こういうことを言っても良いかな?
私は実は28歳まで大学のコーチを非公式に続けてきたが、それはOB会の最長老に「何れは現在の他の大学の出身の監督を君に替えるから」との口約束というか暗黙の了解の下でのことだった。それが実現しなかったのは、その前に私が会社の仕事にも励まねばならない時期で無理が祟ってウイルス性肝炎に冒されて倒れたからだった。
何を言いたいのかといえば「私にも監督含みのコーチ業の経験がある」ということ。私はA型である為か極めて几帳面で細かいことまで指導する(関東大学4部リーグ所属の)母校のサッカー部の学生たちにとっては厳しすぎるコーチだったようだった。故に一度は学生たちがOB会長にコーチ忌避を訴えられたほどだった。だが、それでも中学から高校の全国優勝を目指していた蹴球部の練習から見れば「ほんの軽い練習であり指導法だった」に過ぎなかった。勿論、殴ったり蹴ったりすることなど夢にも考えたことなどなかった。
後年、私は故篠竹監督の指揮の下に日本大学フェニックスが甲子園ボウル6連覇を果たし損なった時や、ライスボウル(日本選手権)3連覇した頃の練習を具に見ている。そのピーンと張り詰めた緊張感で張り詰めた雰囲気は見ている方ですら緊張させられるほどの厳しさとでもいうか、仮令練習中でも些細な失敗や気が抜けた行為が許されない凄みがあった。
その中で失敗でもしたら如何なることになるかをここで述べる必要などあるまい。その雰囲気を知らない方々に何故そういう事態になったかを解説する意味はないと思う。あの雰囲気にはもう一度触れてみたいと願っても、もう不可能なのだから。社会人までを倒して全国を3年も連続して制覇する為にはそういうこともあるということだが、そういうことを是認するとかしないとかいう議論をする気はない。そこまでのことを取材に来た記者に出会ったことがなかった。それで何が解るのかという気がする。
そういう時代もあったのだが、それは1990年辺りまでのことであり、今日のように何かというと「暴力は絶対駄目だ」という何か当時とは非常に世間の見方やマスコミの論調が変わってきて時代になったようである。先ほど森末慎二が言っていたが「体操の指導中にここが悪いと言って選手の体に触れても駄目な時代」となってしまったのだそうだから、幾ら言わば被害者の側にある宮川沙江さんが是認しても、コーチが抹殺される時代なのだと解る。
今や私が知っている監督やコーチたちの多くは50歳以上であり「旧世代?の手を上げる指導法を是とするか、必要悪である」とする年齢層に属している。実際にコーチをしてみれば解ることだが、夢中になって一所懸命に教えている最中に「こうしろ」と強調し、厳しく言ったことが実行されなかった時に「感情を抑えること」がどれほど難しいかは解るはずだ。その経験がない方々が寄って集って「暴力はいけない。許されない」と声を大にして言われても如何ともしがたいと思わずにはいられない。
それに加えるに、監督だのコーチなどは自分の経歴と指導法に揺るぎない誇りと自信がなければやっていられない仕事である。それだけではない、今や「監督と選手のコミュニケーションが云々」などと言われる時代になったようだから、選手が「コーチでも監督にでも自分から異議や不服の申し立てをしても良いのだ」と思っても不思議はないのかも知れないとすら考える。偶然の一致だろうが、そういう意志を表現すべく記者会見を開いたのは男女ともに宮川姓だった。
そういう意見の発表の仕方が良いか悪いかは別にして、指導者側に思い上がりというか「我こそは」と思い込ませるだけの実績があったのは確かだ。恐らく、レスリングの栄和人にしても塚原夫妻にしても自分たちが(世間の常識から見れば)思い上がっていた世間知らずだという自意識など欠片もなかったのだろう。でなければ「全部嘘」などと言える訳がないのだ。同時にきついことを言えば周囲に彼らに忠告できる者がいなかったのも遺憾だし、放置した協会も無能だった。
だからという訳でもないが、私は選手上がりが協会の運営に携わるのは考え物だと言うのだ。「またアメリカの話か」と言われても良いから、運営の責任者には選手系経験者でもMBAを持つ者(日本の大学院にもそういうコースはあったと思うが)を当てるべきだと思う。「名選手必ずしも名コーチたり得ず」とは言うが、名選手か名コーチが名経営者乃至は統治能力が備わっている訳ではないという実例が多過ぎはしないか。マスコミはその辺りが解っているのかいないのかが知りたい。彼らはそこまで論じるべきではないのか。
