新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月30日 その2 THEMIS誌は書いた

2021-04-30 09:17:15 | コラム
菅義偉は総理の器ではない:

今朝の新聞に出た書店では買えない雑誌「THEMIS」の広告の冒頭にこうあった。因みに、THEMISとは広辞苑に「擬人神で法律、秩序、正義の女神」とある。それにしても「言いも言ったり」であり、余りにも剥き出しではないかと、やや驚かされた。この他にも、私程度のリテラシーでもネット上で知り得る菅首相への非難というか、批判は増えてくる感が濃厚だ。私でさえも既に「少し批判を」などと題して述べてきた。

だが、深く考えなくとも解る事は「我々国民の過半数が自民党を選び、その自民党の中で国会の場で我々を代表して選んだのが、菅義偉氏なのだ。中には「俺は自民党も公明党も選択していない」と主張する人もいるだろうが、良くも悪くも多数決制なのが民主主義なのである。COVID-19対策、経済を如何にして盛り上げるか、オリンピックをどうするのか、対中国問題とそこに付随してきた尖閣諸島の守り、台湾有事をあらしめないようにするには等々の難問が山積する最中に、自分たちが選んだ総理大臣を批判している場合かと言いたくなった。

バイデン大統領の施政方針演説(the Administrative Policy Speechと言うようで、年頭教書(the State of the Union Messageとは違うようだ)でも、中国に対する姿勢を明確にされたようだし、日・米・豪・印の結びつき(でも、NATOのような同盟ではないそうだ)にも強く言及された。だが、台湾有事はあらしめないようにするので、中国との対決ではないと言われた。バイデン大統領は習近平を“Autocracy”即ち「専制主義」と決めつけられた。そうであれば、我が方は如何にこのバイデン方式に付いていくかだ。

Autocracyを昨夜のPrime Newsでは古森義久氏は「独裁主義者と呼ばなかったのは、それなりの配慮があったのでは」と指摘。そこでOxfordを見れば、“a system of government of a country in which one person has complete power”とあった。ジーニアス英和には「独裁権;独裁[専制]政治、独裁[専制]主義国」とあった。それでは、バイデン大統領は習近平を独裁者だと指摘されたと解釈出来るのではないだろうか。尤も、記憶に誤りがなければトランプ政権では習近平には付けなかった“president”を付けていたのも印象的だった。

こういう時に際して、総理大臣を批判していても無意味だし、仕方がないとは思う。今こそ一丸となって難局に当たるべき時ではないか。だが、自分一人で決めて閣僚に降ろすだけとの批判がある事を、菅総理が十分に認識されて、側近なり周囲の知恵者の意見を採り入れられて、難局を乗り切る手立てをして頂きたいと願うだけだ。


「外来語の借用は有害である」のアクセスは不人気だった

2021-04-30 08:21:12 | コラム
遺憾ながらアクセスは低調だった:

果たせるかな、昨日採り上げた「外来語の借用は有害である」は、予想通りアクセスは低調だった。だが、驚きも嘆きしないし、悲しいとも思わない。という事は、圧倒的多数の方々は、外来語の借用も、カタカナ語の粗製濫造も、英語のローマ字読みによる奇妙な表記(例えばModernaを「モデルナ」としたり、下院議長のPelosi氏を「ペロシ」とする事)も、乱発と濫用をも“It's not too bad.”(「悪くない」即ち「良い」という意味になる)とでも認識しておられるのだとあらためて立証されただけだと受け止めているのだから。

念の為に言っておくと、私はこれらの全てを好ましくないと見て「言葉は正しく使いましょう」と主張しているのだ。「新型コロナウイルス」の略語を「コロナ」などとする言葉の誤用をする神経は信じ難いのだ。

