新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

海外に向けての情報発信を考える

2022-01-31 09:37:35 | コラム

何故、我が国の情報発信が質量共に不足なのか:

この度の佐渡島の金山を世界文化遺産に登録をしようというときに、例によって例のごとく韓国から不当な横槍が入ったことが、何故起きたかを考えて見た。韓国からの「歴史認識」とやらを理由とする不当な干渉は今に始まったことではないないのだが、私が遺憾に思っていることは、何時でも韓国に対する掩護射撃は何処からともなく出てくるが、我が国を掩護する国も論客も少ないことだ。

例えば、ハーバード大学のマーク・ラムザイヤー教授(J. Mark Ramseyer)のように慰安婦問題で韓国の嘘を暴いてくれた方に対する韓国の攻撃は凄まじいのだが、我が国から誰かがラムザイヤー教授の掩護に回ったという話は残念ながら聞いていない。日頃から我が国とは如何なる国なのかとの正確にして公式な情報に接していない(のだろう)国々はどうやら韓国が発信する不当な情報を信じてしまっているようにしか思えないのだ。

とは言うが、私は我が国の政府(外務省?)から全く情報が発信されていないとは思いたくないし、そうまで思ってはいない。私は我が国から発信された情報の量も兎も角、その質に問題がありはしないのかと考えたいのだ。だからこそ、何時まで経っても理解されざる国であり続け、アメリカの一般人の中にも「日本とは中国の一部ではなかったのか」などと言う者に出会ってしまうのだと思うのだ。

ヨーロッパの人たちとはアメリカ人たち程に接触する機会がなかったが、アメリカ人たちは自分の州のことしか脳裏になく、外国の事情などには我が国の人たちほど関心がないと思っていて間違いではないだろう。私の嘗ての上司や同僚という知識階層の人たちでも「日米安保条約」の存在を知らなかったのだ。極論かも知れないが、同盟国であるアメリカがこの有様では、ヨーロッパの人たちにも我が国とは如何なる国かとの理解を期待するのも無理がありはしないか。

ここで、考えて見ることは「我が国から発信される情報の質」である。その大部分が英語によるものと仮定してみよう。英語は確かに今や世界の何処でも通用する国際語になっているのは間違いないだろう。だが、だからと言って発信する情報の英語の質が「我が国独得の学校教育的な英語であっても宜しい」とはならないと思う。私は何度も指摘してきたことで「あれは『英語』であってもEnglishではない」のである。

だから、私は「何とか読んで貰っても、中々真意まで理解されないのではないのかな」と懸念するのだ。日本語の文章だって、今日では難しい漢字を多用した紙面が真っ黒く見えるような文章は、それだけで敬遠される傾向があると聞いたことがある。論旨の飛躍をお許し願えば「だから安易に『トラブル』だの『シンプル』だの『スタッフ』などと言うカタカナ語に逃避するのだろうと、私は本気で疑っている。

以前に安倍元総理の通訳を務めておられた方の英語を「難しい言葉(英語ではbig wordなどという文語的な単語)を多用されていて立派な文章になっているが、如何にも大仰で堅苦しい」と失礼にも批評したことがあった。相手には解って貰えても「堅苦しい格式張った人だ」との印象を与えかねないのだ。私はこれと似たような感があった文章を見たことがあった。その英文は立派なのだが、大時代的で難解で格調高いので、万人が喜んで読むような易しいものではなかった。そこで訊けば、外務省のOBで立派な文章家だと尊敬している方のものだというのだった。

それを聞いて「なるほど」と解った気がした。その意味は「我が国の諸官庁からは余りに立派すぎるし堅苦しくて、読んでいる途中で草臥れてしまうような美文調の、万人向きではない情報を発信していたのではなかったか」なのである。それは、私が常に唱えてきたことは「文章は簡単というか中学1年の教科書に使われているような易しい言葉を沢山使って、誰にも解りやすいように書きなさい」という、何人ものアメリカ人に教えられた大原則から遊離していると指摘したいのだ。

別な言い方をすれば「我が国の学校教育では単語を覚えることに重点を置いているようだが、そこにはどれが口語でどれが文語であるというような仕分けがされていないのでは」という疑問を感じるのだ。また、文法で8品詞を教えていても「口語体」と「慣用句」の区別も教えていないようなのだ。だから、ごく普通に日常会話の中でもbig wordを登場させるような結果になるのだ。