私は実は28歳まで大学のコーチを非公式に続けてきたが、それはOB会の最長老に「何れは現在の他の大学の出身の監督を君に替えるから」との口約束というか暗黙の了解の下でのことだった。それが実現しなかったのは、その前に私が会社の仕事にも励まねばならない時期で無理が祟ってウイルス性肝炎に冒されて倒れたからだった。
何を言いたいのかといえば「私にも監督含みのコーチ業の経験がある」ということ。私はA型である為か極めて几帳面で細かいことまで指導する(関東大学4部リーグ所属の)母校のサッカー部の学生たちにとっては厳しすぎるコーチだったようだった。故に一度は学生たちがOB会長にコーチ忌避を訴えられたほどだった。だが、それでも中学から高校の全国優勝を目指していた蹴球部の練習から見れば「ほんの軽い練習であり指導法だった」に過ぎなかった。勿論、殴ったり蹴ったりすることなど夢にも考えたことなどなかった。
後年、私は故篠竹監督の指揮の下に日本大学フェニックスが甲子園ボウル6連覇を果たし損なった時や、ライスボウル(日本選手権)3連覇した頃の練習を具に見ている。そのピーンと張り詰めた緊張感で張り詰めた雰囲気は見ている方ですら緊張させられるほどの厳しさとでもいうか、仮令練習中でも些細な失敗や気が抜けた行為が許されない凄みがあった。
その中で失敗でもしたら如何なることになるかをここで述べる必要などあるまい。その雰囲気を知らない方々に何故そういう事態になったかを解説する意味はないと思う。あの雰囲気にはもう一度触れてみたいと願っても、もう不可能なのだから。社会人までを倒して全国を3年も連続して制覇する為にはそういうこともあるということだが、そういうことを是認するとかしないとかいう議論をする気はない。そこまでのことを取材に来た記者に出会ったことがなかった。それで何が解るのかという気がする。
そういう時代もあったのだが、それは1990年辺りまでのことであり、今日のように何かというと「暴力は絶対駄目だ」という何か当時とは非常に世間の見方やマスコミの論調が変わってきて時代になったようである。先ほど森末慎二が言っていたが「体操の指導中にここが悪いと言って選手の体に触れても駄目な時代」となってしまったのだそうだから、幾ら言わば被害者の側にある宮川沙江さんが是認しても、コーチが抹殺される時代なのだと解る。
今や私が知っている監督やコーチたちの多くは50歳以上であり「旧世代?の手を上げる指導法を是とするか、必要悪である」とする年齢層に属している。実際にコーチをしてみれば解ることだが、夢中になって一所懸命に教えている最中に「こうしろ」と強調し、厳しく言ったことが実行されなかった時に「感情を抑えること」がどれほど難しいかは解るはずだ。その経験がない方々が寄って集って「暴力はいけない。許されない」と声を大にして言われても如何ともしがたいと思わずにはいられない。
それに加えるに、監督だのコーチなどは自分の経歴と指導法に揺るぎない誇りと自信がなければやっていられない仕事である。それだけではない、今や「監督と選手のコミュニケーションが云々」などと言われる時代になったようだから、選手が「コーチでも監督にでも自分から異議や不服の申し立てをしても良いのだ」と思っても不思議はないのかも知れないとすら考える。偶然の一致だろうが、そういう意志を表現すべく記者会見を開いたのは男女ともに宮川姓だった。
そういう意見の発表の仕方が良いか悪いかは別にして、指導者側に思い上がりというか「我こそは」と思い込ませるだけの実績があったのは確かだ。恐らく、レスリングの栄和人にしても塚原夫妻にしても自分たちが(世間の常識から見れば)思い上がっていた世間知らずだという自意識など欠片もなかったのだろう。でなければ「全部嘘」などと言える訳がないのだ。同時にきついことを言えば周囲に彼らに忠告できる者がいなかったのも遺憾だし、放置した協会も無能だった。
だからという訳でもないが、私は選手上がりが協会の運営に携わるのは考え物だと言うのだ。「またアメリカの話か」と言われても良いから、運営の責任者には選手系経験者でもMBAを持つ者(日本の大学院にもそういうコースはあったと思うが)を当てるべきだと思う。「名選手必ずしも名コーチたり得ず」とは言うが、名選手か名コーチが名経営者乃至は統治能力が備わっている訳ではないという実例が多過ぎはしないか。マスコミはその辺りが解っているのかいないのかが知りたい。彼らはそこまで論じるべきではないのか。