新型コロナウイルスの襲来は我が国に更なる「働き方改革」をもたらすか?
私はこれまでの所では「新型コロナウイルスが明らかに我が国の企業社会では働き方と、出勤の状態に変化を与えている」と思って見ている。現職を離れて26年も経ってしまった私には実感がないので、この変化が一過性なのか恒久的なものになって行くかを予見できるだけの材料の持ち合わせはない。だが、リモートウワークだかテレウワーキングか知らないが、こういう仕事の進め方の形態を続ければ、我が国の会社組織が抱えてきた人員が過剰であり、1人でも処理できかも知れない仕事を複数でやって来たようだったと、図らずも立証してしまう結果になるのではと見ている。
私は22年以上もの間、アメリカの会社組織の中で「我が国とアメリカの企業社会における文化の違い」を十分に経験したので、繰り返してその相互の違いを振り返ってみよう。我が国では「皆で一緒にやろう」という精神が基調にあり、全員が同じ目標を目指してお互いに補い合って仕事を進める形になっていると思う。これに対して、アメリかでは「集団で事に当たろうという精神も意識もなく、事業部長がこれと見込んで採用した者毎に他の部員とも重複しないような職務内容記述書を与え、その能力と主体性に任せて仕事を進めさせていた。その結果として、その事業部の目標を達成させる方式だと思っている。
先日も同じ業界の古き友人に、ウエアーハウザーの頃には日本市場担当のマネージャーとして、秘書と2人で最高到達点として年間150億円ほどの売上高を達成してことがあったという回顧談を聞いて貰った。彼は「年中アメリカとの間を往復し、国内出張も多くて忙しいようだとは見ていたが、そこまでやっていたのか」と感心して貰えた。1990年代の事だから現在ではどれほどの金額になるか知らない。私の後継者は凄腕で市場の変化もあったが、5~6年ほどの間にこれを倍増させて見せた。これぞアメリカ式の個人の能力依存の見本のようなことだ。
念の為に、私の名誉の為に実績を回顧しておけば、売上数量を19年かけてアメリカのサプライヤー中では最も参入した時期が遅くて最弱の存在だった所から、10倍にさせたとだけは胸を張って言っておきたい。
私は何も集団を排して個人の能力に任せているアメリカ式を礼賛しようとは思っていない。それは、我が国とアメリカでは国として成り立ちが違うし、両国間には全般的に文化の違いが多過ぎるのだ。その違いを弁えずに簡単には他国の方式を導入しても、直ちに改革に結びつくとは考えられないのだ。私は迂闊にも「アメリカと雖も同じ会社ではないか」と思っていたが、現実にアメリカの会社の文化と組織に直面してみると「これはえらいところに来てしまった」と痛感させられた。
21世紀の現在では広く知れ渡っているだろうが、そこには終身雇用も年功序列もなく「頼りに出来るのは自分だけ」という個人の実力だけが唯一の武器であり、事業部長に評価されないとアッサリ馘首される世界だったのだ。何としても年俸に見合うだけの実績を達成する以外に生き残りの道はないのだ。その環境に入った以上は「自分で自分に命令を発して毎日最善を尽くしていく以外の方法はなく、同じ部内の誰もが他人の心配などしてくれないのだ」と覚悟してやっていただけだった。
それだからこそ、副社長兼事業部長ともなれば年俸に見合うだけの成果を挙げる為には、朝は6時にでも7時にも出勤し、夜は何時になろうとも仕事を終わらせるまでは社内に止まっている。それに加えて出張も多く、土日の出勤も辞さないと言う態勢で仕事をしているのだ。結果として、19年間で私の上司3名は家庭を顧みる時間が不足して離婚という状態。私でさえも、東京にいる間は朝は遅くとも7時45分に出勤して帰宅は20時や21時は当たり前だった。
即ち、アメリカ式は全てを任されたマネージャーの自己管理と裁量の範囲内では、言うなれば「どう出社して勤務しようと勝手だ」という事なのだ。だが、この勤務態勢は身体的にも心理的にはかなりきついというか、常に緊張感を維持していなければならなかった。だが、日本式との違いはその日に為すべき事が終わってしまえば、午後3時でも帰宅する事も出来るし、間に合わなければ土日にも出向いて残務整理をしていたものだった。
出退勤時刻は各人の仕事の都合次第であるし、やるべきことが出来ていれば良いのだ。従って我が国のような「遅刻」という制度などないのが「我が国との企業社会との文化の違いの象徴」だと思っている。私は我が国のこの遅刻という制度を、新型コロナウイルスを制圧できるかでの間は緩めて置けば、朝のラッシュなど多少は緩和できるのではと考えているし、社員にも自分の時間の管理が可能になるのではとと見ている。
ではあっても、同じ組織内の誰とも重複しないで仕事をするアメリカ式を真似ても、我が国の風土と企業社会の文化に俄に合う事はないだろうと思う。だが、「皆で一丸となって」という我が国独得の美風を何時までも尊重して全員を縛っておく文化を再検討しても良い時期が来ているような気もするのだ。私は偶々アメリカ式に合わせる事が出来て61歳まで生き長らえたが、「あのまま日本の会社で働き続けたら」と考えると、それが最善の生き方だったとは思えないとも思うのだ。
憎きウイルスは「我が国の企業社会の文化を少しは見直しても良いのではないのか」と告げているような気がするのだが、如何なものだろう。念の為に確認しておくと「アメリカ方式を導入しようというのではない」のだ。あの個人の能力に依存する方式は精々何らかの参考にする程度の事だろう。短兵急に諸外国に合わせて9月入学を考えるのが得策かどうかという議論と同じではないか。