例えば、何度も非難してきたcollaborateのような単語を、平気でカタカナ語にしてしまうのだし、何でもかんでも「コミュニケーションを取る」などとしてしまうのだ。私は「コラボレーション」という単語があるとは承知していたが、上司や同僚たちが使ったのを聞いた記憶がないし、自分では使えない大袈裟な単語だった。その意味を言いたければ、“to work together with George“のように言うだろう。日常会話や社内の報告書に出て来ない文語なのであるから。

「コミュニケーションを取る」というのも、未だに良く解らない。我々というか彼らは“Let’s take a communication.”などとは言わないのだ。コミュニケーションとは「意思の疎通を図る行為」を総称しているが、日常で使うことなど聞いたこともない。「話し合いをしよう」と言いたいのだったら“Why don’t we get together and talk about it among the two of us.”などとは言うかも知れない。良く聞いた表現は“Let’s sit down to have a chat about that issue.”のようなものだった。これならば平易で解りやすくないか。

言いたい事は「万人に解りやすく平易であり、且つキチンとした言葉を沢山使って論点を詳細に論じて主張するような文章で情報を、定期的に発信されたら如何か」なのである。即ち、韓国が言う佐渡の金山において強制労働などなかったと、詳細にしっかりと述べることを指摘し続けるのだ。堅苦しい国家を代表しているような気負った文章である必要はないのだ。アメリカ人の社会に長い間務めて解ったことは「知性が高く、地位が高くなった人が書く文章は、平易な言葉を使って解りやすいのだが、そこにも十分格式が備わっていること」だった。

 


私の記憶力

2022-01-30 12:00:01 | コラム
何か特別に鍛えたのではない:

「貴方は記憶力が良い」と(褒めて頂いた)言われたことが何度もあった。正直に言えば「何故そうなったか」は、私自身で解っていないのだ。だが、アメリカの会社に転じた1972年の夏から後では、明らかにそうなのではないのかなと、自分でも思うようになった。では、どのような点でそうなのかを、順序不同で振り返ってみよう。

電話番号:
簡単なことでは「電話帳を作ったことがない」ということを挙げておきたい。これは中学の頃からただ単に面倒だからというだけの理由で、単語帳もカードも作らなかったのと同じで、面倒だから作らなかっただけのことだった。だが、不思議なことにその番号を頭から唱えてみると、簡単に記憶できたのだった。自分でも何故覚えられるのかは解らなかったが、日本の会社で担当していた得意先の番号でも何でも、その気になって一度唱えれば覚えられたのだった。

不思議なことだったのは、一度でもメモを取ってしまうと、先ず記憶できなくなってしまうことだった。だが、この「読んでみる」という記憶術はアメリカの会社に転じてからは殆ど役に立たなくなってしまった。これは我ながら不思議だった。そこで何時だったかアメリカでどうしても必要な番号を、市外局番(=area code)からそこにあったファイルホールダーの表に書き殴っておいた。

すると、その関係で書き留めておかねばなならない番号が他にも出てきた。そこでまた書き留めた。そうするうちに、そのホールダーは電話帳の如くになってしまった。というのは記録した番号は記憶できないからだ。後になって考えれば、アメリカの市外局番は我が国と違って「ゼロ」から始まっていない為に流れが悪いので、違和感があったのが原因ではと思うようになった。現在は携帯電話と固定電話に入れてある。

経費:
アメリカの会社では出張中の経費は全て会社負担となるのだが、その旅費の経費清算の伝票には詳細に全ての領収証を添えて(会社によって異なるが、一定額以下は不要という規定がある)申告するのが決まりだ。しかもその中には全ての場面で渡したテイップ(tipだが、カタカナ語では「チップ」)も全て含めるのだ。これは領収証が取れないが、それでも認められる。その経費は宿泊代、食費、交通費、その他の多岐な項目に亘って毎日細かく発生する。そこで、普通には毎日のように記録を取っておく必要がある。その為のメモ帳も準備されている。

ところが、私の場合はここでも「面倒くさい病」が発生し「恐らく記憶できるだろう」と高を括って、一切メモは取らなかった。そこで試してみると、2週間くらいの出張期間では何と言うことなく「その日毎の出費が順を追って覚えていられる」と判明したのだった。テイップも一件も残さずに記憶できていた。だが、これは、時と場合と場所で渡す金額を決めておいたことも手伝っていたとは思うが、間違いなく覚えていた。これには家内が同行していた場合には証人になっていた。

