に分かれているのも当事者としては悩ましいのだ。だが、その苦しめられている様子を見ていれば「手術が無事にいくこと。後遺症がないこと」を願う以外にできることがないのは辛いのだ。
今年を回顧して「よくぞここまで出来るようになったものだ」と感慨にふけったことがあった。それは11月と12月に愚息の介添えがあって横浜と川崎に大学のフットボールを観戦に行けた、言わば大冒険だった。2006年1月の最初の心筋梗塞以来遠ざかっていたフットボールの観戦に人込みの中に入っていき、何ら問題が生じなかったことは自分の体調の安定度に多少の自信をもたらしてくれたのだった。これらの試合の観戦記は既に発表してあったので、ご記憶の方もあるかと秘かに期待している。
そういうこと以外には折に触れて政治・経済・スポーツ等々の評論めいたことを書いて楽しんできた。渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」への投稿も家にいる限りは欠かさなかった。だが、今月の17日に突如満3年目が過ぎがPCが動かなくなり、富士通と長時間電話で相談した結果で修理に出すことになり、あわや12年振りにPC無しの生活に戻るかという瀬戸際まで行ってしまった。ここでまた愚息が登場して彼のPCを借用してアナログ時代に戻る事態は回避された。だが、詳細な説明は省くが使い慣れたAtokではなく、マイクロソフトのIMEというワープロソフトに慣れるまでは結構苦労させられ、以前の速度の50%程度でしか打ち出せないのが小さな悩みである。
最後に採り上げたい重大ニュースがある。これは極めて個人的であるとともに、現在のようにICT化が進めば紙媒体というか製紙産業が避けて通れない関門だと思わせてくれる事件だ。敢えて「事件」としたが、それはリタイヤーまで19年半もお世話になったWeyerhaeuser (Weyco)が最後に残してあった液体容器原紙事業、フラフパルプ部門、日本のメーカーと合弁の新聞用紙事業を売却する計画を発表したことだ。アメリカでは2005年辺りから大手製紙会社がこぞって印刷用紙部門の売却というリストラを開始して、インターネットに印刷媒体が市場を奪われる傾向が明らかになってきていた。特に新聞用紙などは、何度も指摘したことで、10年間に60%もの需要が減少していたのだった。
現にアメリカとカナダの大手新聞用紙、印刷用紙(コート紙と上質紙)、段ボール原紙のメーカー何社かが、ここ10年ほどの間で民事再生法のアメリカ版である"Chapter 11"で再生させられてきたという実態がある。Weycoも元はと言えばアメリカ最大級の木材会社だったものが、縦方向への多角化で木材チップ、パルプ、紙・板紙、段ボール原紙と箱、新聞用紙への進出を果たしていた会社だった。今や時代の先端を行くかの如き木質バイオマス燃料の活用などは1970年代から取り入れた来た歴史もある。その会社も時代の流れには抗しきれなくなったかと思えば、まさに感無量である。木材部門はアメリカで住宅産業が安定してきている以上、紙パルプにとは別個な市況にあるようだ。何れにせよ、「ここまで来たか」という思いがある。
2015年は人生で二度目のことで入院で始まった。実際には前年の12月30日から入院中だったのだ。これは1960年の12月から急性肝炎で入院して以来のことで55年振りだった。この入院中に二度のカテーテルの処置を受けて命を救われ、1月14日に一度は退院したのだった。だが、18日には心不全で緊急入院となるなど、結果的には1月~8月間に約60日も入院していた。これが恐らく2015年を回顧すれば最大の出来事だっただろう。この間に最も苦しめられたのが、良かれと思って処方された胃腸薬の例外中の例外と多くの医師や看護師さんや薬剤師さんが言う副作用で、半年間も下痢が続いたことだった。