即ち、大多数の方はカタカナ語も借用語も「最早日本語の一部であるのだから、それを使って何が悪いのか」と認識しておられるのだと思う。そうであれば、外国人と出会って英語などを使って交流する機会などがあっても、その際にカタカナ語を交えても「何か問題でもあるのか」と認識しておられるのだろうと推察している。

私はそもそも「我が国では誰でも彼でも英語が良く解るようにする事や、流暢にしゃべれるようになる必要などない」との論者である。それだけに止まらず「私のように英語を思うままに使えなければならない(“I know how to express myself in English.”の次元に達していなければならないという意味)ような職業を選んだ者とか、海外での研究生活や駐在員として海外に赴任される方にとっては、一定以上の英語力が必要だが、万人に英語力を要求する必要などない」と信じている。だが、カタカナ語や外来語の借用には断固として否定的である。

学校教育で「児童や生徒や学生たちの優劣の差を付ける為に、科学としての英語を教えようとするのは、それはそれで結構だろうとは思う。だが、その成果が国全体の英語力の水準が一向に上がらず、何時まで経っても「単語を並べたら通じた」と喜んでいる段階に止まっている事を、世の英語教育に携わっておられる方々が、どのように受け止めておられるかだ。敢えて指摘するが、その結果で、英語の言葉を間違えて借用したり、カタカナ語を普及させたり、英単語の意味を取り違えていたり、妙な造語を創造してしまう事態が生じているではないか。

矢張り、カタカナ語排斥論者として指摘しておきたい事は「カタカナ語や外来語を日常的に使いたければ、どーぞご随意に。但し、その言葉は英語とは全く異なる日本語の一部であると承知の上ならば結構。間違っても英会話の中にまで持ち込まないように」なのである。私は言わば「ガリレオの心境」で申し上げているのだ。


4月29日 その2 外来語の借用は有害である

2021-04-29 11:34:20 | コラム
勿論というか、カタカナ語の批判でもある:

私はカタカナ語即ち外来語とまでは決めつけないが、この種類の言葉を何の考えもなく無定見に濫用(乱用でも良いだろう)する事が「国語での思考力乃至は表現力を貧弱にしている」としか思えないのだ。だからこそ「カタカナ語を排斥する」のである。そこで思い出す事がある。それは1991年に生涯でたった一度訪れたパリで、K船社パリ事務所のフランス人の秘書が言った事だ。それは、私から「フランスでは法律で外来語の使用を禁じていたと記憶するが、それの影響はあるのか」と質問した際の彼女の答えだった。

ここで、少し本筋から離れるが、「フランスには英語を話せない人が多い。それはアメリカを嫌っているからだ」という俗説があると承知していたが、彼女は実に綺麗な英語で話していたし、凱旋門の近くのホテルでも従業員(カタカナ語にすれば「スタッフ」だが)全員がごく普通に英語を話していたので、この説はフェイク(がせ)であると確認出来た。

そこで外来語禁止の件だが、彼女はいともアッサリと「愚かな決定である」と斬って捨て、その根拠を「フランス語は英語と比較すると言葉の数が10分の1ほど(正確な記憶はないが)なので、思う事を表現しようと思えば外来語を借用せざるを得ないのだ」と解説してくれた。この信念が正しいか否かは別にして、そこまで言い切るだけの見識を持っているのが素晴らしいと思って拝聴した。言いたくはないが、現在の我が国の傾向のように、何の理論も考えもなしに英単語をカタカナにして使っているのとは訳が違う気がして残念だった。

今朝ほども近々中国の代表テイームと試合をする予定の我が国のヴァレーボールの女子代表テイームの若手のホープと紹介された黒後さんが「中国はオリンピックをイメージしてやってくるでしょう」と語ったのを聞いた。そこで感じた事は、彼女が使った「イメージ」とは如何なる意味になるのかを考え込まされてしまった点だった。同時に「何故イメージを使うのか」と正直なところ、情けなくなった。そこで、イメージを解釈してみようと思うに至った。