通訳:
これも、何故覚えていられるのかが自分にも解らなかったが、5分くらい話し続けられても何の苦も無く違う言語に転換して口から出てきた。私は勿論通訳の訓練も勉強をした訳ではなく、選んだ仕事では嫌も応もなく「通訳もできる当事者」でなければならなかった。だから、何の意識もなくボスが言う事を日本語にしたし、得意先の方の日本語を英語に出来たのだった。後になって気が付いたことは「聞こえたことがその音の流れのままで頭の中に残っていて、それを他の言語に自然に変えていた」という作業ができていた点だった。それが記憶力だと思っていた。

通訳をするときの要点は「話し手が言っておられることに違和感と反感とか正確かどうかなどという受け止め方は一切しないで、頭の中を空にして聞こえたことだけを覚えていれば良い」のだということ。頭の中を空に出来るようになるまでには少し時間がかかったが、その点だけは「そうなるように」と努力したのは間違いない。だが、これは独学であって誰の教えでもない。しかし、通訳論は記憶力論と少し趣が異なると思うので、ここまでにする。

なお、私が一切メモを取らずに通訳することに疑念を持たれたことがあったが、この点は一度第三者が同席して検証されて「間違いなし」と立証された。但し、日本語と英語では数え方が違うので、数字だけは書き留めていた。特にmillionからbillionとなると特に苦手だった。

昔の出来事の記憶:
これは何でも覚えていられる訳ではない。記憶を呼び起こそうと思って出てくることもあれば、どうしても思い出せないことは当然のようにある。だが、例えば2022年となっては37年も前のことになってしまった1985年10月4日(金)の貰い事故を今でも鮮明に覚えている。

それは、シアトル郊外のサウスセンターというショッピングセンターに中にあったホテルに最大の得意先の常務さんをお送りしていたときのことだった。運転したのは当時の直属の上司だった。そのホテルに向かって左折する際に、横からぶつかってきたフォード・マスタングの黄色の車に当たられた瞬間「何でここに車が来るのか」と不思議だと思ったこと、左隣の席に座っておられた同行の課長さんに向かって倒れ込んだこと、等々は全て覚えている。

パラメディックだと言った人が駆け寄ってきたこと、他には救急隊員が色々と質問した内容、例えば数字を10から1まで反対に言って見ろとか、住所氏名等を言え、どこの救急病院に行きたいのか等々だった。救急病院の希望を言えとは無茶苦茶で「私は外国人で出張旅行中だ。知る訳がない」などと言い返していた。救急病院でX線写真を撮るときに技師が「大きく息を吸って、ハイ止めて」と呼びかけたのも鮮明に覚えている。英語で、だがね。

これはほんの一例だが、昔の事を言う場合には通算で7冊も取得したパスポートを調べれば「何年の何月に出張した時」であるか等々は簡単に解る。また、1980年代からのdiaryというのか予定表は保管してあるので、そこから証拠は探し出せる。また、リタイア後にはほぼ全ての海外旅行は「旅行記」として業界の専門誌に寄稿したので、そのファイルを参照すれば確固たる資料が出てくるという仕掛けだ。

報告書:
在職中は取引先との会談乃至は交渉事の内容は全てメモを取ることなく記憶できていたので、その日のうちに報告書にして副社長に(当時はファクシミリしかなかったが)送っていた。この場合は取引先との電話での話し合いでも「重要だ」と思った内容は全て記憶から纏めて送っていた。これらの報告書の数が最高で1日に15本に達したこともあって、秘書さんに迷惑をかけたことがあった。

アメリカの企業においては「如何なる事柄でも証拠を残すこと」は極めて重要であるから、細大漏らさず上司と工場の幹部等関係先に知らせておかねばならないのだ。彼らは「記憶から物を言う」のを認めていないのだから。故に、全てを報告書の形に残して置かなければ身の危険(job security)となる事すらあるのだ。だから、その日に記憶が新鮮なうちに、文字にして残して置くのである。だがら、記憶力が良くなければならないのだと言える。