この長きにわたる下痢のために、2006年の第一回目の心筋梗塞発症時には62 kgあった体重が45 kgまで低下し、愚息などは生命の危機ではないと危惧したとまで言っていた。この問題は消化器内科で大腸の組織を取って病理検査に回して胃腸薬の副作用だったと結論が出て、その薬をやめることで何とか解決したのは不幸中の幸いだった。その激減した体重も、愚息が勧めたプラセンタ・エキスの注射を7月以降週に一度受ける事と、家内の協力で減塩食を励行した等の努力もあってここ数日は52 kgにまで増加してきた。しかし、まだまだ油断はならないと常に自戒するようにはしている。幸いに今月の国際医療研究センター(NCGM)での定期検査でも、Sクリニックでの心電図とエコーの検査でも何とか合格点がとれているので、ホッと一安心なのである。
しかし、世の中には「禍福は糾える縄の如し」と言う言い習わしがあるが、私の体調がどうやら安定してきたかと思えば、家内の椎間板ヘルニアが悪化して来年の2月には手術をせねばならぬところまできてしまい、我が家には悩みの種が尽きない状態に追い込まれてしまった。この手術には支持する方と絶対にやるなと言う強硬派の二手に分かれているのも当事者としては悩ましいのだ。だが、その苦しめられている様子を見ていれば「手術が無事にいくこと。後遺症がないこと」を願う以外にできることがないのは辛いのだ。
今年を回顧して「よくぞここまで出来るようになったものだ」と感慨にふけったことがあった。それは11月と12月に愚息の介添えがあって横浜と川崎に大学のフットボールを観戦に行けた、言わば大冒険だった。2006年1月の最初の心筋梗塞以来遠ざかっていたフットボールの観戦に人込みの中に入っていき、何ら問題が生じなかったことは自分の体調の安定度に多少の自信をもたらしてくれたのだった。これらの試合の観戦記は既に発表してあったので、ご記憶の方もあるかと秘かに期待している。
そういうこと以外には折に触れて政治・経済・スポーツ等々の評論めいたことを書いて楽しんできた。渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」への投稿も家にいる限りは欠かさなかった。だが、今月の17日に突如満3年目が過ぎがPCが動かなくなり、富士通と長時間電話で相談した結果で修理に出すことになり、あわや12年振りにPC無しの生活に戻るかという瀬戸際まで行ってしまった。ここでまた愚息が登場して彼のPCを借用してアナログ時代に戻る事態は回避された。だが、詳細な説明は省くが使い慣れたAtokではなく、マイクロソフトのIMEというワープロソフトに慣れるまでは結構苦労させられ、以前の速度の50%程度でしか打ち出せないのが小さな悩みである。
最後に採り上げたい重大ニュースがある。これは極めて個人的であるとともに、現在のようにICT化が進めば紙媒体というか製紙産業が避けて通れない関門だと思わせてくれる事件だ。敢えて「事件」としたが、それはリタイヤーまで19年半もお世話になったWeyerhaeuser (Weyco)が最後に残してあった液体容器原紙事業、フラフパルプ部門、日本のメーカーと合弁の新聞用紙事業を売却する計画を発表したことだ。アメリカでは2005年辺りから大手製紙会社がこぞって印刷用紙部門の売却というリストラを開始して、インターネットに印刷媒体が市場を奪われる傾向が明らかになってきていた。特に新聞用紙などは、何度も指摘したことで、10年間に60%もの需要が減少していたのだった。
現にアメリカとカナダの大手新聞用紙、印刷用紙(コート紙と上質紙)、段ボール原紙のメーカー何社かが、ここ10年ほどの間で民事再生法のアメリカ版である"Chapter 11"で再生させられてきたという実態がある。Weycoも元はと言えばアメリカ最大級の木材会社だったものが、縦方向への多角化で木材チップ、パルプ、紙・板紙、段ボール原紙と箱、新聞用紙への進出を果たしていた会社だった。今や時代の先端を行くかの如き木質バイオマス燃料の活用などは1970年代から取り入れた来た歴史もある。その会社も時代の流れには抗しきれなくなったかと思えば、まさに感無量である。木材部門はアメリカで住宅産業が安定してきている以上、紙パルプにとは別個な市況にあるようだ。何れにせよ、「ここまで来たか」という思いがある。