「休日」と「休暇」の文化比較論:
またもや「ゴールデンウィーク」とやらが始まった。いきなり嫌われると承知で英語の講釈に行けば、”Golden week holidays“と言わないことには外国人には意味が通じないと思うよ。さらに嫌われることも追加すれば、”holiday”は「ホリデイ」という発音でなく「ハラディー」なのだ。嘘だと思うのならばUKのOxfordの発音記号を見てほしい。「ホリデイ」は勝手にローマ字読みしただけのことだ。
話を本論に戻そう。当家では渋滞や混雑に怖じ気づいた訳ではないが、未だ嘗て黄金週間中にもお盆の間にも一度も出かけたことはない。大勢に揉みくちゃにされるのは好みではないし、他人と同じことをやっているのも面白くないからだ。但し、理解していることは「皆で一緒にやろう」という我が国独自の思想というか文化がここでも働いているという点」である。いや、他人と同じことをやっているという安心感のだろうかとも言えるか。
従来から我が国で勝手に認識されていたことに「アメリカの会社では各自が自由に自分で休暇を取りたいときに、当然の権利を行使して好きな場所に家族で出かけて楽しみ、且つ所謂『リフレッシュ』してきて、再び仕事に精を出せるようになる」という見方があると思う。要するに「個人が自由に権利を行使できる世界である」というように、羨望の感を持ってアメリカの企業社会を見ているのだと思う。
ところが、である、実際に彼らの世界に入ってみれば、そういう「羨ましい」ように見えていた休暇の実態は、全く違っていたのだった。何処がどう違うのかを一言で言ってしまえば「job型雇用」の世界では雇われた個人が、その者のみに割り当てられた職務を遂行しているのであり、そこには部下やアシスタントの手助けも援助なく、何から何まで自分一人でやり遂げなければならないのであるから、休めばその間の業務は停滞してしまうのだ。
表現を変えれば「職務内容記述書」に記載された項目の他に、新機軸を出していくように粉骨砕身、オフィスに何時まで残っていることも、土日も休日も出勤してやるべきことをやりきらなければ、減俸か鶴首が待っている世界なのだ。採用した事業部長はその者の力量と経験と自己申告した能力を買って使っているのだし、その年俸に見合う成績が挙がってこなければ”You are fired.“を宣告されても逆らえない世界なのだ。
そんな過剰かもしれない業務を背負って「疲れたから有休でも取って心身を立て直してくるか」というような余裕が簡単に出てくる世界ではないのだ。中学の頃に英語の教科書にあった”Don’t put off till tomorrow what you can do today.“を地で行く世界なのだ。いかも、行動予定というかアポイントメントは秘書さんの手中にあるので、彼女が建ててくれたスケジュールもその通りに消化せねばならないのだ。
だが、何ヶ月か何年か知らないが、その担当者(マネージャーの場合もある)が仕事に慣れてくれば、多少の余裕も生じてくる。そこで初めて「有給休暇」(=paid holiday)でも取って、ハワイでも何処でも家族を連れて行こうかという風に頭が回ってくるようもなる。そして、秘書さんの了解を取って、例えば1週間空けたとしよう。
ここで注目すべき事は「その間に秘書さんはマネージャーの仕事を代行することはしない」点のだ。何ならば「彼女はそんな判断業務までする為の給与などもらっていない」のだから。「こういうことが起きたら、このように処置してください」ということは頼めるが、それ以外に発生したことは「A社からこういう問題が提起された」か「B社でこういう品質問題が発生したので、休暇明けまでペンディングにしてある」等々のメモが残されているのだ。
即ち、1週間留守にしていた為に「残務」となってしまった業務を、夜を日に継いで処理していかねばならないのだ。こればが「ワンオペ」になっているアメリカのビジネスの世界の決まり事なのだ。我が国の組織内のように「上司や同僚に迷惑がかかるから」とか「得意先にご迷惑が及ぶのでは」などということなど一切考えない。尤も、取引先には「休暇を取りますから」と事前に了解を取っておけば、お互い様のことだから理解してもらえるということもある。
解りやすくなると思って言えば「休暇を取る」ということは、あくまでも個人の責任の範囲の問題であり、他人というか同僚には殆ど関係がないと言って誤りではないと思う。我が事業部では私は東京駐在で日本市場担当のマネージャーだった。本部には「アメリカ本土とヨーロッパとオーストラリア担当のマネージャー」がいた。お互いの担当地域は全く重複していないので、日頃の情報交換など滅多にしたことがなかったし、彼が休暇を取っても何ら支障がなかった。
何事も個人とその能力が基準というか単位になって業務を遂行するのは、慣れてしまえば簡単だが、誰にも助けを求められないという点では重い「責任感」を背負っている感から逃れられなかった。だが、我が国の組織内では誰か、何方かが助けてくれるようになっているし、滅多に取引先にまでご迷惑をかけることはないだろう。どちらの方式が良いかなどを論ずる気はない。根本的に違う文化なのだから。
敢えて言うと、私は慣れてしまった後では「個人の責任で有給休暇を取る(取れる)アメリカ式の方」がやりやすかった。だが、アメリカの管理職の中には「行く先」と「電話番号」と秘書に伝えていく者もいた。それでは休暇にはならないという見方もあった。
最後に私の失敗談も。未だ藤沢に住んでいた1987年以前のこと。本部の都合でどうしてもお盆の期間中に本社に向かったことがあった。往復の航空券は取れた。だが、悲劇は成田に戻って起きた。当時はトローリーケースなどない時代だから、スースケースもガーメントバッグもブリーフケースも自分で運んだ。それにはカートが必要だった。
散々待たされて荷物が全部揃ったところで、カートの順番待ちが1時間並ばされた。通関して外に出られて、藤沢まで帰れるバスも電車も全て1時間以上の待ち時間。暑さと人混みに中で辛抱し続けて、藤沢まで帰れたら最早深夜を回っていた。懲り懲りだった。この経験も「全国民が一斉には休む時には出かけてはならない」という教訓になった。矢張り、休みを取って行動するのには、個人単位の方が良いと思うのだ。