だが、その記憶力も流石に年齢を重ねる間に衰えてきた。だが、記憶に頼って記録してこなかった習慣から容易に抜け出せないので、89歳となっては難渋している。実は、この話題も昨日に纏めておいたのだが、忘れないように「件名」だけ書き残してあった所から、記憶を呼び起こしている次第だ。予定表は相変わらず作っていないが、この部屋にかけてある100円ショップで買ってきた大きな玉だけのカレンダーに、病院の予約その他を書き込んである。

本稿はPresident誌の22年2月18日号に「記憶力を鍛える」という記事があったので、それに刺激されたものである。


ひと言

2022-01-29 09:32:05 | コラム

あれやこれやと:

 前髪:

何時だったか、NHKのBSで毎週放映している「クールジャパン」(Cool Japan NetworkでCJNとも称している)で「日本の多くの女性に見られるヘヤースタイルの前髪を垂らしていることが外国人に与える違和感」が取り上げられていた。因みに、この番組には多くの外国から来ている人が登場して全て英語で進行し、司会は鴻上尚史氏である。そう聞かされて、初めて気が付いたのだが、我が国では多くの女性が前髪を垂らす髪型をしているが、白人の世界では先ず見かけないスタイルだった。

そこで、番組では街頭で多くの女性に「何故、そういう髪型を選んだのか」と問いかけるのだが、記憶では「小顔に見えるから」という答え(理由)が多数派だった。「なるほど、所謂『女心』とはそういう所に行くのか」と思って聞いた。余談の部類だと思うが、家内は永年の「額出し」派であり「そういう考え方があったのかしら」という程度の反響。

この話を聞いていて「前髪」を英語では何と言うのかなばかりに調べてみた。すると、英連合王国では“fringe”であり、アメリカでは“bangs”と言うようだった。序でのことになるが「髪型」は女性の場合には“hair do”で、hair styleは男性のことなのである。

譜面台にタブレット端末が:

これは、先日も採り上げたTBSの早朝番組である「The Time」で発見したこと。女性のピアノタレントさんは譜面台にタブレットを置いて演奏していたのだった。「なるほど。こういう時代になったのか」と、少しだけ感じ入っていた。タブレット端末には沢山の曲の楽譜が入力できるだろうから、最近横沢と滝藤が演じているCMで「未だ紙の請求書か!」と聞き捨てならぬ事を言っていたが、タブレットにすれば紙に印刷された重たい楽譜を持ち歩く必要もないのだろうと、理解してしまった。

何故、直ちに理解してしまったかと言えば、1994年のリタイア後に親しくしていたアメリカ人のオーケストラの指揮者が編曲をするときに、既にPCを使っておられ「この道具がなければ膨大な時間と五線紙を使わなければならなかった」と、文明の利器を賞賛しておられ、私にもPCの導入を強く薦められたからだ。そういう事があったのだから、譜面をタブレット化したのは当然のITC化の流れだと受け止めたのだ。なお、私のPCへの転向はその9年後の2003年だった。

カンニング:

先ほども、テレビでは大学入試センター試験(というのな)での女子大学生のスマートフォンを使った不正行為(カンニングの部類に入るのかな)を詳しく取り上げていた。私はICT化が進んだことの「コインの裏側」の事案だと受け止めている。ところで、この「カンニング」(=cunning)という英語の単語には所謂「カンニング」という意味はないのである。私は「狡い手段を用いるのだから、そういうのだろう」と解釈していた。念の為に触れておくと、ジーニアス英和には「・・・について悪賢い、狡猾である」が真っ先に出ているのだ。

英語で「カンニング」を何と言うのかと、和英辞典や英辞郎等を見ると素っ気なく“cheating”が出てきた。私はこれまでに「カンニングを英語にしたら」を余り深く考えたことがなかったので、多分「不正」か「不法な」の意味の“false”でも使うのかと想像していた。“cheat”はジーニアス英和には「自分の利益のために人を騙す、欺く」が最初に出ている。確かに「カンニング」はその通りの行為かなと思った。

カタカナ語製造業者がどこで勘違いをして「カンニング」としてしまったのか知らないが、falseもこの勘違い的な使われ方と関係がある。実は、陸上競技等の「フライイング」は日本語であって、こんな英語はないのだ。英語では“false start“なのである。即ち、「不正なスタート」だったのだ。だが、”flying start“という英語は存在するのだ。それは、出発の線の後から出走を開始して走り始め、その線を通過した時から時計が動く方式なのだそうだ。これも製造業者の勘違いスタートで、カタカナ語化されてしまったようだ。