先ず思い浮かんだのは「オリンピックで対戦すれば、どのような戦法で行くべきかを想定してくるだろう」だった。次は「日本代表とオリンピックで対戦する場合に備えて、絶好のスカウティングの機会としてくるだろう」だった。更に単純化して(カタカナ語ならば「シンプル」というのが出てくるか)考えれば「オリンピックで試合をすれば、どのような雰囲気かの経験の場にしよう」辺りになるかも知れない。黒後さんはここまでの事をチャンと国語で述べて欲しいのだ。

私が危険だと怖れる事は上記のように幾つも解釈が出来て、事細かに述べるべき事柄を、たった一言のカタカナ語の「イメージ」で表してしまえば、本来の国語での表現力が育たないという懸念なのである。もっと具体的に別の観点から言えば、英語の単語の“image”にはそれほどの含蓄はないという点だ。ジーニアス英和には「イメージ、印象、表象;観念、概念」とあるだけだ。表音文字の英語にはそれほど深い意味はないのである。論旨は飛躍するだろうが「多数の単語の意味ばかりを覚えさせるから、漢字の熟語と同じように広い意味があると誤解するのだ」という問題だ。

外来語の借用の問題点を、一昨日採り上げた「マウンテイング」にも見出すのだ。私の語彙には確かに“mount”はあったが、使った記憶も誰かアメリカ人が使ったのを聞いた記憶もなかった。使用された例ではカナダの何処かで見かけた“mounted police (officer)”即ち「騎馬警官」で、「馬に乗る」か「~の上に乗る」という意味だとは承知していた。この「マウンテイング」に接して、初めてジーニアス英和をひいてみた。「人が山などに登る、はしごなどを上がる、馬・自転車などに乗る(ride)」とあった。“ride”なら使った事はあったがという程度。

私が浅学非才だったのか、単語の知識重視の教育が優れているのかは良く解らないが、“mount”を記憶していて「マウンテイング」を創造してしまう単語力には敬意を表したくなる。だが、英単語を借用した為に、一昨日検索して知り得たような意味をカタカナ語の一言で表す事が良い事なのかどうかは、遺憾ながら評価は出来ないのだ。それだけではなく、国語力の成長にとっては好ましい事とはとても思えないのだ。

いや、もっと明確に言えば「外来語の借用と、カタカナ語の濫用は国語での思考力と表現力を阻害しているし、英語のように『この点を言わないというか、ここまで言わなくとも、先方様が察してくれる』という事が絶対ない言語を学ぶ時に、悪い影響を及ぼすだけだ」と断言する。これまでに何度も指摘した事で「英語の単語と熟語は、漢字の熟語のように広範囲の意味は表さない」のである。更に言えば、このようなカタカナ語を乱発しているから、何時まで経っても我が国民の英語力が進歩せず「通じなかった」と言って嘆くことになるのだ。

矢張り「世の英語教師たちよ、その教え方の至らなさを深刻に反省せよ」という事だし「もうそろそろ、外来語の無定見な借用を止めねばならない」と悟るべき時だ。

高田純次の「じゅん散歩」

2021-04-29 09:02:06 | コラム
高田純次が東京の変化を教えてくれる:

「じゅん散歩」はテレ朝の午前9時55分だったかからの番組。高田純次が東京都内の各地を歩き回って、彼独得の悪ふざけの軽口で本人は洒落のめしている積リだろう番組である。家内などは高田の悪ふざけを嫌って見ようともしないが、私は東京都内の想像もつかないような激変の様子が分かるので、結構楽しんで見るようにしている。また、この時刻が丁度ブログの更新を終えた頃になるので、気分転換にもなるのだ。

最早、都内の方々に出掛ける用事もなくなったし、悪い事にCOVID-19の感染の危険度が増す一方の時期になってしまった事もあって外出を控えているので、永年慣れ親しんできた「東京」の変化の様子にすっかり疎くなった。偶に車かバスででも出掛ける機会があると、行く先々で「ここが俺の知っているあの街だったか」と「取り残された感」に大袈裟に言えば苛まれるのだった。