私はこれまでの所では「新型コロナウイルスが明らかに我が国の企業社会では働き方と、出勤の状態に変化を与えている」と思って見ている。現職を離れて26年も経ってしまった私には実感がないので、この変化が一過性なのか恒久的なものになって行くかを予見できるだけの材料の持ち合わせはない。だが、リモートウワークだかテレウワーキングか知らないが、こういう仕事の進め方の形態を続ければ、我が国の会社組織が抱えてきた人員が過剰であり、1人でも処理できかも知れない仕事を複数でやって来たようだったと、図らずも立証してしまう結果になるのではと見ている。
私は22年以上もの間、アメリカの会社組織の中で「我が国とアメリカの企業社会における文化の違い」を十分に経験したので、繰り返してその相互の違いを振り返ってみよう。我が国では「皆で一緒にやろう」という精神が基調にあり、全員が同じ目標を目指してお互いに補い合って仕事を進める形になっていると思う。これに対して、アメリかでは「集団で事に当たろうという精神も意識もなく、事業部長がこれと見込んで採用した者毎に他の部員とも重複しないような職務内容記述書を与え、その能力と主体性に任せて仕事を進めさせていた。その結果として、その事業部の目標を達成させる方式だと思っている。
先日も同じ業界の古き友人に、ウエアーハウザーの頃には日本市場担当のマネージャーとして、秘書と2人で最高到達点として年間150億円ほどの売上高を達成してことがあったという回顧談を聞いて貰った。彼は「年中アメリカとの間を往復し、国内出張も多くて忙しいようだとは見ていたが、そこまでやっていたのか」と感心して貰えた。1990年代の事だから現在ではどれほどの金額になるか知らない。私の後継者は凄腕で市場の変化もあったが、5~6年ほどの間にこれを倍増させて見せた。これぞアメリカ式の個人の能力依存の見本のようなことだ。
念の為に、私の名誉の為に実績を回顧しておけば、売上数量を19年かけてアメリカのサプライヤー中では最も参入した時期が遅くて最弱の存在だった所から、10倍にさせたとだけは胸を張って言っておきたい。
私は何も集団を排して個人の能力に任せているアメリカ式を礼賛しようとは思っていない。それは、我が国とアメリカでは国として成り立ちが違うし、両国間には全般的に文化の違いが多過ぎるのだ。その違いを弁えずに簡単には他国の方式を導入しても、直ちに改革に結びつくとは考えられないのだ。私は迂闊にも「アメリカと雖も同じ会社ではないか」と思っていたが、現実にアメリカの会社の文化と組織に直面してみると「これはえらいところに来てしまった」と痛感させられた。
21世紀の現在では広く知れ渡っているだろうが、そこには終身雇用も年功序列もなく「頼りに出来るのは自分だけ」という個人の実力だけが唯一の武器であり、事業部長に評価されないとアッサリ馘首される世界だったのだ。何としても年俸に見合うだけの実績を達成する以外に生き残りの道はないのだ。その環境に入った以上は「自分で自分に命令を発して毎日最善を尽くしていく以外の方法はなく、同じ部内の誰もが他人の心配などしてくれないのだ」と覚悟してやっていただけだった。
それだからこそ、副社長兼事業部長ともなれば年俸に見合うだけの成果を挙げる為には、朝は6時にでも7時にも出勤し、夜は何時になろうとも仕事を終わらせるまでは社内に止まっている。それに加えて出張も多く、土日の出勤も辞さないと言う態勢で仕事をしているのだ。結果として、19年間で私の上司3名は家庭を顧みる時間が不足して離婚という状態。私でさえも、東京にいる間は朝は遅くとも7時45分に出勤して帰宅は20時や21時は当たり前だった。
即ち、アメリカ式は全てを任されたマネージャーの自己管理と裁量の範囲内では、言うなれば「どう出社して勤務しようと勝手だ」という事なのだ。だが、この勤務態勢は身体的にも心理的にはかなりきついというか、常に緊張感を維持していなければならなかった。だが、日本式との違いはその日に為すべき事が終わってしまえば、午後3時でも帰宅する事も出来るし、間に合わなければ土日にも出向いて残務整理をしていたものだった。
出退勤時刻は各人の仕事の都合次第であるし、やるべきことが出来ていれば良いのだ。従って我が国のような「遅刻」という制度などないのが「我が国との企業社会との文化の違いの象徴」だと思っている。私は我が国のこの遅刻という制度を、新型コロナウイルスを制圧できるかでの間は緩めて置けば、朝のラッシュなど多少は緩和できるのではと考えているし、社員にも自分の時間の管理が可能になるのではとと見ている。
ではあっても、同じ組織内の誰とも重複しないで仕事をするアメリカ式を真似ても、我が国の風土と企業社会の文化に俄に合う事はないだろうと思う。だが、「皆で一丸となって」という我が国独得の美風を何時までも尊重して全員を縛っておく文化を再検討しても良い時期が来ているような気もするのだ。私は偶々アメリカ式に合わせる事が出来て61歳まで生き長らえたが、「あのまま日本の会社で働き続けたら」と考えると、それが最善の生き方だったとは思えないとも思うのだ。
憎きウイルスは「我が国の企業社会の文化を少しは見直しても良いのではないのか」と告げているような気がするのだが、如何なものだろう。念の為に確認しておくと「アメリカ方式を導入しようというのではない」のだ。あの個人の能力に依存する方式は精々何らかの参考にする程度の事だろう。短兵急に諸外国に合わせて9月入学を考えるのが得策かどうかという議論と同じではないか。