ズームイン:

これは日テレの番組名で「ズームインサタデイ」(ズムサタ)は、土曜日の朝5時半から流されている。私はこの番組が出てきた頃には「ズーム」とはカメラにズームレンズという大きな器具を付けて撮る「接写」のことかなと思う程度の認識だった。そもそも“zoom”はジーニアス英和には「ブーンという音を立てる」と「物価などが急に上がる」と出ているのは承知していた程度で、日常的に使われたのを聞いた記憶もなかった。それなので、日テレがまたカタカナ語を創り上げたのかと、一瞬考えた程度の関心だった。

今朝も4時に起きてから「ズムサタが画面一杯に並べる朝刊各紙から何を取り上げるか」というだけの興味で、チャンネルを合わせた。そこで、試みに“zoom in”という熟語があるのかと調べてみれば、zoom outとzoom inの両方があると判明した。日テレの造語ではなく、英和辞典にも載っている表現だったのだ。我が身の浅学非才を恥じた次第だった。負け惜しみ的な結論を言えば「だから、カタカナ語は厄介なのだ」なのである。

筆者注:件名の「ひと言」は2000年までの4年間業界の専門誌に掲載の機会を与えられたコラムの題名から借用した。


W杯サッカー最終予選対中国戦観戦記

2022-01-28 10:10:18 | コラム
良かったのは勝ったこと:

この試合は事前にマスコミが「デイフェンスの要である主将の吉田とヨーロッパでもその存在が認められている若手の部類に入る富安の両名が負傷欠場することを大いなる不安材料」として取り上げていた。しかしながら、当てにならないとは言え、FIFAのランキングでは我が方は26位なのに対して中国は74位である。それでも不安視されるとは、森保監督は余程信頼されていないのかなと感じていた。

結果としては、中国は放ったシュートは狙いがはずれたFKからのキックをシュートと看做しても、これ一本のみに終わった有様で、ランキングの通りの結果が出たということだった。特に前半にはアナウンサーが伝えていた事で、我が方のボール支配率が70%を超えていたことが示したように圧倒的に中盤を支配して、ただ単に味方同士で安易にボールを回し合うという、実に歯痒い試合運びだった。解説者というよりも応援団に近い感がある松木安太郎ですら「この相手ならば前半に3点取れても」と言っていたほど。

私が「歯痒い」という根拠は「前半でのパス回しには、何かやってやろうというような積極果敢な(カタカナ語では「アグレッシブ」だが)意図が感じられるパスではなく、ただ単にフリーで近くにいる味方に回しているだけ」だったからだ。中国は案外に引いて守っていると言うよりも比較的突っかけてきてくれていたので、その気になればアナウンサーたちが言う『ラストパス』を出せたと見ていたが、弱気なのか慎重なのかは不明だが、相手にボールを触らせない時間をひたすら引き延ばしているだけの感があった。

それでも、前半早々にゴールラインに向かって突っ込んだ伊東純也のセンターリングが首尾良く?相手デイフェンスの腕に当たってPKを獲得して、1点先行できたのだった。我が方は確かに何本かシュートを放ってはいたが、永年の欠陥である決定力不足振りを見せただけの結果に終わっていたのは残念だった。この点は今後とも強化が必須だと思う。

後半に入って監督の指示が変わったのか、交代で入った者たちが良かったのかは知らないが、意図を感じさせる鋭さを感じさせる「前へ」や「裏へ」のパスが出るようになって、無意味なパス交換が減ったのは良かった。私には森保という人の考え方が良く解らないのだが、彼は久保や堂安のような「最早育てる段階にはない」若手の起用を避けるのだ。昨夜も、久保を入れてからは私の目には意図的なパス交換が増えたと見えたし、堂安も得点を狙う意図を見せる動きをしたので、全体的に活気が出たと思えた。

マスコミが懸念して見せたデイフェンスには何らの問題はなかったと思う。というよりも「あれは不味いのでは」と思わせた守り方は1~2度あっただけで、ほぼ完全に中国を抑えきっていたのは大変良かったとは思う。忌憚のない所を言えば「勿論、彼らが中国を完封してくれたのだが、中国の選手たちは身体能力には優れていて鋭い動きも散見されたが、所詮は我が方の守りを突破できるだけの形ができていな次元に至っていなかっただけ」となる気がする。