例えば、今年になってから安全策で出向かないようにしている馴染みの理髪店がある京橋地区などは、1972年から2年半も出勤していたMeadの事務所があった場所なのだが、ビルの谷間のようになってしまって取っつきにくいのだ。地下鉄銀座線の京橋駅から地上に出て、どの方向を目指せば明治屋があるのか、うどんすきで有名な「美々卯」が何処だったかも解らずに呆然となってしまった。昨年末に墓参の後に息子に大手町を通過して貰った時にも、そこが大手町だった事すら解らなかった。

そういう具合であるから、高田純次が駄洒落を言いながら歩き回ってくれる都内各所の風景(光景)は常に新鮮な驚きなのだ。京橋から日本橋にかけての新しい高層建築の林立(乱立でも良いか)などは、未だ動けるうちでCOVID-19感染の危険さえなければ、是非行って見たいなと思わずにはいられないのだ。そこを高田純次がヘラヘラと軽口を叩きながら歩いてくれるのは、有り難い事だとも言えるのだ。だが、あれほど高層建築が急激に増えてしまえば、何時の日にか東京都区内全体が地盤沈下して、海抜ゼロメートル以下になってしまうのではないかと心配したりもしている。

また、東京に生まれて永年の勤務地が東京であっても、ついぞ行く機会がなかった名所旧跡も高田純次が訪れてくれるので、「なるほど、そういう物だったか」と知る機会があるのも有り難いのだ。先日は、渋谷区の我が国最大のイスラム教のモスク「東京ジャーミイ(トルコ文化センター)」を訪問していたので、イスラム教独得の華麗な建築を見る事が出来た。何年前だったかスペインをパック旅行した際に、かの「フェネラリフェ」を見ているので、妙に懐かしく感じたものだった。

一昨日からは都内ではないが、川崎市に出掛けて、向ヶ丘遊園と登戸駅周辺の壮大な都市再開発計画の現状と計画を見せてくれていた。この辺りは義理の妹の嫁ぎ先があったので、20年ほど前に訪れただけだったので、その変化というか再開発に驚かされたのだった。という具合で、身の安全を期して何処かの知事さんが主張される「ステイホーム」に執着していても、彼のお陰で世の中の変化に辛うじてついていけるのが結構な事なので、多少の悪ふざけを黙認する事にして「じゅん散歩」を見るようにしている。



4月28日 その3 他の患者の安全の為に

2021-04-28 13:51:25 | コラム
COVID-19感染者に対する偏見か:

週刊新潮に連載のコラムを持っておられる里見清一氏(医師)が「感染者を受け入れた病院に勤務しておられた看護師さんが結婚されて、地方に移住され妊娠されて産婦人科を訪れたところ、その勤務の経験があるという理由で散々意地悪をされた上で診療を拒否された。その目的は『他の患者さんの安全を期する為だった』そうだ」と指摘しておられた。私には「風評被害」を心配しての事もあるのかなと読めた。

最近聞いた話では「都内のある病院では感染者を受け入れるのに救急車ではなく、普通のワンボックスカーを使われ、患者の入り口も『こんなところから入るのか』という場所だったし、退院も一般の方というか通行人も気が付かないような所からだった」とあった。この話も上記の里見氏の指摘と同じで「他の患者の安全重視」があるのではないかと思う。要するに、福島県の方や産物に対する偏見が未だに消え去らないように、COVID-19(私は「コロナ」は言葉の誤用だから採らない)に対する恐怖感というか、抜きがたい偏見があるのだと思えてならない。

私はその偏見というか、視野の狭さというか、狭量さを非難する前に「何とも情けない情けない民度の低さだ」と嘆きたくなるのだ。私の物の見方は間違っているのだろうか。