先ほどは「決定力不足」を批判したが、私が見るこの選抜(寄せ集めとも言えるが)テイームの問題点はといえば、大迫には力強くシュートを決める力が不足していることと、皆が寄って集って褒める伊東純也のサッカーが未だ未だ粗雑であることなのだ。ずっと言い続けてきたことで、伊東は確かに足が速くデイフェンスを抜き去ってくれるが、そこから先では「私は未だ嘗て彼が正確なクロスパス(往年はセンタリングと呼んでいた)を中にいるFWに供給して得点になったのを見たことがない」のである。私は誰が何と言おうと不満なのだ。

私の希望は森保監督が74位に勝ったからといって安心することなく、次なる重要な試合であるサウジアラビア戦に向けて万全の態勢を整えておいて欲しいのだ。確かに昨夜は弱敵が相手では守りは破綻しなかったが、矢張り吉田と富安の復帰が待ち遠しい気がしてならない。

最後に矢張り「言葉」の問題を二つ取り上げたい。試合開始前に川平慈英がしたり顔で伊東純也を「スピードスター」と表現していたのには困った。彼は上智大学の比較文化学部という記憶違いでなければ講義が英語だった所の出身者なのだ。スピードスター(=speedster)は以前にも触れたことで「スピード狂」のことで、誤解されてカタカナ語化された“speed star”即ち「スピードがあるスター選手」ではないのだ。

次は何時も方々でアナウンサーが「主将としての統率力」の意味で誤用する「キャプテンシー」(=captaincy)である。これは「主将としての地位」を意味する単語。「主将としての統率力」はジーニアス英和には“captainship”とある。だが、Oxfordにはこの言葉は載っていないが。私は矢張り「キャプテンシップ」と言うか「主将としての統率力」と普通に日本語で言う方が良いと、テレビ局の方々に苦言を呈したい。


1月27日 その2 バイデン大統領の暴言

2022-01-27 14:23:36 | コラム

大統領が使う言葉ではないと思うが:

昨27日のPrime Newsで、24日にバイデン大統領がFOXニュースのピーター・ドーシイ記者(Peter Doocy)の質問に答えた後で、マイクが「オン」であったと知らずに汚い言葉で罵ったという件が採り上げられていた。近頃、私は余りアメリカのニュースを追おうとしていないので、そんな事件があったことすら知らなかった。

そこで、「それでは」と検索してみれば出てきた。どうやら記者会見が終わって記者たちが席を立ち始めた頃にドーシー記者が、"Would you take a question on inflation ... ? Do you think inflation is a political liability in the midterms?"と問いかけたのに対して大統領は"It's a great asset -- more inflation," と答えた後に無表情で "What a stupid son of a bitch."と呟いていたことらしかった。

上記の英語の所は共同通信の記事では「11月の中間選挙でインフレは問題になると思うか」と尋ね、大統領は「いや、寧ろ強みだ。もっとインフレになっても」となっていて、最後の汚い言葉の部分は、私がこれまでに繰り返して指摘して来た「およそ良識ある者が公開乃至は公共の場で絶対と言って良いほど使ってはならないswearword(汚い言葉)であり、訳しようもないが、報道では「何というくそ野郎だ」等になっていた。それ以上に関心がおありの向きは、辞書を引いてお調べを。

私はこれまでに何度かトランプ前大統領が、大勢の彼自身の熱烈な支持層を前にして一席語られる際に(善意で解釈して)彼らに解りやすいようにswearwordを多用されるのを批判してきた。その汚い言葉を事もあろうにバイデン大統領はマイクが「オフ」であると思われて(オンと承知だったという観測もあったが)使われたとは、単純に言えば大変な驚きだったし衝撃的でもあった。苟もアメリカ合衆国の大統領たるお方としては、論外な言い方だと思うのだ。

私はこの一事を以てバイデン大統領の手腕や品性を批判する意図はないが、俗に言う「お里が知れる」事にはなりかねないとは思う。お解り頂きたいことは「swearwordを使うとこういう騒ぎになってしまうこと」であると認識して頂きたい点であるのだ。なお、Foxニュースはトランプ前大統領の気に入りだった。